「子どもには無限の可能性があります」。

虚実市は、みょうがの生産に力を入れています。*1
 
先日。
 
務「……で、市当局が、来年、学校でもみょうがを育てろと言ってきました。全校で取り組みましょうかそれとも一学年だけ選んで取り組みましょうか」
K村「……断る、という選択肢はないんですか」
教務「ありません」
4担「しかし、全校で取り組んだ場合、今年度やったさつまいも作りとかはできなくなってしまうんじゃないですか」
教務「そうなりますねえ」
6担「とは言え、中学年の理科で扱うのも難しいでしょう。あれは苗で育てるものだから、ヘチマやチューリップを種や球根で育ててライフサイクルを見るのとはわけが違って、教材化しにくい」
2担「仕方ない、それじゃあ、2年の生活科で扱うことにしましょう。……といっても、来年の2年生担任が誰かわかりませんけど」
 
全員、みょうが栽培をお荷物扱いしてるんですが。
だって、じゃがいもとか大豆とかトマトとかなら、収穫した後、子どもたちが楽しく食べられますけど。
……みょうがじゃあな……。*2
断りましょうよ、マジで。
 
さらに先日。
 
学習指導主任「前に、市の教育委員会から、囲碁セットが送られてきたの覚えてますか?」
K村「はいはい」
主任「……で、来年度から、市内で学童囲碁大会を開催するそうです」
K村「げ」
主任「そうなると、チームの編成とか選手の選抜とか、先生方の手をわずらわせることになると思いますが……」
K村「ていうか、ほとんどの子はルール知らないですよ」
主任「だから、それ教えるところから始めないといけないですねえ」
K村「断れないんですか」
主任「事実上の強制ですね」
 
……ちょっと言わせてもらっていいですか上層部の方?
 
ばーかばーか!
 
……いや……だってさあ……。
 
あんまり盛りだくさんにしすぎですよ、学校教育。
 
最近の主なトピック(古いのもあるけど)を思い出してみると、
 
・食育
(生活の基礎である「食」について見直すことで、生活習慣を正し、子どもたちが健康でよりよい生活を遅れるようにしよう、という運動)
・金融教育
(子どもたちに基本的な経済観念を身に付けさせることで、将来の職業人・消費者として、より賢明な経済活動が行えるようにしよう、という運動)
・キャリア教育
ニートなどの問題に鑑みて、子どもたちに職業に関する知識・興味を抱かせることで、より適切な職業選択を行い、意欲を持って働けるようにしよう、という運動)
・英語教育
(グローバリゼーションの進展に伴い、国際共通語としての英語の重要性が増してきたことから、小学校段階から英語に親しむ環境を作り、英語力を向上させよう、という運動)
・防犯教育
(近年の事件に鑑み、不審者への対応、犯罪の被害者にならないための心構えなどを教え、登下校等での子どもたちの安全を確保しようという運動)
・防災教育
(大地震等での避難生活などの教訓をもとに、災害発生時の対応や、その後の避難生活における心構え、日常の備えなどについて学び、いざという時の云々)
・情報教育
(情報化の急速な進展に対応するため、パソコン等の情報機器を活用するスキルを身に付けるとともに、情報リテラシーをどうとかこうとか)
・心の教育
(豊かな情操を育み以下略)
・命の教育
(命どぅ宝じゃあー)
*3
 
……まあ、その他、朝の10分間読書とか、百ます計算とか、早寝早起き朝ご飯とか、いろいろ。
 
ひとつひとつの運動については、なるほどいちいちもっともではあります。
 
さっきのみょうがにしたって、
「虚実市の特産物に親しむことで地域の産業に理解を深め、また、作物を栽培することで以下略」
なんでしょうし、囲碁だって、
「日本の伝統的な(略)思考力を培い(略)豊かな人間関係(略)」
なんでしょう。
 
