前説
黒猫亭さんから、「水からの伝言」(以下、「水伝」)に関係して言及を頂いたので、つらつらと思うところを書いてみます。
黒猫亭さんの記事
filinionさんに応える 〈概論〉
filinionさんに応える 〈各論〉
filinionさんに応える 〈考察)
一応、黒猫亭さんへの私信ではなくて、不特定多数向け、を意識して書いてみます(いわゆる「クネクネ」を避けるため)が、読んでつまらなかったら申し訳ないです。
前回の記事(「真」善美。)の天動説云々も、一般向けを意識した記述だったのですが、黒猫亭さんには
「こちらのブログでの議論を踏まえていない」
と映ってしまったようです。
いやまあ、事実踏まえていなかったわけですが。申し訳ないです。
読み飛ばして良い部分(本稿における「嘘」の定義)
「狭義の嘘」→事実に反する命題。一般に「嘘」と言ったときに考えられるようなもの。「水伝」を含む。
「狭義の真実」→完全に正しく、例外もなく、それ以上の補足説明が必要ないような命題。
「広義の嘘」→「狭義の真実」に含まれないあらゆる命題。「東京は日本の首都である」は、(補足説明を必要とするので)ここに含まれる。
本稿では、単に「嘘」と言った場合、「狭義の嘘」を指します。
「水伝」を授業で扱うことの何が問題なのか。
一言で言って、「それが事実に反するから」でしょう。
もちろん、
「水に道徳的判断を任せるのはおかしい」
とか、道徳教育として適切でない、といった立場からも批判はあるでしょうし、それも妥当な意見だとは思います。
でも、それは最大の理由ではない。
だって、逆に言って、道徳教育として望ましい効果を挙げうるならば、事実に反することを教えても良いのでしょうか。
ワシントンと桜の木のエピソードを、史実として教えるとか。
やっぱりそれはいかんだろう、と、私は思うのです。
嘘の上に築き上げられた教育効果というのは、結局は砂上の楼閣であって。
嘘がばれたとき、
「なーんだ、先生の言ってたことは嘘だったのか」
となって、その教育効果が失われるのみならず、学校教育全体の信頼を傷つけることになる、と思うからです。
だから、道徳教育として不完全なので問題、というより、科学的に間違っているから問題、なのだと思います。
(黒猫亭さんは、「水伝」の授業について、むしろ道徳教育としての是非を問題にしておいでのようで、この辺りが話がかみ合わなかった理由の一つかと思うのですが)
教師は「水伝」にだまされやすいのか。
たぶん違う、というのが私の考えです。
「水伝」が一般にかなり広く受け入れられ(Wikipediaによれば20万部売れたのだとか)、それから教育界にも進入してきた、というのが事実ではないでしょうか。
ただ、一般の人が「水伝」を読んでそれを信じていたとしても、大した問題にはなりませんし、そもそも周囲の人は気づかない可能性が高いでしょう。
しかし、それが教員だった場合、子ども達を指導する上で、それに言及する可能性は高いと思います。
(いわゆる「授業」の形でなくても、言葉遣いの悪い子への指導などの場面で)
「指導する」という立場上、自分の考えを子ども達に語る場面はあるので。
つまり、一般の人に比べて、教員は信者になったことが露見しやすいし、周囲へ感染を広める可能性も高いので、問題になりやすい、ということだと思います。
黒猫亭さんは、
「水伝がまず教育現場において蔓延した」
という表現をされるわけですが、そのように見える原因は、この辺りにあるのではないかと思います。
黒猫亭さんは言います。
「教師が騙されたのは教師固有の隙があったからなのだし、もしも警察官が騙されるとしたら、それもやっぱり警察官固有の隙があったからであり、それは会社員が騙されるとしても、主婦が騙されるとしても同じことである」
この論理にはどうも疑問があります。
教師と警察官と会社員と主婦がみんなだまされている以上、それぞれに「職業固有の隙」があって別々にそこを突かれた、というより、各自に「共通の隙」があった、と考えるべきではないでしょうか。
というか、原因は「職業」固有の隙である、という仮定もどんなものでしょう。
仮に、人間に「ある集団に固有の隙」があるとしても、年齢層に固有の隙や、育った地域や家族構成や過去の病歴に「固有」の隙だってあるはずだし、そこを突かれる可能性もあるはずです。
それをあえて
