もうすぐ、学校でとある式典があります。
で、市長や教育長がやって来ます。
それに向けて、虚実市歌や虚実市民憲章の練習をしています。
……くだらねー……。
読者の方がお住まいの市町村に、市民憲章はありますか?
暗唱できますか?
暗唱できて役に立った、あるいは、暗唱できたら良かったのに、と思った時がありますか?
いや、まあ。
その理念を読み、学ぶことで、よりよい市民として……とかいうことなのかもしれないですけど。
しかし、本市の市民憲章って、
「一、私たち虚実市民は、和やかな家庭を作り、新しい命を育み、虚実市を住みよいまちにします」
とか、一年生にとっては言葉は理解できないし説明しても実感の持てない内容。*1
暗唱させたって身になるとは思えないんですが。
市歌にしたところが、何でもプロの作詞家、プロの作曲家に頼んだらしい(少なくとも、作曲家は、私でさえ知っている曲を作った人)んですが、節回しが複雑で、子どもたち、覚えられないんですよ……。
詩の方は……。
「遙かな峰から
輝く道筋引いて
緑の大地を
駆け行く虚実川
羽を広げ
希望の歌を歌いながら
耳を澄ませば
胸にあふれる
暖かな
希望の調べが」
これって、混喩の見本みたいな歌詞じゃないですか?
(いや、これは一部改変してあるので、本物の言葉の選び方は、これよりはちょっとマシですが)
途中まで、歌詞の意味を一年生に説明したんですが、結局、語句の意味だけで挫折しました。
全体の意味は説明しようがないもの。
羽を広げて駆け行きながら歌を歌う輝く道筋……って、どんなものですかそれ?
「きれいな言葉」を連ねてはあるんだけど、それぞれが結びついていないので、聞く人の心にイメージがわかないという。
……でまあ、そういう、国語的には無価値もいいところの歌だの憲章だのを覚え込ませないといかんわけですよ、子どもたちに。
その式典というのが、児童表彰という奴でしてね?
ひところニュースとかで言われたこともあるので知っている人もあるかも知れませんが、卒業までの間に一回、子どもたち全員を何らかの名目で表彰する、というイベントなわけです。
本市では、5・6年生が表彰の対象になるので、5年生の半分と、6年生の半分が表彰されます。
「子どもたちに自尊感情を持たせることができる」
「この行事を通じて、先生方が子どもたちを評価し直す機会になる」
うんぬん、という話があったわけですが……。
でもねえ……。
全員、ってことは、明らかにパッとしない子……というか、下級生にいじわるで評判が悪い子とかも表彰の対象になるわけですよ。
代表でもらう6年生がそれでは都合が悪いですよね?
だから、6年生の受賞者は、わりと気だてが良くて優秀な子たちなんです。
ってことは、そういう子を、6年まで残しておかなきゃならない。
言い換えると、5年生で表彰されるのは下から半分。
……いくら子どもが大人よりバカだからって、5・6年ともなれば、
「ああ、どうせ全員もらえるんだな」
……って気付きますよ?
1年生は、
「いいなー5ねんせい」
とか言ってますけど。
「そうだねえ、みんなも、5年生になったらもらえるようにがんばろうね」
「うん!」
正確には、「5年生でもらわないようにがんばろう」だがな。
……とまあ、そんなくだらぬ行事なんですが、エラい人が来るので力を入れざるを得ないわけです。
子どもたちがお行儀良く座って静かに偉いさんの話を聞いて、元気よく市歌を歌って、はきはきと市民憲章の暗唱をして。
受賞者が美しい礼法で賞状をもらって、素直な感謝の心にあふれた心に響くお礼の作文を朗読して。
そうすればえらい人たちは満足するわけですよ。
言い換えれば、エラい人たちを満足させるために、何時間も時間を取って練習に明け暮れているわけです。
教育的には無意味な内容のために。
発想としては、マスゲームをやらせてる某国と大差ない、と言えます。*2
あの国では、公立学校が、マスゲームの練習に年に何ヶ月も費やすそうで、それでは将来ちゃんとした産業を支えられる国民が育つわけはないよなあ、と思うのですが。
しかし、虚実市のやり方も、結局、児童を未来の市民としてではなく、「こどもたち」という、式典のための舞台装置の一部として扱っているわけで。
この現状の前には、市民憲章の理念など空文に等しいわけです。
まあ、テレビのニュースなんかの、
「式典には、市内の小学校の子どもたちが参列し、代表の児童が〜〜という作文を読み上げた後、全員で〜〜の合唱をして祝いました」
とかいう内容を、
「子どもたちの純朴な気持ちが表れたほほえましいもの」
と感じる純朴な人がこの世にいる限り、こういう風潮はなくならないかも知れないですね。
ああ。
エラい人、あなたたちは何もしなくていいんです。
ただ、子どもたちの邪魔をしないでくれさえすれば。