管理者は誰か。

学校というのはある意味において監獄であります。
そして、子どもはその囚人なのです。
 
といっても、「刑務所の更正プログラムが教育的だ」とかいう穏当な意味合いではなく、もっと嫌な意味で
 
スタンフォード監獄実験」について聞いたことがおありでしょうか。
これは、私も聞いたことがあるくらい有名な心理学実験で、にもかかわらず大学の教育心理学とかでは教わらないわけですが。
 

  • ボランティア参加者を募り、これを抽選で「囚人役」と「看守役」に振り分ける。
  • 大学の地下室に作られた「監獄」の中で、2週間にわたってそれぞれの役割を演じてもらう。

……という実験だったわけですが。
 
詳細は、Wikipediaの「スタンフォード監獄実験」の項を参照して頂くとして、あえて一言で表現するなら。
 
……地獄?

看守役は誰かに指示されるわけでもなく、自ら囚人役に罰則を与え始める。
反抗した囚人の主犯格は、独房へ見立てた倉庫へ監禁し、その囚人役のグループにはバケツへ排便するように強制され、耐えかねた囚人役の一人は実験の中止を求めるが、ジンバルドーはリアリティを追求し「仮釈放の審査」を囚人役に受けさせ、そのまま実験は継続された。
 
精神を錯乱させた囚人役が、1人実験から離脱。さらに、精神的に追い詰められたもう一人の囚人役を、看守役は独房に見立てた倉庫へうつし、他の囚人役にその囚人に対しての非難を強制し、まもなく離脱。

ボランティアは、70人の中から、性格的な偏りがない人を特に選んだわけで、つまり「普通の人」でした。
 
要するに、私たち「普通の人」が、状況によってはいかに残虐になりうるか、ということを証明した実験です。
ミルグラム実験アイヒマン効果)」とちょっと似てるかもですね。
ミルグラム実験
 
で、この実験のことを急に考えたのは、他所のブログ様(医学都市伝説)の記事を読んだからで。
ここでは、精神科病棟の中で、「監獄実験」と類似のことが起きつつある、ということを指摘しています。

例えば、病棟には様々な生活規制があるのだが、それがなぜ存在するのかということをちゃんと説明できる職員はまずいない。要は「そう決まっているから」という理由で規制しているのである。
(略)
例えば、以前勤めていたところでは、「ガラス瓶入りの醤油を持ち込んではいけない」という規制があった。割って自殺企図に使うかも知れないという理由だったらしいのだが、病室の窓はガラスだし、メガネのレンズだってガラスだし、醤油の瓶だけを問題にする理由は実に妙なのである。

http://med-legend.com/mt/archives/2007/05/post_1091.html

もちろんこれは精神科の人々が悪意に満ちてるとかいう話では全然なくて。
つまり「普通の人」なのです。
普通の人を権威的・抑圧的な人間にしてしまうのが、権力というものなのだ、というのが、スタンフォード監獄実験から導かれる一つの結論ではないかと思います。

権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する。
J・E・アクトン(歴史学者

さて、精神科はさておき、
「なぜ存在するのか説明できない規則がたくさん」
という状況は、よく考えると他人事ではありません。
規則のための規則……といえば、まず校則が思い浮かぶ人だってたくさんいるでしょう。
 
本校でも、なんかやたら煩瑣な規則があってですね。
「机の上で、ノートは右、教科書は左に置くこと。筆記用具はその向こう側。筆箱は机の上に出してはならない」
「挙手は左手。指名されたら『はい』と返事して起立すること」
「靴箱に靴を入れる時、つま先を手前側に入れること」
「机の中で、ノート・教科書類は右側、のり・はさみなど、その他文具類は左側に収納する」
「教科書を音読する場合、教科書は両手で持つすること。座って読む場合も、机の上に広げて読むのではなく、視線に対して直角になるよう手で持つこと」
etc.etc...
 
どうだっていいじゃねえかそんなこと!
 
