けものの世に熱あれ、ごんぎつねに光あれ!

*ごんぎつねの話は最後の方に書いてあります。

id:serohanさんのとこの記事を見て思い出したこと。
「夫」啓発運動中

夫の育ったすてぃーる町も、アイヌ民族朝鮮民族が多い。その町のベットタウン化している、あるみにうむ町に住んでいるのである。

すてぃーる町には、「朝鮮会館」もあり「ウタリ(アイヌ語で同朋の意味)同盟」も一大勢力となっているのだが、「朝鮮人」「アイヌ」は被差別用語であるから、使ってはならぬと学校でも教わり、未だに特に「アイヌ」は言ってはならぬことばとなっている。(ウタリ同盟の方から、抗議が来るのだそうだ)あるみにうむ町も、似たような雰囲気が漂っている。

アイヌ民族の青年の事を、歌によんだものがあるが「絶対に発表するな、あの人達を怒らせるな」と頑なに言いつづけている。

近隣の町では「アイヌ語講座」が出来、「アイヌ刺繍の講座」等もあるのに........

私、二年ほど前、北海道におりまして。
 
採用された時、教育長から厳命されたのが、「アイヌ」ではなくて「アイヌの人」と言うように、ということ。
 
理由は、「アイヌ」と教えると、アホな子どもが、「あ、犬!」とか言い出すからだと。

いやー……。
どうなんだそれも。
 
アイヌ」というのは、アイヌ語で「人間」のことですから、「インディアン」(「インド人」を意味する英語)とか、「アボリジニ」(「最初から」つまり先住民を意味するラテン語)のような、後からやって来た連中が勝手に付けた名前とは違うわけですが……。
(ちなみに、「エスキモー」と「イヌイット」に関してはちょっとややこしい事情があるらしい)
 
私が住んでいた地域(酪農地帯)では、アイヌ文化を受け継ぐ人はいなくなっており、地名にその痕跡が残るのみでしたが、明治頃までは暮らしていたようです。
和人に搾取されながら。
 
そのせいか、そのあたりではアイヌに関する教育はないも同然でした。
「ウタリ」なんて言い回しは全然聞かず。
 
むしろ力が入っていたのは、後述する北方領土問題でした。
 
そこにいる間、自分が子どもの頃受けた教育と違うなあ、と思ったことはいくつかありましたが、

  1. 北方領土関係の学習がある
  2. 人権教育(旧・同和教育)がほとんどない
  3. 反戦・反国家主義的風潮が強い

……といったことが、北関東で育った私に感じられたことでした。
 
ちなみに言っておきますが、「北海道」というのは、関東全都県を合わせたよりはるかに広い地域なので、場所によって教育風土も様々だと思います。
あくまで、私が見た範囲で、ということで。
 
まず、「北方領土」。
 
北方領土は、日本固有の領土です」
なんて言っても、関東じゃあ実際の歴史的経緯なんかはほとんど聞かされたことがなく。
あまりそういうことに熱心だと、むしろ「右翼?」とか言われかねないわけです。
 
なので、現地に行った時、「北方領土学習」というのが教育課程の中に位置付けられている、というのは驚きでした。
そのための副教材も、自治体が作ったものが各学校に配布されているし。
 
この辺の温度差は、同じ国内とは思えませんね。
 
北方四島」なんてどっちつかずの言い方をする人はいませんでしたよ。
 
だいたい、歯舞は「歯舞群島」で、小さな無人島の集まりですから、どう数えたって四島にはならないのです……ってことも、北海道に行ってはじめて知った次第。
 
採用試験で、「国後島は、地図中のア・イ・ウ・エ・オのどれか」なんて問題が出たけど、さっぱりわかりませんでしたから、私。
……それが、本州出身者の平均だと思うけどな……。
 
次に、人権教育。
 
今私がいる土地では、指導案を書く時、必ず「人権教育上の配慮」という項目を入れないとなりません。
つまり、同和問題などへの配慮、差別を許さない態度を育てる配慮、ということです。
 
具体的には、
「互いに意見を交換し合う活動を通して、異なる考え方を尊重する態度を養うと共に、勇気を持って自分の意見を主張する力を身に付けさせる」
みたいなことを書きます。
 
今のところ、私は、いわゆる同和地区、被差別部落を校区に含んだ学校に赴任したことはないのですが。
ただ、私自身、小学校から高校まで、年に数回、「同和教育集会」みたいな行事があって、同和問題がいかに悲惨なものか、なぜ許されないのか、を啓発するための映画を見せられたものです。
 
なので、北海道で、そういう行事が全くないのを知って驚きました。
 
いわゆる同和問題は、江戸時代の身分制に端を発するものと言われています。
ですから、明治に入ってから本格的な入植が始まり、しかも日本各地からの寄り合い所帯である北海道では、同和地区が存在しないことになっているのです。
 
で、「反戦・反国家主義」。
国家主義は、「反国家・主義」じゃなくて「反・国家主義」とお考え下さい。
ナショナリズムに反対する立場。
要するに、日の丸とか君が代とかに異議を唱える人がいっぱいいたのです。
 
