楽しくて為になる教育娯楽作品。

狗去豬来(犬が去って豚が来た)
 
台湾の本省人(戦前から台湾にいた人)が、日本軍が去って国民党軍がやって来たのを表した語。
犬は吠えてうるさいし時には噛みつくが、番犬として役に立つ。豚は……。

学校に勤めてなどいると、「教育的効果に配慮した」ビデオや映画、コミックといった文化作品を目にする機会も多くあります。
 
こういったものの存在は、なにも現代日本に限った話ではありません。
子どもたちへの配慮・期待というのは、いつの時代も変わらないものです。
 
極端な例を挙げるなら、グリムなどの童話作品も、「寓話」であって、子ども向けのエンターテイメントの体裁をとりつつ、道徳的観念の注入を狙ったものであるわけです。
 
そういった観点から、今回、少し前の日本の教育的漫画*1作品をご紹介します。
 
この作品、主人公は、野良犬として育った一匹の犬です。
 
しかし、誠実かつ快活に、友人たちとも協力して物事にあたった結果、周囲からも認められ、ついには大尉にまで昇進するという……
 
……いや、「のらくろ」ですが。 なにかご不審の点でも。
 
えー、本作の教育的なことといっては誰もが認めるところで。
 
連載時には、のらくろの所属する「猛犬連隊」は、時々侵略してくる山猿軍と小競り合いをする程度の活動しかしておらず、描かれる内容は主としてのらくろの軍隊での日常生活でした。
 
しかし、単行本向けの書き下ろしでは、猛犬連隊は大陸へ進出。熾烈な戦いを繰り広げます。
 
大陸で戦う相手は山猿ではなく豚。
  
……どこの大陸なのかは知りませんよ?
 
知りませんが、地名は「土古豚城」など全部漢字。
敵は、指導者である「豚勝将軍」以下、みんな「〜〜アルよ」としゃべったりします。
 
彼らは、同じ国の住人である羊たちを圧制下においており、犬の国は、羊たちが独立国家を築くのを助けるために戦うのです。
 
そう、五族協和の王道楽土建設のために!
 
……えーと。
 
しかし、真の敵は豚ではありません。
豚たちを背後で操る、北方の熊の国こそ、真の敵なのです!
 
ほーら、なんて教育的な。
 
……とまあ、全体的な構成も大変「教育的」なのですが。
 
今回、特に「のらくろ曹長」所収のエピソード「陸海軍」をご紹介したいと思います。
 
猛犬連隊の駐屯地に、二匹の子犬が遊びにやってくるところから物語は始まります。
そのうち一匹は、一つ前の話で初登場した、ブル連隊長の息子です。
 
ところが、この子どもたち、駐屯地を見て回っているうち(「あつちで鐵砲を射つて演習してゐるよ」)に、ケンカをはじめます。
 
「陸軍はいゝね 僕も大きくなつたら お父さんのやうに聯隊長になるんだ」
「僕は海軍になりたいよ 艦長になつて 軍艦を指揮するんだ 海軍の方が ずつといゝよ」
「君がなんて言つたつて 陸軍の方が勇ましいよ」
「何オツ 海軍は軍艦で海の向ふの外國まで攻めていくんだものずつと勇ましいやい」
「なんだとウ お前なんかボロ軍艦にのつて沈没してしまへ」(殴る)
「やつたな お前なんか鐵砲彈の破片で氣絶しちまへ」(殴る)
「キャンキャン」
 
で、それを見たのらくろ曹長が、部下のデカ二等兵
「行つて止めてやれ」
と命じるわけですが。
 
デカ二等兵、いったん止めに入ったはいいものの、子どもたちに
「陸軍と海軍とどつちがいゝか爭つてゐたのだよ」
と言われて、
「そりや陸軍の方がずつといゝさ 海軍なんか水の上に浮いてゐるだけだ」
と答えてしまいます。
 
だって、猛犬聯隊は陸軍だもの。
 
「そーら見ろ 陸軍の方が強いやい」
「チエツ 嘘ばつかり言つてらア海軍がなけりや日本は外國へ攻めて行くことが出來ないぢやないか」
「この小僧 生意氣な奴だな」
 
子ども相手に身構えるデカ二等兵
しっかりしろよ。
 
さらっと「日本は」とか言ってますが気付かないふり。
 
そこへ、
「オイオイ子供を相手に何を怒つてるんだ」
と言いながら様子を見に来るのらくろ
 
ところが、子どもたちの片方が連隊長*2の子どもなのを認めるや、そっちを抱き上げて
「さうですとも坊ちやんの言ふ通りです海軍なんかより陸軍の方がいゝです」
とか調子のいいことを言って歩き出します。
 
で、もう一方の海軍ファンの子。
 
しくしく泣きながら、
「だつてお父ちやん僕海軍の方が好きなんだけどあの人達が陸軍の方がいゝつて言ふんだもの」
とか言って、お父ちゃんに泣きついています。
 
実はお父ちゃんはモール中隊長*3です。(顔がそっくりなんで、読者にははじめから想像がつくんだけども)
 
