後半にスポットが当たる、1年生のあやめさんという女の子のことです。
(短編版は、基本的にこのあやめさんのエピソードだけを取り上げてまとめたものです)
この子が、演奏会の練習で、指導していた榎本先生からかなり厳しく叱られて泣いてしまう場面があります。
ですが、あれは、シンバルを叩くタイミングを間違えたから叱られたのではありません。
あれは、練習しなかったから叱られたのです。
(同じ映画を見た本校の主任は、端的に「努力しなかったから」と表現していました)
練習のシーンの前に、靴箱にメモ(榎本先生からの手紙)が貼られているシーンがあります。
担任の渡辺先生が、
「あやめさん、お手紙が貼ってあるよ」
と声をかけます。

(画像は短編版から。以下同じ。なお、当然ながら劇場版には英語字幕はありません)

これはつまり、この時点であやめさんが結構練習をサボっていることを示しています。
言葉は柔らかいですが、
「最近来てないよね。先生にはわかってます。今日は来なさいよ」
という警告なのです。
しかし、次のカットで、あやめさんがランドセルをロッカーに入れ終わらないうちにチャイムが鳴って、担任の先生が
「急いでー、1時間目が始まりまーす」
と声をかけます。

つまりあやめさんは「警告されたのに朝の練習に行かなかった」のです。
あやめさんがランドセルを片付けるのが遅い……たぶんクラスで一番遅いことは、もっと前のシーンで示されています。
「みんなのお手本目指して頑張って」
って言われるシーン。
劇場版だと、確か椅子の上で海老反りしたりしているので、単に不器用だとか動作が遅いとかではなく、わりとだらだらしていて間に合わないタイプ。
いるいるそういう子。
そして、そんなあやめさんの様子を廊下からそっと見ている榎本先生。