これは、北海道では教職員組合の力が強いことにも影響されているのですが。
 
卒業式で日の丸を掲げるかどうかはいつも議論になりますし。
 
で、これがまたかなり儀式化された議論で。
例年のことだからなんでしょうが。

  1. さんざん反対意見が述べられる。
  2. 挙げ句、校長が裁量権を発動する。
  3. しかし、ステージ中央に掲げるのではなく、旗竿に付けてステージの端に立てることになる。

……というのが、ほぼ毎年の流れみたいでした。
 
卒業式のステージには、在校生制作による巨大な壁画が飾られています。
これは卒業生を祝福する意味を込めたもので、毎年「卒業生を送る会」で除幕され、そのまま一年間飾り続けます。
 
卒業制作の逆バージョンですね。
手間はかかりますが、壁画自体は私は好きでした。
小規模校でありながら、一年で使い捨てにするのがもったいないような出来ですよ。
 
君が代も、歌わない先生がいるため、プログラムが工夫されていて。

  1. 起立
  2. 校歌斉唱
  3. 国歌斉唱(起立したまま)

……という流れでした。
 
つまり、
「国歌斉唱。起立!」
という流れだと、座ったままの職員が出てくるため、その前のプログラムで立たせて、そのまま立たせておくわけです。
 
でも、みんな君が代の歌い方の指導を子どもにしないので、子どもも誰も歌えなくて、校長・教頭・来賓の一部だけが斉唱する、というけったいな状況に。
 
だから、こっちの、年中ステージの真ん中に日の丸が掲げてあって、卒業式でもことあるごとにみんなでそれにお辞儀をする式次第とは、かなりかけ離れています。
 
校庭にもフラッグポールがあるけど、翻っているのは「道旗」「町旗」「校旗」。
 
今の勤務校では、毎日6年生が日の丸を掲揚して、夕方に降納するんですよ?
私の中学の時なんて、毎朝「国旗掲揚。脱帽、国旗に注目!」とかいう放送が流れたし。
 
教室の位置によっては、注目しようにも国旗が見えなかったんですけどね。
それはさすがに、「宮城遙拝かよ」とか思ったけど。
 
北海道にいた二年目の年、卒業式を前に、校長が突然
「国歌斉唱の伴奏は、これまでの録音テープではなく、ピアノの演奏をお願いしたい」
とか言い出して、大揉め。
 
結局、例年通り、に落ち着いたんですが。
「テープの再生ボタンを押すのは、放送係の○○先生にお願いしたい」
とか言い出してさらに一揉め。
 
つまり、国歌斉唱に反対している先生に、校長命令で再生ボタンを押させることは、憲法で禁止されている思想信条の自由を侵害することになる、という理屈みたいです。
 
へー。
 
他にも、学習指導要領に法的拘束力はない! とか。
教務主任制度は認めない! とか。
初任者研修制度絶対反対! とか。
 
いろいろ、異文化でした。
 
あそこだと、運動会の入場行進も、ただ歩くだけだもんね。
私の学校では、足並みがきっちりそろうように何度も何度も練習しました。
 
で、校長先生が立っている朝礼台の前に来ると、「頭ァー、右ッ!」という号令がかかって、一斉に頭右をするという。
 
あれはさすがに軍隊調だよなあ。
 
北海道で聞いた話では、運動会でラジオ体操をするのにも、「あれは戦時中、国民の体位向上のために作られたものだ!」……と言って文句を言う先生がいるそうです。
 
……と、いったような話を、当時、関西(……っていうか、香川)出身の先生にしました。
 
北海道は、当時の私を含め道外からやって来た先生が多いのです。
 
すると、
 
「いやあ、土地によってやっぱり教育って違うよ。
ほら、ごんぎつねってあるやろ?」
「あるねえ」
「あれなんか、うちのとこやったらもろに同和教材やもん」
「童話じゃなくて同和?」
「そう。
ほら、まず、ごんは、村から少し離れた裏山の、しだが茂ったようなところ、つまりじめじめした穴ぐらのような所に住んでおるわけや。これはなぜか?」
「……きつねだからじゃないのか」
「つまり、ごんは、通常の村落共同体からは疎外された存在なわけや」
「……きつねだからな」
「その、村人からは偏見の目で見られているごんが、やっぱり村の中で貧しく、ひとりぼっちの兵十と仲良くなろうとする。つまり、疎外された者同士の連帯感を感じるわけやな」
「……まあ、『おれと同じ、一人ぼっちの兵十か』って言うのは確かだが……」
「しかし、兵十は結局、村落共同体の一員なんや。ごんの思いは、村人の側には届かず、結局、兵十の偏見による一方的な勘違いと暴力によって、悲劇に終わるんや」
「ううん……、そ、そういう話だったか、ごんぎつね」
「うーん、わいも、ほんまに作者はそこまで考えとったんかな、と、思うこともあるけどな」
「いや、そこまでというかどこまでというか……」
 
全然方向性そのものが違う気がするよ。
 
ともあれ、このように、たとえ根拠法も使用している教科書も同じでも、現実の教育の実態は土地によって全く違います。
「日本全国一律の教育」というのは、実は虚構なのだな、と、感じさせられたことでした。