「原因は教師という“職業”に固有の隙なのだ!」
と言い切るのには疑問を感じます。
……とはいえ、あまり身内をかばっても仕方ないので、
「教師に固有の隙にはどんなものがあり得るか?」
ということを考えてみます。
教員に固有の問題。
それは、「教育者である」ということそのものでしょう。
普通の人が「水伝」にだまされたとしても、一般にとる行動は、せいぜい水に「ありがとう」と言ってから飲む(歌手の米倉千尋氏)、とか、その程度でしょう。
身近な人、それも何十人もにその本を薦めるとか、よほどの感銘を受けない限りないと思うのです。
でも、教員は、常時教材を探していますので。
何か「おや?」と思わされるようなものがあると、それを拾って教材化してしまうことがあります。
特に、道徳や総合学習のような、教科書のないものでは。
要するに、「水伝」は、教師にとっては「仕事で活用できる情報」なのであり、他の職業の人に比べて「実用的」な知識と見なしやすいのです。
で、さらには、「日本の教育を向上させたい」「同僚を助けたい」といった職業的使命感に駆られて、授業の指導案をインターネット経由で公開してしまうとか。
すると、それは同じように教材開発に苦しんでいる(科学リテラシーの低い)教員に受け入れられ、広まっていく……という。
つまり、教員間では、ある疑似科学が授業に利用可能な場合、「口コミで広まる」という現象が起こりやすいわけです。
そういう意味では、「水伝」が学校で広まりやすい、ということは言えるかも知れません。
どうすれば良いのか
うーん。
前回の記事でちゃんとした改善策を書かなかったこともあってか、黒猫亭さんには、どうやら私の主張が
「だまされる奴は阿呆だから仕方ないんだよ。付ける薬はないよ。放置放置」
的な受け取り方をされてしまったようなのですが。
しかし、子ども達のことを思えば、もちろん放置するわけにはいきません。
で、どうするか、なのですが……。
・教員への科学教育を強化する
これがまあまっとうな手法なんでしょうね。
……でもそれを前回主張しなかったのは、そもそも現在の学校現場にこれ以上何かを詰め込むことが可能か、という問題があるからで。
常々、
「お前らこれ以上教員の仕事を増やさないでくださいお願いします」
と書いているのに、科学分野に関しては職員研修の強化を主張したりするのはどうか。
いや、私は科学が好きだから大歓迎なんですが。
自分が好きだから、というバイアスがかかっているのではないか、と疑ってしまったからです。
同様に、
・採用試験で、科学リテラシーを重視する
という方針もありですが、こういうものは常に何かとトレードオフの関係になるものであって、科学リテラシーが向上した分、漢字が正しく書けないとか事務が壊滅的に苦手だとかいう人材が増えるのはたぶん不可避です。
そういった諸問題を考えるとき、コスト対効果として見合う方策はなんなのかな、となると、ちょっと思いつかないのでした。
あとはまあ……、TOSSの審査にまともな科学顧問を入れるとかでしょうかねえ。
「水伝」教師は、それが誤りであることを認識していたか?
まさか。
嘘と知りつつ何かを教える、なんて、普通あり得ないことだと思います。
(何か、他にそういう例があるでしょうか)
……まあ、道徳教育上便利な「方便」として使ってしまう人がいないとは言えませんが……。
でも、前回書きましたが、「水伝」って、必ずしも便利な教材ではない、と思います。
確かに、写真というビジュアルなものを使って、「道徳」という形のないものを教えられる、というのは、非常にインパクトとして優れてはいます。
しかし、それだけなら、同じようにインパクトのある授業を構築することはできます。
実際、それこそTOSSの道徳教材だって、写真などを使わず、子ども達に強い印象を与える授業は多数あるわけで。
一方で、「水の結晶」というのは、子ども達にはなじみのない概念です。
黒猫亭さんは、
普通はこの場合、「結晶って何?」ではなく「『水の結晶』って何?」という形の質問を想定するのが一般的ではないか
とおっしゃいますが……。
例えば、「アメリカのサブプライムローン問題が……」というニュースを聞いたとき、
「『アメリカのサブプライムローン』って何?」
という質問をする人、というのはちょっと考えられません。
「『サブプライムローン』って何?」
という質問の方が普通なんじゃないでしょうか?