……と、思わず叫びたくなってしまうわけですが。
 
そして、さらにうんざりすることに、これらの規則一つ一つが、ことごとく教育上の理由、つまり「子どもたちのため」にあるのだ、として維持されているわけです。
で、「これが子どもたちのためなのだ」ということになると、なかなか廃止しようとは言い出しづらいわけですね。
 
思うに、精神病棟の規則だって、たぶん「患者のため」という大義名分の元に維持されているんでしょう。
そして、監獄の規則だって、「囚人のため」「安全管理のため」といった理由があるんでしょう。*1
 
ところが、そういう大義名分を背負った規則が、管理者の「善意」によって無駄に増え続け、逆に患者や囚人や子どもを抑圧するシステムを作り上げている……という点で、学校もある種の監獄だと私は思うのです。
 
みんな、自分が正しいと思うことをしているだけ。

地獄への道は、善意の敷石でできている。
カール・マルクス

さて、学校が監獄で子どもが囚人なら、教師は看守なのか……というとさにあらず。
 
実は本校、間もなく指導主事訪問を控えておりまして。
それで、指導主事に好印象を残すべく、全校挙げて大騒ぎをしているところなのです。
 
遊具は補修され、校舎の壁は再塗装され、理科室・音楽室の備品も整理整頓され。
……で、さっきのいわゆる「学習訓練」も、全学年で統一が図られたわけです。
 
学級の実態や担任の指導方針もあるわけで、授業の受け方なんて過度に統一を図ってもかえって担任がやりづらくなると思うんですが。
例えば、私は指名する時「〜〜さんはどう思う?」とか言うことが多いので、元気に「はい!」とか言ったらむしろ変です。
 
……もうすぐ校長の授業参観があるんですが、
「指名のやり方を変えろ」
って言われるんでしょうか?
それだと、法則化の指名なし発表とか、排除されちゃうんでは。
 
いや、指名なし発表は私はやり方として疑問なので、それは別に困らないんですが。
ただ、子どもたちへの事細かな規則が、同時に私たち教員の自由度も失わせているわけです。
 
これらは、表向き、
「担任が替わった時や、TT担当が色々なクラスに入った時に混乱しないように」
っていう理由があって、そこに
「指導にぶれがあると、指導主事訪問で注意を受ける」
っていう話が付け加えられます。
 
確かに、担任が替わると、「前の先生はこうだったよ!」とか子どもたちが言い出して大変、ってことはよくあります。
でも、それは朝の会の進め方とか給食は残していいのかとか、もう少し大きなルールについてであって。
 
右手を挙げる人と左手を挙げる人が混在してるぐらいで混乱しますか普通?
それで混乱するような担任って、実は病院に行った方がいいんじゃないかと。
どっちでも本人が便利な方を挙げればいいだけなんじゃないですかね?
 
いちいち、「〜〜さん、手を挙げる時は左手だよ」とか注意するのって、子どもも担任もストレスになるし、単に時間の無駄じゃないかと。
 
で、我々に対しても、
「“前へならえ”は、“前へー、ならえ!”というように、“前へ”を伸ばして、“ならえ”との間に一拍おくこと」
とか、
「学校教育目標は黒板上中央、その右側に虚実市民憲章、左側に校歌を掲示すること」
「背面黒板手前にロッカーなど高さのあるものを置いてはならない」
「教室廊下側壁面に、左から学校便り、学級便りの順で掲示すること」
……などなど、これまた事細かな指示が出ています。
 
教室環境くらい担任の裁量に任せてもらえないですか。
 
この間は、給食配膳台の上をきれいにしないといけない、っていうんでクレンザーで磨くことになりました。
でも、一年生は給食の配膳に慣れてないんで、「ぱん・ごはん」とか「しょっき」とか、配膳台の上にマジックで書いてあったんです。
置く場所が分かるように。
 
それも一緒に消されちゃいました。
 
「やっぱり、配膳台の上に字が書いてあるのはまずいよ」
とか言われたんですが……。
別に配膳台で食べる訳じゃないんだし……。
そもそも、「1年生」とかマジックで大書したでかい金属バケツに入れて食べ物を運んでるんだから、何を今さら、と思います。
 