この時点で、榎本先生は、
「あやめさんは一回厳しく叱っておかなければ」
と考えていたのだと思います。
そこへ案の定練習でミスしたので、それをトリガーにして一連の叱られが発生したのです。
失敗したから叱られたのではなく、もう叱られることは決まっていたのです。
オーディションに立候補して、いわば他の子を押しのけてシンバル担当になったあやめさん。
それが、合格したら練習に来ない(オーディション前は、休み時間に一生懸命練習していたのに)。
まだ上手に弾けるわけでもない。
楽譜を見ないと弾けないのに楽譜を持ってこない。
そりゃまあ叱られますわな。
榎本先生が
「オーディションに受かったらそれでおしまいなの? それがゴールなの? 違うよね?」
という奇妙な叱り方をするのは、このへんの文脈あってのことなのです。
それに、他の子たちも、
「先生、今日もシンバルの子来てません」
くらいのことは思うわけだし。
その手前、厳しく叱っておかないと、
「じゃあ私も練習行かない」
「ぼくはお昼休みにがんばって練習してるのにあやめさんはずるい」
とかなってしまうし。(同調圧力!)
とある先生は、あやめさんが叱られるシーンについて、
「でも、保護者から苦情がくるのはあそこだよね」
と言っていました。
「榎本先生にすごく厳しく怒られて、もう練習したくない、学校行きたくないって言ってます!
ウチの子は1年生なんだからもっとやさしく指導してください!」
的な。
まあ……正直、ちょっと厳しく言い過ぎじゃねえかな、と思わなくもない。
(榎本先生はあやめさんの担任じゃないから加減を誤ったんじゃないかという気もする)
ただ、子どもを叱らない、失敗もさせない、楽しい楽しいことばかりの学校が正しいのか、というと、そうでもない気がします。
林間学校の場面で、夜中に男の先生2人が話していたことが印象的でした。
「……もっと事前にしっかり指導しておけば、子ども達は叱られることもなくて、もっと楽しい林間学校になったのかな、って思うんですよ」
「うーん……。でも、何でもかんでも先回りして注意しておいて、子どもが何も失敗しないようにするのがいいのか、ってこともあるよね。
……俺、小学校の時、買ってもらったばかりの彫刻刀で家の壁に穴開けて、めちゃくちゃ怒られて。
その時の罪悪感を40になっても覚えてるわけでさ」*3
うわあBLだつまり、
「失敗して叱られることで学ぶこともある。子どもの失敗を避けるばかりが教育ではない」
という視点ですね。
大人になるまで叱られたり挫折したりする経験をせずに育った人は、社会人になってすぐに折れてしまう、と言われます。
だから、小学校のうちにそういう経験をしておくことも、時には大切なのではないでしょうか。
こう言うと、なんか、
ブラック企業の
「ウチでやっていけないような奴は、どこに行っても通用しないぞ!」
みたいですけど。
ただまあ、学校は
教育機関なので。
大人が職場で失敗したらそれはただのトラブル、周囲の迷惑で、
「それを通して本人が成長する」
とかは余録に過ぎません。
しかし、学校で子どもが失敗するのは通常業務のうちで、
「それを通していかに子どもを成長させるか」
が教師の腕の見せどころ、みたいなところがあります。
だから、映画でも、オーディションに落ちてしまった子や、叱られてしまったあやめさんへのケアがとても手厚いのです。
(オーディションというのは明らかに落ちる子の方が多いわけで、挫折の機会を積極的に提供しているともいえる)
体育館での練習、先生があやめさんの隣に、目の高さで楽譜を持って待機してるんですよね……。
こういう、
「失敗した後のフォローが仕事」
な大人がいる環境で失敗の練習をしておくのは、やはりとても大事なことなんじゃないかな、と思います。
「ほめて伸ばす」「成功体験を積ませる」みたいなことはよく言われるし、もちろん非常に重要なことなのだけれど、その過程で、叱ったり、失敗させたりすることを教師は恐れてはいけないのだと思いました。
だからこそ、教師は、子どもを叱るときは、ちゃんと意図的・計画的に叱らなければならないのだ、と改めて考えさせられます。
林間学校の場面でも、
「次に繋がるように叱る」という話がありました。大切なことですね。
榎本先生は厳しいけれど、それでも、
「これからどうしますか?」「先生、その言葉を信じるよ?」
と、ちゃんと未来につなげています。
「お前はダメだ! 怠け者だ!」
で終わることは決してしない。
ところで、あの「オーディション」、短い時間で一発で合否を判定してますけど、あれって合否は半ば事前に決まってるんじゃないかという気がします。
そもそも、あの合奏のシンバルって、そこまで難しい楽器じゃないんですよね。大太鼓もタンバリンもトライアングルもそうですけど。
演奏の難易度で言ったら、「その他大勢」扱いされている鍵盤ハーモニカの方がよっぽど難しい。
*4
ただ、シンバルや大太鼓は数が限られているし、大きくて目立つのでやりたい子が多いだけで。
だから、あやめさんに挑戦させて、成功体験を積ませるにはちょうどいい楽器だったんじゃないかと思います。
そう考えると、あのオーディション、最低限のリズム感があるか、ある程度練習はしてきたか、というのは一応見ているけど、実は事前に
「この子…かこの子かこの子にやってもらおう。この機会に自信を付けてもらおう」
くらいの絞り込みはしてるんじゃないかな、という気がします。
すみれさんの話に比べると些細なのですが。
6年担任の坊主頭の先生(体育主任?)が、年度当初の学年集会で
「君たちには自分の殻を破って欲しい」
と言って、でっかい卵(中身が空なのでレプリカだと思う)を額で割ってみせるシーンがあります。
その後、他の先生からそのことを叱られているのですが、あれを
「スタンドプレーを咎められている」
と解釈するレビューを見かけました(うちの母からも「ああいうのやっちゃダメなの?」と尋ねられました)。
あれはそうではなくて、
「子どもたちがはしゃいだ雰囲気になったまま話を終えた」
ことを注意されているのです。
お笑いだったら、お客さんが爆笑したところで「お後がよろしいようで」で終わっても全然問題ないのですが、学校の講話は違います。
子ども達がはしゃいだ気持ちになった状態で放っておくと、ぴょんぴょん跳ねたり大声を出したり近くの子にちょっかいを出したりします。
休み時間ならそれでもいいのですが、集会でそれをやると、後の活動に影響が出ます。
(この場合、後の活動は「教室に戻る」だった)
それで、廊下を走ったり大声を出したりしたので(その様子がちょっと映る)、
「6年生がああやって廊下で騒いでいると、下級生が『なんだ、最高学年ってあんなものなのか』と思ってしまう」
と注意されたわけです。
話の途中で派手なデモンストレーションがあって、子ども達の気持ちを惹き付けるのは全然悪くありません。
ただ、話の最後はちゃんと落ち着いた雰囲気で締めないといけない、という話です。
静かに歩けって言われてるのに廊下でぴょんぴょんしたり、泣いてる子を心配したり、ペアで放送委員をやったり(そして男の子の方は原稿を読むのはうまいけど機械の操作はペアの女の子に任せきりで、コロナ分散登校の時にわからなくなって困ったり)、校門であいさつ運動をがんばったり……。