むかしむかしあるところに、国民的民話というものがありました。

 低学年の子どもたちになぞなぞを出すとこんな感じになります。
 
K村「中に時計が入ってる食べ物なーんだ?」
A児「すいか!」
K村「どこに入ってるんだよ」
B児「ドーナツ!」
K村「……そりゃ、その気になれば穴に入るだろうけどさ」
 
 そしてこのニュースですよ。
 
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100424/edc1004241836002-n1.htm
「桃太郎のお供は?」「アンパンマン!」 昔話知らない子供たち
 
 なんでも、昔話を知らない子どもたちが増えているのだとか。
 タイトル通りの珍回答もちらほらと見られたのだそうです。
 
 調査にあたった筑波大学大学院の徳田克己教授(子供支援学)は、そういう回答について
「物語をキャラクターでアレンジした人形劇などのイベントや、絵本の影響ではないか。
 アレンジを否定はしないが、子供たちが原作をきちんと理解してからでないと、誤解して育ってしまう」

 
 と述べるわけですが、たぶんそれ違う気が。
 
「時計が入っている食べ物は?」
 と問われたA児が「すいか」と答えたのは、明らかに完全なあてずっぽうですよね?
 それを
「なぜすいかなのか」
 と分析しても不毛だと思います。
 
 ……あ、ちなみに正答はホットケーキです。ホッ時計キ。
 
 同様に、
「桃太郎のお供は?」→「アンパンマン!」
 というのは、単にその子が桃太郎を知らないだけのことであって、
「なぜアンパンマンなのか」
 を分析しても不毛だと思います。
 
 たぶんその子ら、“調査”をクイズの一種だと思ったんですよ。
 基本的にはその通りだし。
 
 かぐや姫アンパンマンの指人形で演じてる写真が載ってますが、むしろ私は竹とかを手作りした先生方の労力がすごいと思います。
 桃太郎だの浦島太郎だのの指人形をいちいち全部買ったり作ったりするほど予算も時間もないだろうし、代用は仕方ないかと。
(ペープサート(紙人形)なら作れるかも知れないけど、指人形より表現力が落ちるしなあ……)
 
 ともあれ、
「浦島太郎はアンパンマンに乗って竜宮城に行った」
 とか
「お腰に付けたシチュー」
 とかいう誤答は、誤答の内容を分析しても不毛なのであって、問題は
「とにかく子どもが昔話を知らない」
 ということに尽きると思います。
 
 確かに知らないですよ。
 私が初めて1年生を担任した時(今は4年生になってますね)も、子どもたちが鶴の恩返しとかさるかに合戦とか知らないのに困りましたもの。
(さすがに桃太郎の知名度は高かった)
 
 ……でも……まあ、仕方ないと思うんです。
 
 昔話が誕生した頃は、みんな日本の昔話しか知らなかったわけですよね。
 江戸時代の日本に、シンデレラとか白雪姫とか知ってる子どもがいたとは思えない。
 
 でも、今の我々は、日本の昔話に加えて、グリムやイソップやアンデルセンや、そしてドラえもんアンパンマンを知っているわけです。
(そして、「白雪姫」と言われて思い浮かべるイメージは、ほぼ間違いなくディズニーのアレなのですが)
 
 触れられる情報の量は増えたわけですが、しかし幼児期はあまりに短く、その中で実際に触れることのできる情報には限りがあります。
 何か新しい物が入ってくれば、別な何かがこぼれ落ちてしまうのは当然のことです。
 
 現に、今の大人だって、金太郎がクマと相撲をとる以外に何をしたのかほとんど知らないはず。
 分福茶釜も海彦山彦も、詳しい話は知らない大人が多いのではないでしょうか。
 
 それより何より、かつては日本各地に「地元の民話」というものがあったはずなのですが、私たちのほとんどはそれを知りません。
 自分が住む地域の民話を知らない一方で、岡山の昔話が国民的民話として受け入れられている(すくなくとも今までは)わけです。
 
「さるかに合戦」だって、一般に流布している話では、かにに加勢するのは「栗・蜂・臼」ですが、これも地方によって大きなバリエーションがあります。
 牛糞が登場したり、包丁が出てきたり。
(そう考えると、桃太郎のお供がアンパンマンだっていいじゃないか、という気もしますが)
 
「日本人としての教養の問題だ」
 なんてことを言う人もいますが、教養なら社会に出るまでに身につければいいのであって、幼児期にやるべきことはもっと他にあります。
 
 幼児期に何をすべきなのか、と言えば、たぶん情操教育でしょう。
 
 そして、徳田教授が
「日本の昔話には年寄りをいたわる、うそをつかないなどの道徳が自然に身に付くものが多く、大切にしてほしい」
 と言っている通り、昔話にはそういう情操教育的な役割が期待されていたのです。
 
 しかし、“道徳”は、時代と共に変容していくもの。
(昔話が成立した時代には、社会も道徳も、何世代にもわたって変化しないものだったのですが……)
 ならば、情操教育に用いられる物語が変化していくのも、やむを得ないことではないでしょうか。
 
 ……まあ、そこで何を選ぶか、という選択肢が多様化しているわけで、「ねないこだれだ」を読む親御さんもいれば「ぐりとぐら」にする方も、「さっちゃんのまほうのて」を選ぶ人もいるわけです。
 
 そうやって、
「みんなが知っているお話」
 というものが存在しなくなるのは、教師としてはたまに不便なんですけどね。
 
 いずれは、
「みんなが知っている」
 というのは、教科書に載っている話しかなくなるのではないかな、と思っています。
「ごんぎつね」とか「スーホの白い馬」とか。
 
 結局のところ、
「みんなが身につけているべき知識」
 があるとすれば、それは義務教育で扱われるものなのですから。
 
 ともあれ、自分たちみんなが知っていることを、新しい世代が知らないからと言って、重大な問題が起きているかのように騒ぐべきではない、と思います。
 
 何を知らないかではなく、彼らがその代わりに何を知っているのかを問題にすべきなのです。

 ……下の世代が知っていることは、しばしば上の世代が知らないことなので、上の世代は「彼らが知っている」ということに気がつけないのですが。