「よしよし そんなこと位で泣く奴があるものか陸軍でも海軍でも御國に盡す誠に變りはない」
とか、さりげなく正論を吐く中隊長。
 
それを見て、
「アツ それは中隊長殿のお子さんでありましたか」
とか言って、抱いていた子を放り出すのらくろ
 
「可愛い坊ちやんでありますね 海軍がお好きでありますか 海軍はいゝですねえ」
しっかりしろよ。
 
で、予想通り、放り出された陸軍ファンは、これまた泣きながらお父ちゃん(連隊長閣下)を連れて登場。
のらくろは二人の上司の子どもの板挟みになります。
 
のらくろさん 陸軍の方がいいつて言つたね」
「ハア でも つまりその」
「僕には海軍の方がいゝつて言つたよ」
 
そこで割ってはいる連隊長。
「何を言ふのだ 陸軍と海軍はいゝも悪いもあるものか 両方とも大切なのだ」
そして子どもたちが去った後、のらくろ
「お前だつて兩方が大切だと言ふことを子供に繁へるやうでなければいかんぢやないか」
と諭します。
 
さすがブル連隊長、言うことが違う!
のらくろも、
「ハイ これからは左様に申しますであります」
と、うなだれて反省します。(それまでかぶっていた鉄兜を取って手に持っているのが芸が細かい)
 
……わかりましたか? よい子のみんな。
陸軍と海軍どちらがいいか、という子どもたちの言い合いに、ブル連隊長はなんと答えましたか?
陸軍と海軍の働きについて、おうちの人とも話し合ってみましょうね。
 
……と、この話は、ある意味非常に良くあるタイプの「教育的」説話なのですが。
 
しかしよくよく考えると、陸軍と海軍の働きそのものには何一つ触れておらず、
「どちらも御國に盡す誠に變りはない」
という結論を導きうるような出来事は作中で全く起きていないことにお気づきかと思います。*4
 
だから、作中の子どもたちのケンカを別なものにして、周囲の大人の台詞を適当に差し替えれば、全く違う内容についての「教育的」説話として機能してしまいます。
「サッカーと野球どっちがいいか」
とか、
「男と女どっちがえらいか」
とか、
「公立学校と私立学校どっちが大切か」
とか。
 
「君がなんて言つたつて 私立学校の方が設備が充実しているよ」
「何オツ 公立学校は全國民に教育を施すんだもの ずつと勇ましいやい」
「なんだとウ お前なんかボロ校舎(以下略)」
 
そりや公立学校の方がずつといゝさ。
 
あるいは、
ユダヤ人絶滅と精神病患者絶滅とどっちが重要か」
でもいいわけで。
 
「お前だつてドイツ國家の為には兩方が大切だと言ふことを子供に繁へるやうでなければいかんぢやないか」
「ハイ これからは左様に申しますであります」
 
ハイルヒトラー
 
いや、私は、別に「のらくろ」や、作者である田河水泡氏をけなすつもりはなくて。*5
このような状況はのらくろに限った話ではないのです。
 
日本人にとって勧善懲悪の代名詞みたいになっている「桃太郎」だって同様で、鬼は作中で何も悪いことをしませんから、なんで「懲らしめられ」なきゃならないのか今ひとつ定かではありません。
その分、「プロパガンダ教育的配慮」にはもってこいなわけで、戦時中は、日本刀をかざした桃太郎が、鼻の高い鬼を討ち果たす図が盛んに用いられました。
それが、時代が違えば「民主主義桃太郎」とか、その時々に便利に使われたわけです。
 
その分、うさんくささも否めないわけで、
「南の島で平和に暮らす鬼のところへ乗り込んでいき、武力で服属させる桃太郎」
なんてのも、ある種陳腐ですらあります。
 
……まあ、桃太郎は、そもそも大和朝廷吉備国を平定したのを正当化する物語が元だという話もあるので、そうするとうさんくさくても仕方ないんですが。
 
で、こういった、うさんくさい「教育的配慮」というのは、今に至るもいたるところで散見されるわけで。
つまり何が言いたいかというと
「教育的映画作品」とか見るのは精神的苦痛だ
ということなんですが。
 
いや、もう。
 
「子ども向け」ってのを「子どもだまし」だと舐めて作ってる連中を残らず蹴飛ばしてやりたい。
 
なにしろひどい出来で。
 
こう、見え見えの結論に向かってあからさまな誘導をするやり方とか、わざとらしい演出とか、説明的で安っぽい脚本とか、うざい演技とか。
 
その上、「ほうら、こんなに教育的ですよ!」ってのを前面に押し出した結果、見るに堪えないものに。
 
「生きるって、命って素晴らしいなあ!」
 
うるせえよ。
 
私の経験だと、扱う内容が「バランスの良い食生活」とか「交通安全」「喫煙の害」とかだとまだ比較的マシなんですが、「生命尊重」とか「いじめ撲滅」「同和教育」とかになると、「見るのが苦痛」度が急上昇。
 
