「天気の子」も「オメラスから歩み去る人々」も名作だ、という話。

 見てきました天気の子。
 事前にあらすじは知っていて、あまり期待はしていませんでした。
 なんか、セカイ系エロゲー文脈だとか言われてて、
togetter.com
 正直そっち方面の教養はないし、「万人受けを捨てた賛否両論映画」とか言われていたので。
 
 そしたらすごく良かった。
 見ながら2回くらい涙してしまった。
 
 ……なお、一緒に見た奧さんは
「マジで? 私は途中から『うわー駄作映画を見てしまった……』って思いながら見てた」
 だそうです。*1
 
 賛否両論ですね!
 
 そんなわけで、個人的な感想を、とある古いSF(……なのか?)と絡めて書いておきます。
(どっちも全力でネタバレします)
 

「オメラスから歩み去る人々」

 「オメラスから歩み去る人々」は、アメリカのSF作家、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンが書いた短編小説です。(ヒューゴー賞受賞作品)
 
(ここから作品紹介をするので同作を読んだことがある人は読み飛ばしてください)
 
**ここから**
 
 ル・グィンは、SFとしては「闇の左手」が有名ですが、たぶん作品としてはファンタジーである「ゲド戦記」が一番有名かも知れない。……ジブリ映画にもなったし。*2
 
 「オメラスから歩み去る人々」も、どっちかというとファンタジー作品です。
 
 あらすじを説明しますけど、文庫本で16ページしかない短編だからみんな読んで!*3

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

 作品は、「オメラス」という架空の都市の情景を描きます。
 
 オメラスはある種の牧歌的理想郷です。
 古く美しい街並みに、穏やかな気候、明るく、そして思慮深い人々。
 身分の上下はなく、芸術や学問も高みに達しています。
 
 さりとて、オメラスはいわゆる反テクノロジー的な、あるいは禁欲的な「天国」ではありません。
 高速鉄道や、あるいは洗濯機の類もあるかも知れないし(そこは読者の想像に任せる、と作者は語ります)、読者が望むなら、性宴(オージー)や、習慣性のないドラッグ「ドルーズ」を付け加えても良い、とされています。
 
 ともあれ、<夏の祝祭>を前に、郊外の草原で草競馬の騎手になる子どもたちの緊張と高揚、大樹の下で横笛を吹くことに熱中している少年、そしてそれをあたたかく見つめる大人たちの姿が描かれます。
 
 それで?
 
 かくも完璧な理想郷であるオメラスですが、実はこれは、ある契約にもとづいたものなのです。(このへんがややファンタジー要素)
 
 それが何者との契約なのかは語られませんが、人々の幸福の代償に、オメラスのとある建物の地下室には、がりがりにやせた一人の子どもが閉じ込められています。
 
 部屋には窓もなければトイレもなく、子どもはしょっちゅう排泄物の上に座るので、尻やふとももは腫れて膿みただれています。
 子どもは大体ぼんやりと座って、鼻をほじったり、陰部をいじったりしていますが、自分の両親や、外の生活のことも知っているので、時には
「おとなしくするから、ここから出してちょうだい!」
 と叫ぶのですが、誰もそれに答える者はいません……この子どもに優しい言葉一つかけてはならない、さもないと、オメラスの幸福は全て失われる、というのが「契約」だからです。
 
 オメラスの住人は、物事が理解できる頃になると皆このことを知らされます。
 最初は誰もがショックを受けるのですが、やがて、その現実を受け入れるようになります。
 
「あの子は長い地下生活で知的に遅れているから、助け出してやったところで、与えられた自由や文化の幸福を大して理解できないだろう」
「外に出たところで、やはりみじめな気持ちでいることは変わらないに違いない」
「あの子一人の幸福と、この街の何万人もの幸福を引き替えにすることはできない」
 
