先輩の先生から聞いた話。
「生命尊重の教育」の一環として、ウサギについて調べ、学校のウサギの飼育環境を改善しよう、という学習を行ったそうです。
で、色々調べた末にわかったのが、
「学校はウサギを飼うには向いていない」
だった、という……。
なんでこんな話を書くかというと、考えさせられる記事を読んだので。
「シートン俗物記」ブログ様、“いのちの奪い方”。
ずっと昔のことだ。子供相手のボランティアをやっていた時のこと。ある時、キャンプを行って、その夕食時にニワトリをシメて料理することになっていた。(略)「子供たちにたべる事の大事さを伝える」授業の一環として行ったものだ。
http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20080528/1211963763
で、保護者は口では「命の教育」に積極的なことを言うものの、いざ解体しようという段になると皆尻込みしてしまい、結局、大学生であった筆者がやることに。
そして、解体した肉を食べながら、
しみじみと固い肉を、自分が命を奪った鶏の肉を、噛み締めながら、鶏の残骸を見て、鶏の最後を思った。
親たちは口々に「良い経験になった」と口にした。
しかし、自分が感じたのは「鶏の命を奪うほどの価値が、この食事にあったのだろうか」だった。
……と。
ていうか、すごく良い記事なのでぜひご一読を。*1
確かに、その“食事”には、鶏の命を奪うほどの価値はなかったかも知れません。
筆者はプロではないし、環境も適切ではなかったわけで、肉は固くて骨に残った肉も多かった、というのはきっと事実なのでしょう。
そういう意味で、
「鶏の命を無駄にした」
という思いはあろうかと思います。
しかし、そもそも活動の目的は「おいしいカレーを作る」ではなかったわけで。
“食事”そのものは問題ではないはずと思います。
こういった諸々の点は、学校でやっている「命の教育」ともかなり共通しています。
冒頭、ウサギについて書きました。
で、世の中には、学校で飼育されている動物の環境を改善するために活動している獣医の方もいます。
そういう方のお話をうかがったこともあるのですが、その話を聞く限り、理想的な環境で動物を飼育しようと思えば、かなりの労力を投入しなければならないようです。
というか、そもそも子どもに世話をさせる時点でかなり論外。
端的に言って無理です。*2
そういう意味では、学校で飼育されている動物というのは、その時点ですでに虐待されているとすら言えます。
私の教室でもハムスターを飼っていますが、日中騒がしくて明るくて、しばしば振動する環境、というのは、夜行性のハムスターにとって好ましい環境ではありません。
で、学校では、一体なんのためにそんな組織的な動物虐待をやっているのか?
もちろん、「子どもたちに命の大切さを教えるため」です。
矛盾でしょうか?
そうかも知れません。
しかし、教育とはしばしばそのようなもの。
例えば、エネルギー教育をやればエネルギーが消費されますし。
食育の名の下に調理実習をやれば、皮を厚く剥きすぎたりして無駄になる食材もあるし、そうでなくてもどうせ大して美味いものはできないわけで。
だから、「命の大切さ」を教えるための教育で、プロに任せた場合より命が無駄になってしまうことはある……のだろうと思います。*3
……いや、だからと言って、教育目的なら命をどんどん消費して良いのか、というともちろんそうではないんですが。
というか、教育関係者は
「子どもたちの教育という偉大な事業の完遂のためには、いかなる犠牲も許されるのだ!」
みたいな思考に陥りがち*4なので、注意が必要ですが。
ただ、少なくとも、件の鶏が食肉としてどの程度適切な処理をされたかは実は大した問題ではなくて。
それが子どもたちにどんな教育効果を与えたか、というのが問題なのだと思います。