要するに、データや事実に基づいて説明ができるものは、(たとえ実際にはデータを提示しなくとも)わりとまともなつくりになっているんです。
ところが、内容が徳目に関わるものになればなるほど、ニセ叙情的というか、作り手の
「さあ感動せよガキども。そして道徳的に変容するのだ」
って意図が鼻につくというか。
 
私自身は、人命はもちろん大切だと思うし、いじめも部落差別も許せませんが、あの駄目なビデオも許せぬ。
 
中学の時、全校生が体育館に集まって同和教育のビデオを見せられて、講話を聞くという行事が毎年ありました。
 
ところがある年、あまりにあからさまな演出・脚本のおかげで、「泣かせどころ」とおぼしき場面で、全校生がげらげら笑ってしまうという悲喜劇がありました。
 
ああいうのの制作に関わる人間は、よっぽど子どもの知的レベルをバカにしているのか、さもなくば文科省文化庁等の外部発注・品質検査体制に機能不全があるのか。
まさか一般競争入札で決めたりしてるんじゃないだろうな。
 
ひょっとして、「わかりやすく教育的」でないと、制作・著作担当の役所に採用してもらえないから、ますますああいう出来になるんでしょうか。
だとすると、舐められてるのはある意味文科省とか文化庁とかなんだけども。
 
以前に勤務した学校では、毎週、給食の時間に、環境保護に関するビデオを流してたんですが、あれもひどい出来でした。
毎回毎回結論が、「どうぶつさんがかわいそうだから自然を守ろう」に帰着するという。
で、森を壊されたチョウチョたちが合体して巨大なチョウチョになって、環境を破壊する悪役を追い回したりするんですね。
 
双子の小美人は出てきません。
 
どうぶつさんを大切にする気持ちを育てるなら、あんな二昔前の塗り絵みたいなアニメを見るより、「生きもの地球紀行」のビデオでも流してやったほうがよっぽど実感がわくぞ。
 
チョウチョがかわいそうだから雑木林を切っちゃ駄目なのか?
みんなが虫嫌いの社会なら、森林はどうなってもいいのか?
 
「環境破壊は人間にとっても問題なんだ」っていう視点が、どうやら作った人間には全然ないらしくて、むしろこんなの子どもに見せたら有害なんじゃないかと思いました。
 
それに、「環境破壊は悪人がするものだ」という単純化も駄目だと思うな。
主人公である子どもたちの送る普段の消費生活そのものが、環境破壊の一因になっている、という点を織り込まない限り、環境破壊は他人事になってしまうんではないかと。
 
確かに小さい子が理解するには複雑なテーマではありますが、複雑なテーマを勧善懲悪に単純化して説明するのは問題の解決にならないと思うなあ。
農産物の残留農薬の問題を、「農薬を撒く悪いお百姓さんのせい」だって言ったって問題の解決にはならないわけで。
 
まあ、世の中、「子どものためになる」とわざわざ謳っている作品なんて、おおよそクズばかりですが。
 
本来、優れた文化作品であれば、必ず子どものためになるはずです。
それを、わざわざ「教育的」と銘打っている作品には、むしろ何か不自然な点があるわけで。
 
低予算のB級映画(B級ハリウッド映画じゃなくて、B級邦画)に「教育的」成分を混ぜ込んで「子どものためになる映画」と称するのは、いわばインスタント味噌汁に安い栄養ドリンクを混ぜて「体にいい味噌汁」と称するみたいなものです。
 
そんなものより、ちゃんとした味噌汁を飲ませてやるがいい。
 
他にも栄養が必要なら(=環境問題・同和問題その他に関する知識・理解が必要なら)、それはそれで教師が面倒を見ますから。
 
下手なストーリー仕立てにして子どもたちを教育しようと企まなくたって、上手に扱えば、社会的・科学的事実というのは、知的驚きを持って学ばせられるわけで。
NHKの番組とか、そういう工夫をしてますよね?
私ら教員だって、そういう驚きを味わわせられるような授業をしようと努力はしているわけですが。
 
しかるに、いわゆる「教育的」作品には、そういう知的なものが少ない。
というか、のらくろや桃太郎を例に挙げたように、扱っているはずの社会的・科学的事実(特に前者)を実は扱っていないものさえあるという。
 
教育する対象である子どもの知的水準(理解力とか、知的好奇心とか)を、もう少し高く見積もって欲しいな、と思うのでありました。
 
なぜなら、そうでないと、私が見るのが苦痛だから。

*1:「まんぐゎ」と発音すること。

*2:大佐。のらくろより階級が7つ上。……でいいんだよね?

*3:大尉。曹長のらくろより4つ階級が上。たぶん。

*4:思うに、このエピソードから導きうる教訓というのは、
「八方美人はいずれにっちもさっちもいかなくなる」
とか、
「上司の子どもだからといって媚びてはならない」
とかではないかと。

*5:田河氏は、のらくろを使って戦争賛美的なことを書くのはいやだったのだけれど、軍の圧力があってしかたなかったのだ、と言っています。
まあ、それも戦後になって、今度は平和主義者の圧力が強くなってからだけどなー。