同じく虚実市が企画している虚実音頭発表会も縄跳び大会も竹馬競技会も、みんな何かしらのもっとも理由がついてるんでしょう。
 
ただ、そういうものを学校に持ち込んでくる方(大抵は教育委員会とかその上の文科省とか、あるいは市役所のどこか教育と無関係の部局なんですが)にお聞きしたい。
 
「じゃあ、何を削ればいいですか?」
 
子どもらは、学校に来て遊んでるわけではありません。
登校から下校まで、集中力を維持するために必要な休み時間の他は、可能な限り勉強してるわけです。
 
その、すでにみっちり詰まったカリキュラムの中に、エネルギー教育だの国際理解教育だのを押し込もうとすれば、その分何かがこぼれ落ちることになるのが物理的な必然です。
 
それなのに、後から後からいろんな物がぐいぐい押し込まれているのが今の学校です。
 
我々は公務員で、
「職員は、その職務を遂行するに当つて、法令、条例、地方公共団体の規則及び地方公共団体の機関の定める規程に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。」
……んだそうなんですが、正直うんざりです。
 
「小学校は一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数、あとは10以下。(藤原正彦)」
……なんて極論にも、ついつい賛同したくなります。
 
甘えと言われるかも知れませんが、教員の労働力だって無限じゃありません。
そもそも、普通の教科等の教材研究をやって、子どもたちの悩みに向き合うだけだって十分すぎるくらい時間も手間もかかるわけです。
 
それなのに、誰かが新しい「〜〜教育」を思いつくたびに、それを実現するための指導計画を立てて、資料を集め、教材を開発し、指導案を練らなきゃならないわけです。
で、終わった後には、
「どんな取り組みをし、どのような成果があったか報告せよ」
と指令がきて、報告書を作成しなきゃならない。
 
子どもたちもそうですが、教員だって学校に来て遊んでるわけではありません。
朝から晩まで、みっちり仕事をしています。
新しい何かを押し込めば押し込むほど、何かがこぼれ落ちることになるんです。
 
……こんな事を言うと、
「残業しろ」
とか、
「休みの日も働け」
とか言われるでしょうが、真面目な先生であればあるほど、すでに十分すぎるくらい超過勤務をしています。(私は不真面目な教員ですが。もちろん。)
 
私、先日校長先生に、
「子どもたちと向き合うのも大切だが、学校は組織だから、校務を優先して欲しい」
……って言われたんですが。
 
子どもたちと向き合う時間を削らなきゃならないほど校務がある学校って、いったい何なんですか?
 
医者が書類仕事に忙しくて、診察がおざなりになってる病院みたいなもの?
それは何のための病院で、それは何のための書類仕事なんですか?
 
……と、sava様の所の記事を読んで、そんなことを思いました。
http://d.hatena.ne.jp/sava95/20070202/p1
(本当はserohan様のところで知ったわけなんですが、曾孫引きは避ける形で)
 
私自身は、
「黙って金を出せ」
とは思いませんが。
いやしくも公費を使って仕事をする身として、それは言ってはならないことだと思います。
 
ただ、私は教育がしたいです。
教育というのは、子どもたちが子どもである間に、生きていくために必要なことを身に付けさせるものだと思います。
 
今の、適当な思いつきであれもこれも子どもたちに押しつけようとする「教育」行政のやり口は、むしろ子どもたちの貴重な時間を浪費させるものであって、到底教育とは言えないと思います。
 
「あれも買いたい」「これも実施したい」
……では、どんな国家・自治体の予算も破綻する、というのは自明でしょう。
欲しい物を言い出せばきりはありませんが、予算は有限です。
限りある予算を有効に使うためには、欲しいもの、やりたい事業に優先順位をつけ、本当に必要な物から予算を配分せねばなりません。
 
そして、教育に関して言えば、たとえ無限の予算と人員があったところで、子どもたちの時間は有限であり、限られたの時間に学べるものはやはり限られています。
現実には、予算も人員も無限どころかえらく限られているわけですが、それ以上に、子どもの時間こそ、最も貴重な「限りある資源」なのです。
 
その資源を、何に使うのか。
「あれもあったらいいな」「これもあってもいいな」
……では、教育は破綻します。
 
本当に大切なもの、どうしても必要なものは何か。
どうかどうか、正気に返った議論がなされることを願っています。

*1:本記事は、事実を一部改変しています。

*2:繰り返しますが、本記事は事実を一部改変しています。
本当は、子どもたちにとってみょうがよりももっとうれしくない作物です。
あと、全国のみょうが農家のみなさんごめんなさい。

*3:解説は適当なので勘弁してください。