一年生、表示が消えたおかげで混乱してました。*2
 
つまり、子どもが囚人なら、教師は牢名主くらいに過ぎないわけです。
子どもを統制しつつ、自分も統制されているという。
 
もちろん、学校は、監獄より(そしてたぶん精神病棟より)解放された環境です。
だから、「監獄実験」的な状況は、比較的緩和されているはずと思います。
 
ただ、校長にせよ指導主事にせよ、「普通の人」以上に、
「全体で統一するのは良いことだ」
「管理するのは良いことだ」
という、無意識の前提が強いように感じます。
まあ、そもそも教員になるような人には、そういう秩序志向の人が多いのかもしれないですが。
 
で、その結果、なんでもかんでも
「全校で統一して指導しましょう」
ということになり、こうしてみんながストレスを受けることになるわけです。
 
そんなことを考えているので、最近、何を指導しても
「これって本当に必要なのかな」
などと思えてなりません。
 
例えば、
「気をつけ! 前へならえ! 直れ!」
で整列して話を聞くとか。
ちゃんと聞いてさえいれば、並んでるかどうかは関係ないんじゃないかな……などと。
 
「並んで話を聞くくらい当然だろう」
とか言われるかも知れませんが、これは必ずしも例のない話ではありません。 
http://www.post.japanpost.jp/contest_text/34/tegami/tomo/chu_03.htm
上のリンクは、ドイツの小学校から日本にやって来た帰国子女の作文ですが。

毎週月曜日には朝礼という会もあり、そこで、校長先生のお話を聞いたりします。
お話は聞くだけなら、大して驚かなかったのですが、生徒の聞く姿勢に本当にビックリしました。
なぜなら、背の小さい順に前から一列に並ばされ、「前ならえ」をさせられ、少しでも列がずれると先生が怒ります。
そして、フラフラするな、とも言われます。
お話が始まると、皆が一斉に礼をします。
これを見て、頭に浮かんだ物が「いちご」です。
ドイツのいちごは、形はバラバラなのに、日本のは全部同じ形をしています。

あるいは、こちら
http://www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/hana/hana202.htm
は、同様の状況になった中学生の言葉として、まさに「日本の中学校は刑務所のようだ」という言葉があります。
 
整列して話を聞く、を廃した学校が、ドイツで機能するのであれば、日本でも機能しうるんじゃないでしょうか。
このように、私たちが当然のこととして考えている学校の規則にも、よく考えると不要なものが多数あるのでは……という気が最近しています。
運動会の練習が始まっただけに、特に。(行進とかラジオ体操とか……)
 
もちろん、一定の指導は必要だろう、とは思います。
 
例えば、本校では、トイレにはいる時スリッパに履き替えます。
 
年度当初、養護教諭から、
「本校のトイレは、近年の多くのトイレと同様、衛生面では問題ないので、スリッパに履き替える必要性は薄い」
と提案されたのですが、討議の末、
「世の中にはトイレでスリッパに履き替えることになっている施設も多い。日常的に履き替えてスリッパをそろえる習慣を身に付けた方がいいだろう」
……ということになりました。
 
これは、(衛生的には無意味でも)まずまず教育的に意味のある規則だろう、と思うのです。
 
また、特に一年生は、整理整頓しろ、と言われてもやり方が分からないですから、
「ノートや教科書のような、毎日持ち帰るものと、のりやはさみのようなずっと置いておくものは、分けて入れるといいね」
……という風に教えてあげることも必要かも知れません。
 
ただ、教えてあげることと押しつけることは違うのであって。
なんでもかんでも「規則」にする必要はない、と私は思います。
 
担任「A君、読みづらそうだね。先生は片手で教科書を持っているけど、それはもう片方の手で黒板に字を書くからなんだ。一年生はまだ手が小さいから、こうして両手で教科書を持ったほうが読みやすいかも知れないよ」
A児「ほんとうだ。ありがとうせんせい!」
 
……って状況と、
 
担任「A君、教科書の持ち方が間違ってるよ。教科書はこうして両手で持たないとだめだ」
A児「学校ってのはうるせえところだなぁ」
 
……って状況、どっちがより望ましいでしょうか。
 
早く来い、指導主事。
そして早く帰れ。

*1:100%囚人のため、ではないでしょうけども。

*2:テプラで書き直しましたが……。