ともあれ、その質問に
「氷みたいなものだよ」
と答えたとして、子ども達は納得するでしょうか。
たぶん
「ふーん」
とか言うでしょうが、納得はしないはずです。
だって、子ども達が知っている「氷」とは全然違うから。
その時点で、
「これは自分が知っている氷、自分が知っている水とは違う何かなのだ」
という理解になってしまいます。
(子どもは、「教室で習った理科の知識と、現実の世界は違う」的な考え方に陥りやすい。「素朴概念」とか、ちょっと関係するかも)
そのままでは、結局「腑に落ちない」という話になってしまいますし、それでは道徳教材として不十分です。
「この写真に写っている『水の結晶』は、まさに水そのものであり、その上君たちの体のかなりの部分は水でできているのだ」
という、高度に理科的な知識を子どもに得心させるのは、えらく大変なことだと私には思えます。
TOSSの人は熱意があるからいいんでしょうが、私はそんな面倒なことは嫌だなあ、と思います。
嘘だと知っていながら、そこまでの努力をする気にはなれません。
だから、「水伝」が学校で使われたのは、使う本人がそれを信じていて(少なくとも疑っていなくて)、熱意があったからこそなんじゃないかな、と私には思えるのです。
やや私信(黒猫亭さんへ)
前述の通り、私は「広義の嘘」は、「狭義の真実」の補集合だと思っていました。
従って、この世のあらゆる命題はそのどっちかに入る(でもほとんど全部が前者に入る)と思っていましたので。
なので、「日本の首都は東京である」も、当然その例としてあげたつもりでした。
(件の文章にもそう書いてあります)
それを
「二択では回答不能な設問の立て方」
「わざと破綻するように設定された合目的的な設問」
「論述のプロセスがトリックだからフェアではありません」
とか非難されようとは予想だにしませんでした。
はて。
どこですれ違ったんだろう。
そこで黒猫亭さんの文章を延々読み返すに、黒猫亭さんは、「広義の嘘」を
「結論は正しいかも知れないが、途中の論理が間違っている道徳教育」
くらいの狭い意味で使っておいでなのかな、という気もしてきました。
もっとも、その割に、天動説とか原子論とかが関連するトピックとして語られていますし、第一、それと「“水伝”という嘘そのもの」がどうつながるのかよくわかりませんし……。
黒猫亭さんが、「広義の嘘」や「狭義の真実」のわかりやすい例をいくつか挙げてくれたらありがたいのですが。
filinionさんのほうに「嘘事」という表現に対する反撥があるのではないかと憶測するわけだが、どうもfilinionさんの論には前提として「初等教育で教えていることは嘘事と表現し得る」というこちらの論の裏面に「だから今の教育は悪い」という価値評価を想定しておられる節があり
いやまあ、少なくともそれはないわけですが。
黒猫亭さんの言う「嘘事」という表現が、何か特殊な意味で使われていることは重々承知していますので、
「お前らは嘘つきだ!」
とか言われた訳じゃない、ということはよくわかっています。
ただ、とにもかくにも「水伝」は完全な誤りなわけで。
そして、学校で「広義の嘘」「嘘事」が教えられていることが、「水伝」を容認する原因となった、というご意見なのは確かなのでしょうから。
「子供相手の教育においては、何が嘘で何が嘘でないのかという境界が曖昧化しているのではないか」
「もしかしたら現場の教育者レベルの感覚では、教えるべき意味内容を導き出すプロセスが出鱈目であり虚偽ですらあることなどは何ら問題と映らないのかもしれない」
……といった論旨から考えるに、どうも黒猫亭さんご自身が、「広義の嘘」と「ただの嘘」をどこかで混同しているか、少なくとも一定の共通性を持ったものと考えておいでなのではないでしょうか。
(その点が問題だよ、というのが、前回コメント欄で指摘した点のキモなのですが、私が読んだ限りでは、黒猫亭さんから明確な回答はいただけていないようです)
もう一つ、黒猫亭さんが学校で「水伝」が“蔓延”した理由としてあげていらっしゃる点。
現在は子供に対して暴力を揮うことが厳しく禁止されているわけで、それは精神的な暴力をも含んでいる。子供に触ってはいけない、心を痍附けてはいけない、教育現場にはこういうふうな厳しい制約があって、地域社会の社会圧の教育機能自体も消失しているわけですね。子供に対して、その意に反して何かを教育的に強要する圧力は、事実上存在しないと謂っても過言ではない。
そうすると、昔は暴力が担っていた教育機能を詐術で代替することになる。(教育と嘘事(の※欄の続き)より)
ううむ。
確かに、子どもを不快にしてはいけない、的な圧力が生まれつつある、ということは、私自身過去に書きました。
しかし、それが教育現場で支配的勢力となっているか、と言えば、私にはそうは思えません。
学校教育法第11条は、体罰禁止を定めた条文として有名ですが、同時に懲戒権を認めてもいます。
