黙祷。
……それはさておき。
平和記念式典の子ども代表「平和への誓い」をラジオで聞きながら、他の先生と語り合ったこと。
K村「……この作文って、6年生全員が書いて、一番いいやつを選んでるんですかねえ」
T先生「どうだろ。ウチの学校で言えば、〜〜みたいなのが選ばれるんだろうな」
まあ、優等生&人前で発表するのに物怖じしない子だと思ってください。
K村「発表の練習、するんでしょうねえ……」
T先生「日本中……というか海外の人も聞くわけだしな……。
作文そのものもかなり“校正”されてるだろうと思うな」
動画で見ると、あの長文を、ほとんど原稿見ないでしゃべってますね。
K村「うわ、2人でかけあいになってる部分がありますよ! お互い違う学校なのに!」
T先生「相当練習してるな……これは」
いやこれ、若干事実誤認がありまして。
調べたら、2人は、広島市主催の「こどもピースサミット2009 平和の歌声・意見発表会」で大賞を受賞した子たちなんだそうです。
で、「平和への誓い」の内容も、2人で考えた……んだそうです。報道によれば。
……私も、「誓い」の内容そのものに反対する点は全くありませんし、私も核廃絶はぜひ実現して欲しいと思っています。
ただ、(過去にも何度か書きましたが)正直、ああいう式典で子どもを引っ張り出すこと……というか、大人が子どもを「純真さ」とかのシンボルとして利用することにはどうもなじめないのです。
「汚れない子どものまなざしは真実を見抜くことができる(だからこの子たちの言っていることは正しいんだよ!)」
とか言いたいんですよね?
でも、あれって、どの程度まで子どもの純真さの発露なんでしょうか。
だって、「内容は2人で考えた」と言っても、考えるにあたって大人が「相談に乗って」いないとはあまり思えませんし。
学校が違う以上、2人が住んでいる場所も市内とはいえ離れてるわけで、練習には大人の協力が不可欠でしょうし。
学校の授業時間もかなりつぶして練習したと思うんですけど、違いますかね?
実際のところ、「誓い」とは言っているけど、大人たちが主張したいことを子どもに誓わせてるだけなんじゃないの? という気がしてなりません。
そういう、子どもをダシにするようなやり方って、「パンフレットを無料でお配りしている」宗教団体の人がよく子ども連れなのとか、満面の笑みでマスゲームやってる某国の子どもたちとか思い出してしまって釈然としないのです。
もちろん、記念式典は大変な晴れの舞台ではあるわけで、そういう場に出られることは本人達にとって誇りなのかも知れない、とも思いますが、それはまた「誓い」の中身とはちょっと違う話ですし。
平和への祈りは私も共有するものではありますし、それは子どもたちのためでもあるのですが、なんであれ、子どもを舞台装置の一種として演出に使うのはやめて欲しい(とりわけ、それが子どもの時間を圧迫するものだとしたら)と思うのでした。