愛国心と教育について(1)

「私は首相を敬愛している。色々悪く言う人もいるが、私は首相は素晴らしい人だと思う」
……と、言う人がいたとします。
私としては、「ああそうですか」……という感じで、まあ、あえて反対するつもりはありません。
 
誰かを尊敬したり愛したりする基準は人によって違うものですから、誰が誰を尊敬しようと、それはその人の自由です。
誰であれ、敬愛する人がいる、というのは、それ自体幸福なことでもありますね。
 
しかし。
「色々悪く言う人もいるが、首相を子どもたちが敬愛するよう、公立学校の教育課程に位置付けるべきだ」
……ということになると、話は違ってくるわけです。
 
万一そうなったら、
 
単元のねらい:児童一人一人が、首相の素晴らしさを理解し、首相を愛する気持ちを持つことができるようにする。
 
みたいな授業をやらなきゃならないわけで。
 
教育目標とは、「かけ算ができるようにする」「登場人物の心情を理解できるようにする」「働く人たちの苦労や願いを理解できるようにする」……など、「できることが人間として望ましい(あるいは必要な)もの」です。
 
つまり、「首相への愛」を、教育課程に位置付ける、ということは、首相を愛することはその人の自由だ、という感覚を完全に離れ、「首相を愛することは望ましいことだ」=「首相を愛しないのは望ましくないことだ」という明確な価値基準を含んだ方針になる、ということです。
 
当然、評価基準も作らなきゃなりませんし、どの程度首相を愛しているかによって、A〜Cで評定し、指導要録に記入しなきゃなりません。
 
こんなうさんくさい話はありません。
 
もし、どうしても「首相学習」を教育課程に取り入れるのであれば、そのような、「首相を愛する」ということを目標にするのではなく、首相の良い点・悪い点について、客観的に事実を示し、子どもたちがそれを元に首相をどう考えるか、それぞれの考えで判断できるようにすべきなのではないでしょうか。
 
……つまり、何が言いたいかというと。
 
愛国心を学校教育で教えるべきだ」
……なんてのは、うさんくさいこと限りない、ということなんです。
 
「私は、日本を素晴らしい国だと思う。この国を築き上げてきた先人に感謝しているし、自分が日本人であることに誇りを抱いている」
 
……という人がいたら、もちろんそれはその人の自由です。
 
でも、
「みんながそう考えるよう学校で教えるべきだ」
……というのには、私は反対です。
 
「Xとは何か。それはどんなものか」
……を教えるのは、あるいは学校の役目かも知れません。(Xには、組織、国家、文化等々が入ります)
 
しかし、
「あなたはXを愛するべきか。あるいは憎むべきか」
……について教えるのは、学校がなすべき事ではないと思います。
 
とりわけ、公教育における愛国心教育は、さらに大きな過ちを孕んでいると思います。
 
仮に、教員である私が、道徳の時間、私を敬愛するよう子どもたちを教育し、子どもたち一人一人が私を敬愛する度合いをA〜Cの段階で評価したとしたら、こんなおぞましい話はないと思います。
 
同様に、学校長が、自身を敬愛するよう子どもたちを教育せよ、と、直属の部下である教員に指示したとしたら、これまた愚かしい話です。
 
そしてその馬鹿馬鹿しさは、市の教育長、県知事等々についても同様でしょう。
 
ならば、国家が、国家を愛するよう子どもたちを教育せよ、と、部下である公務員、つまり公立学校教員に指示するのも、やはり同様に間違っているのではないでしょうか。
 
仮に、
「日本は素晴らしい国だ。愛国心を抱くことは正しい」
というのが正しい主張であるとしても、
「それゆえ、愛国心を抱くよう学校で教育すべきだ」
……とは言い切れない、と、私は思います。
 
公立学校における愛国心教育、というのは、家庭におけるそれや、私塾におけるそれとはわけが違うのです。
 
こういった議論には、人が愛国心を抱くことの、本人・国家・人類にとってのメリットは何か、とか、そもそも愛国心とは何を愛することなのか、といった課題もあると思うのですが、長くなりそうなので、それについてはまた別の機会に。