懲戒と見なしうる範囲がどれだけであるかは文科省から通知が出てもいます。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/07020609.htm
といったわけで、子どもに「不快な思い」をさせることは依然として認められている、というのが私の理解です。
実際、本校の教頭、忘れ物をした子に「昼休みの草むしり」を命じたりしてますし。
極端な話、「その子にだけアメを与えない」というのも、ムチとして機能しうるわけで。
黒猫亭さんがご存じの学校では「子供に対して、その意に反して何かを教育的に強要する圧力は、事実上存在しない」状態なのかも知れませんが、それが一般的なものか、というとちょっと疑問です。
オレ個人は、知的能力において不完全であることが当たり前である子供の納得や自発的意志を尊重する(もしくはそれ以外に児童を服従させる手段がない)という建前自体が方法論的で過渡的な欺瞞にすぎないと考えます(教育と嘘事(の※欄の続き)より)
それは言い過ぎでは……。
というか、少なくとも
「悪い言葉で水の結晶が汚くなる」
↓
「人間の体には大量の水分が」
↓
「悪い言葉は人間を傷つける」
↓
「悪い言葉は使うべきでない」
という論理に納得できる子なら、
「自分が言われて嫌な言葉は言わないようにしよう」
という論理でも納得するでしょう。
教員が子どもを不快にすることが完全に禁じられており、子どもの納得や自発的意志に頼ることが絶対に必要で、しかも道徳教育においてそれを確実な形で得ることが不可能で、詐術によってのみ目的論的な形でそれが可能なのだとしたら、黒猫亭さんの論理は正しいと思います。
しかしその前提がおかしい以上、結論にもあまり意味がないと思います。
まあ、そういった傾向も多少はあるかもしれませんね、とは思いますが……。
また、アメとムチに頼らず、子どもに何かを納得させることはある程度可能だし、可能ならその方が望ましい教育だ、というのは、私には自明に思われます。
時間と労力がかかる、という問題点はありますが……。
ともあれ、
「授業に使えそうな疑似科学は教師間で広まりやすい」
「教員の科学リテラシーを高めることで、問題は抑制できるだろう」
というのが、私にはごく素直な(というか、むしろ当たり前すぎる)解釈に思えますが、いかがでしょうか。
しかし、黒猫亭さんの意見は意図的な教師批判ではない……のでしょうけれど、TOSSの実践を
「筋論的に考えれば戴けないような内容のものが殆ど」
と言いつつ、それを
「教育者をマッスとして捉える総論」
のサンプルとして取り上げるのって、間接的には教師全体への批判だと思うんですが……。
「TOSSの教師」というのは、良くも悪くも偏ったサンプルなわけで、「一緒にすんなー!」的反応は当然予想されるかと思います。
あと……最後の記事「考察」についても。
あれは、事実上
「filinionがアンフェアな議論を展開するのは小学校教師固有の言説の傾向なのだ。
子どもの自信を微塵に打ち砕き、不安に陥れる技術が身に染みついているのだ。
その一方で、大人の論者との対等の議論に剰り慣れていないのだ」
と言っているに等しいわけですが……。
私をけなすのはともかく、それをいきなり小学校教師全般に敷衍するのはどんなものでしょう。
TOSSの件もそうですが、サンプルが偏っているにもほどがあります。
子どもに教えるときの癖がないか、といわれたら、全くないとは言えませんが。
しかし、教員は教員同士で議論もします。子どもとばかりしゃべっているわけではありません。
最初に述べたとおり、あれは議論として書いた文章ではありませんので、議論になっていないのはおっしゃるとおりです。
しかし、前述の通り、「首都云々」の論理も別に破綻してないつもりでしたし。
質問と答えを一緒に書いてる文章に「詐術の悪意」を見られるのは……困ります。
(「日本の首都は東京だ、というのは狭義の真実ですか?」
と尋ねて、相手に答えさせてから
「実は違うんですね」
……とやれば、まあ「ひっかけ」だと言われても仕方ないでしょうが)
それと。
私、このとおり長文を書く人間ですし、読むのもそれほど嫌いではない、つもりです。
「三行でplz」とかいうのは自分の無教養加減を告白するようなものだと思ってさえいます。
……が、やっぱり黒猫亭さんのところの議論に、現状ではついていけません。
時間的に。
私も、「読まずに書く」とかいう表明をしたくはないのですが……(あれもバカの告白ですわな)。
しかし、例えば「各論」では、「子どもの理解力は限られている」とか「教師は子どもを不快にさせないことを要求されている」とかいった同じテーマが、表現を変えて何度も語られるのですが、あれは必要なことなのでしょうか。
長いけれどそれに見合った内容がある、と評する方もいるそうなので、私にはわからない何かの意味があるのかも知れませんが……。
たぶん、黒猫亭さんの文章を正しく理解できるだけの知性が、私には備わっていないのかも知れませんね。
議論をしたくないわけではないのですが……。残念ながら。