……さて。
それで、子どもたちにとってどうだったのか。
その辺りは原文からはなんとも……ですが、おそらく、個人差はあれど強い印象を与えたろうと思います。
そもそも、筆者自身が、この経験から強い印象を受けて、色々考えた末に記事を書いているわけですから。
……ただ、思うのは、(おそらく筆者の感想とは逆に)
「もしや効果的過ぎはしまいか」
ということです。
もうかなり前の話になりますが。*5
秋田県の小学校で、同様に鶏を育て、解体するという活動が企画されたことがありました。
ところが、直前になって、
「娘が嫌がっているのでやめてほしい」
という当初が県教委に入り。
で、町教委の指導で、急遽活動が中断される……という結果になっています。*6
http://chikusuiob.ojiji.net/kaitai01/inotichi04.htm
http://tokuzo.fc2web.com/seitai/inochi/inochi.htm
「最初から『食す』ことを前提として生き物を飼うこと自体がけしからん」
……という教育長の言いぐさが何かすごく間違っている気がするのは私だけじゃないと思うんですが。*7
ただ、教育長が理にかなったコメントを出せないのは、実はやむを得ないことです。
「鶏が殺されて肉になっている」
というのは、私たちの社会のまぎれもない真実です。
子どもたちに真実を伝えるのが教育である、という建前からすれば、
「子どもたちに、事実を事実として教えてはいけないのか!」
という主張に対して、まともな反論ができるはずがないのです。*8
けだし、教育は、すでに述べたように、発達可能態としての児童、生徒に対し、主としてその学習する権利(教育を受ける権利)を充足することによって、子どもの全面的な発達を促す精神活動であり、それを通じて健全な次の世代を育成し、また、文化を次代に継承するいとなみであるが、児童、生徒の学び、知ろうとする権利を正しく充足するためには、必然的に何よりも真理教育が要請される。
(家永教科書裁判、杉本判決より)
でもそこで私は、うちの母のことを思うのです。
前にもどこかで書きましたが、うちの母、鶏肉が食べられません。
理由を詳しく話してくれたことはないのですが、どうも、子どもの頃、鶏の解体を目の前で見てしまったのが原因だとか。*9
だから、教育長の談話の妥当性はさておき、雄物川北小学校の授業が実施されていたら、母のように
「生涯鶏肉は食べられない」
みたいな子どもが量産されていたかも知れません。
もちろん、大人でも、見聞きした物事に強い印象を受けることはあります。
しかし、子どもは特に影響を受けやすいわけで。
大げさに言ってしまえば、学校教育というのは、ある意味では消極的な情報統制であり隠蔽なのだと思います。
家畜の屠殺を見せられて、次の日からベジタリアンになる子がいるかも知れません。
発展途上国の現状を知らされて、フェアトレードに傾倒する子もいるかも。
戦争の悲惨さを目の当たりにして、急進的な平和主義者になる子もたぶんいるでしょう。
……いや、そこで
「菜食主義や公正貿易や平和主義が間違っていると言うんですか先生!」
と問われると、そうとは言えません。
ただ、多数の子どもたちがそのようになることを、私たちの社会は期待していないように思います。
だから、事実を伝えることは必要であるとしても、それによって極端に走る子どもを防止するために、一定の情報統制が必要なのです。
「そんな社会の方が間違っているんです!」
……そうかも知れませんが。
しかし、どんなにリベラルな保護者であっても、あらゆることを包み隠さず子どもに教えて欲しい、とは思っていないはずだ、と私は思います。
性教育にまつわる議論なんて、大部分は「どこまで隠蔽すべきか」という話ですよね?