 このようにして、オメラスの人々は自分を納得させるのです。
 
 ……しかし、時には、そうでない人もいます。
 
 若者が、あるいは、もう何十年もオメラスで過ごした大人が、黙って思い悩んだ後、ふっと姿を消すのです。
 彼らは夜明け前に街を出て、どこかへと歩み去ります。
 その行き先がどこであるかはわからない、と作者は言います。「しかし、彼らは自らの行先を心得ているらしいのだ。彼ら―オメラスから歩み去る人びとは」
 
**ここまで**
 

オメラスに住む私たち。

 ……もちろん、ル・グィンが描きたかったのは、架空の理想郷ではありません。
 私たちの住むこの世界なのです。
 
「天気の子」で、圭介社長は言います。(小説版)
 
「人柱一人で狂った天気が元に戻るんなら、俺は歓迎だけどね。
 俺だけじゃない、本当はお前だってそうだろ?
 ていうか皆そうなんだよ。誰かがなにかの犠牲になって、それで回っていくのが社会ってもんだ。
 損な役割を背負っちまう人間は、いつでも必ずいるんだよ。普段は見えてないだけでさ」
 
 私たちの社会は、オメラスのように素晴らしい理想郷ではありません。
 
 しかしそれでも、その豊かさ、便利さを支えるために、どこかで多くの人が犠牲になっている。
 
 それを
「仕方ないんだよ。世の中そういうものだよ。どうしようもないんだよ」
「哀れな彼らを救うために、私たちみんなの幸福を犠牲にすることはできないよ」
 等々と受け入れるのか? ということを、ル・グィンは問うたのです。
(ほとんどの人は受け入れているよね、と言いたかったのかも知れない)
 
 そのことは、「オメラス」の作者解説や、その次に掲載されている「革命前夜」で明らかです。
 作者は、「革命前夜」の主人公である年老いた革命家、タヴィリを「オメラスから歩み去った人々のうちの一人」と述べていますが、両作品が同じ世界にないことはほとんど確実なので。
 

歩み去らない、ということ。

 ただ、ル・グィンの言わんとすることはわかるものの、昔、高校時代に「オメラス」を読んだ時から、どうしてもひっかかることがありました。
「あの子はどうするの?」ということです。
 
 オメラスから歩み去る人々の志は高潔かも知れないし、故郷を現状のままにしていくのはおそらく抑制的な態度なのかも知れない。
 あの子を助け出した結果オメラスに巻き起こるスペクタクルを描くのは、ル・グィンがやりたいことではなかったのでしょう。でも……あの子はどうなるの?
 
 そう考えた時、「天気の子」は、まさに「あの子」を救う物語だったと思います。
 
 みんなの幸せのために、犠牲になろうとする天気の巫女。
 それを救い出した結果、豊かで便利な東京は水の底に沈みます。
 
 でも、それで世界が滅びるわけではない。
 
 水没した山手線の上には水上バスが走り、テレビの天気予報は雨の止まない東京で「どれくらい強い雨が降るか」を語り続けます。
 世界の形は変わってしまったけれど、それでも、新しい世界に人々はなんとか適応して生きていくのです。
 
 だから、オメラスから歩み去った人々も、歩み去る前に、あの子を地下室から救い出しても良かったのです……おそらく。
 
 もちろん、「オメラス」と「天気の子」は全然違う作品です。
 オメラスから歩み去った人々が、(おそらく作者と同じように)より良い社会を築きたい、という思いを抱いているのに対して、「天気の子」の帆高は、別段社会に対する何の考えもなく、たぶん世界を変えてしまうことへの覚悟もなく、「ただもう一度あの人に会いたいだけ」です。
 でも、それでいいのだと思います。
 オメラスから歩み去った人、例えば革命家タヴィリの思いが高潔なものだったのは確かでしょうけれど、動機が「愛にできること」だってやっぱり尊い
 むしろ、個人の愛を否定してしまったら、社会改良に意味があるでしょうか?
 

以下余談。

私「……それで、どの辺りが気に入りませんでしたか」
妻「私は別に、子どもがチンピラに殴られたり、銃を撃ったりする映画を大画面で見たいわけではなかった」
私「ああ……」
妻「映像は綺麗だったけど……。私は前情報を全然知らないで見たけど、CMとかポスターで見せてる雰囲気と、映画の内容がだいぶ違うと思う」
 
妻「そもそも、あんな子どもが風俗に勧誘されるとか、暴力とか、よろしくないと思う。教育者としてどうですか」
私「ええ……。でも、実際『プチ家出』とかで繁華街に出てきた未成年が危険な目に遭ったり、そのまま悪い世界に引き込まれてしまう現実はあると聞くので。
 島からのこのこ出てきた主人公が、親切な人に出会ってそのままスムーズに東京暮らし……みたいな脳天気な展開になったら、それこそマズいのでは」
 
私「カップラーメンとか、実在の商品が大量に出てきてたけど、あれはみんなタイアップなのかなあ……。『ムー』は『書く方も読む方もウソだとわかってる』扱いだったし、Yahoo!知恵袋は『役に立つ回答が絶対に返ってこないサービス』扱いだったし、バニラトラックも『怖い世界の入り口』扱いだったし……」
妻「バニラトラック?」
私「なんでもないです」(ウチは田舎なので走っていません。私もYouTubeでしか見たことがない)
 
妻「『天気の巫女』というのはいわば神聖な存在なのであって、その力をお金もうけに使う、という発想はどうなのかなあ、と思った」
私「うーん…神話伝説的な存在が現代世界に登場したら、という仮定としてwebサービスの形にしたのは面白かったのでは……?
 ある意味では、より現代的になった『魔女の宅急便』なんじゃないかな。
 もちろん、あれは決して『いいこと』ではなくて、だからこそ代償を支払うことになる、という話だったのでは」
 
私「主人公は警察に捕まるし、社長も警察に捕まるし、センパイは補導されて夏美さんもたぶん警察に捕まってるんだけど、結局みんなめでたしめでたしで良かった。
 なんか会社は大きくなってるし、夏美さんはたぶん就職できたみたいだし。
 警察に捕まっても社会復帰することはできるんだよ、という希望があった。
 社長が警察を殴ったせいで娘さんに会えなくなったりしたらさすがに後味悪かった」
妻「この映画を『めでたしめでたし』と言っていいのかなあ……」
 
妻「なんか、前作『君の名は。』で万人受けする映画を作ってしまった監督が、
 『オレはそんなお行儀のいい映画ばかり作る人間じゃないぜ!』
 って、ことさらに露悪的な表現に走ってしまったように感じる。
 前作に怒った人の方ばかり向いて、前作を好きだった人を忘れているのでは」
私「私は『君の名は。』も『天気の子』もどっちも良かったと思うから、そう言われてもよくわからない。前作とジャンルが違うのは感じるけど」
 
私「そういえば、あのチンピラ、終盤の快晴になるシーンでちらっと出てたね」
妻「赤ちゃんだっこして、奥さんと一緒にいるカットね」
私「帆高を殴ったりするシーンでは、正直こんな奴車にでも轢かれたらいいのに、と思ってたんだけど、あれを見て、ああ、こんなクズ野郎でも妻と子がいて、車に轢かれたら困る人がいるんだなあ、と……」
妻「そんなに奧さんと子どもが大事ならもっとまともな職を探して欲しいです」
私「ごもっとも」
 
 ……まあ、「前作みたいなのを期待していたら違った」「CMやポスターのイメージと中身が違う」というのが、賛否両論の理由なのかなあ、と思いました。

*1:「でも気にはなってたし、話題作を一緒に見られて良かったにゃー」だそうです。 隙あらばのろけていくスタイル。

*2:ご存じの方も多いでしょうが、ル・グィンはあの映画に 「よくも登場人物を白人にしやがったな!」 「魔法の剣で悪い影を切ってめでたしめでたし、というのは作品のテーマが全然違うだろ!」 と激怒していた。

*3:短編集「風の十二方位」所収。作者解説を入れても19ページ、次の「革命前夜」を入れても42ページしかないよ!