ほぼ全ての人間が、その両親の性行為から生まれてきた、というのは覆しがたい事実です。
しかし、その「覆しがたい事実」を子どもにありのまま伝えるのが望ましいか、というと、たぶんそうではありません。
両親の性行為を目の当たりにしたことがトラウマに……なんて話はわりとあるわけで。
だから、鶏の解体を目にしてベジタリアンになった、というのを、命の尊さを真剣に考えるようになったため、と見なすのか、トラウマを受けたと解釈するのか、難しいところでしょう。*10
トラウマと教育効果をどうやって峻別するのか、と言われると私も返答に窮するのですが……。
ともあれ、真実は時として強烈すぎるものです。
「望ましい教育効果」をあげるためには、真実をオブラートにくるんで子どもたちに伝えることも、時として必要だと思うのです。
もっとも、例えば、社会全体が菜食主義であるような文化では、食肉加工の悲惨さを強調して子どもたちにトラウマを植え付けることが、「優れた教育効果」と見なされるかも知れません。
「どの真実をどんなオブラートにくるむか」は、結局はその社会がどんな人間を求めているかに左右されるわけで。
そういう意味では、やはり「情報統制」と言わざるを得ないのですが。
しかし、本当に適切な統制であるかどうかの注意深い監視の下に、適切な統制が行われることは必要なのではないでしょうか。
もちろん、我が国では、適切で注意深い監視がなされている、と私は信じています。
……県教委とか、市町村教育長によって。(情報統制)
で、まあ、冒頭でリンクした鶏の話に戻ると、子どもたちにはちょっと強烈すぎるのではないかな、と懸念もします。
ただ、公立学校でやるのと違って、任意で参加したキャンプなわけですし。
保護者には、子どもにどんな教育を受けさせるかについて、一定の裁量が認められるべきだと思うので。
というか、自分では鶏の解体に尻込みしてしまうような「一般人」でありつつ、子どもたちにはそれを見せておくべきだ、と思ったわけですから、むしろそれなり以上の信念がある保護者たちだと見なすべきじゃないかな、と思います。
子どもたちが件の活動をどう受け止めたか知る術はないのですが、少なくとも、鶏の命が無駄になった……とは、私は思いません。
同様に、小学生の子どもを原爆資料館に連れて行きたい親はそうすればいいし、途上国の悲惨さについて生々しく教えたい親はそうすればいい。
「公教育こそ中道的で望ましいものだ」
と思う親はそうすればいい(けど学校に任せきりにしないで、宿題とかちゃんと見てやってください)。
その結果、色々な極端に走る子も出てくるかもしれませんが、多様性が社会を進歩させるのだと私は思うので。
……多様性のある教室で授業するのは大変ですけどね。
*1:短くて無駄のない文章だし。
この記事の1/3くらいの長さだよ……。
この記事を書きながら、うっかりすると全文引用してしまいそうでした。
*2:いや、土日にも職員が出勤して餌やりをするとか、改善を図ってはいるのですよ?
……私が子どもの頃は、子どもが学校に来て世話をしたものですが……。
このご時世では、子どもだけで学校に来させるなんて不可能なのです。
*3:プロがいて解体してくれれば良かったのかも知れませんけど。
でも、「素人よりはちょっと詳しい」程度の人が教えている、というのは、実は学校教育の大部分がそうだ、という気配なので。
*4:で、たまに自分自身を生贄に捧げちゃう人もいたり。
「月兎と帝釈天」ですか?
……または大神官ハーゴンとか。
*5:「来春からの新学習指導要領で導入される「総合的な学習の時間」(総合学習)を先取りして取り組んだという」
って……。
時代を感じるなあ……。
*6:投書があったのが県教委で、学校に指導したのが町教委……というあたり、お役所の悪い面が見え隠れしている……と思います。
“県教委は「県としてはコメントする立場にない」とした。”とかさ……。
*7:教育長がベジタリアンでないのだとすれば、ですよ?
雄物川町の給食に肉は出ないのだろうか。たぶん出ると思うんだけど。
*8:別に、
「私としてはやってもいいと思っているんだけど県教委から言われたから仕方なく」
とかが説得力に欠ける原因ではなく。
……いや、そうなのかも知れないけど。
*9:ちなみに、他の肉なら牛でも豚でも平気。
でも、鶏だけは、例えば中華まんの具にひき肉が入っているのでもだめ、という。
*10:件の学校の子どもが、家に帰って
「もう肉は食べない!」
と宣言して、給食でも肉を絶対食べなくなったりしたら、どう理解すべきでしょうか?
「ベジタリアンを許容できるような給食制度になっていないのが悪い」
という意見に与するべきでしょうか?