「真」善美。

直感はなぜ直感的に正しくないのか。

 
 大学時代の恩師が、
「人間の直感というのも案外バカにできないものだよ。
 直感的に『こうじゃないかな?』と思っていたことが、よく検証してみると確かにその通りだったりする。
 無意識の判断力なんだろうな」
……というようなことを言っていました。
 
 しかし、私はどうも納得がいかず。
 
 直感がそんなに素晴らしいなら、論理的思考なんかやめて、万事直感に頼れば良いわけですが。
 
 で、まあ、いろいろ考えたんですが、
「人間は、“自分の直感が証明された”と思った時点で考えるのを止める傾向にあるのではないか」
 と思います。
 
 「直感」って、なるほど無意識の判断ではありますが、同時に、その人の願望とか偏見とかを多分に含んでもいるはずです。
 
 で、数学とかならともかく、政治とか環境とか、考慮すべき要素多い問題だと、一つ余分の要素を入れただけで結論がひっくり返ってしまったりします。(その恩師は社会学の人でした)
 
 あれこれ考えて、結論があっちにひっくり返りこっちにひっくり返りした末に、自分の「直感」に合致する結論になった瞬間、
「これだ! これが正しい結論だ!」
 で、思考停止。
 
 だから、
「直感は正しい」
 ように思えてしまうのではないかなー、と。
 
 かつて、バブル期に大変な円高が進行していたとき、
円高で輸出産業が苦しんでいるというのは嘘だ!」
 と主張するおじいさんがいてですね。*1
 
 しかしよく読んでみると、製造コストがドルでかかって消費者が円で支払う前提で話が進むわけです。
 いや、それはむしろ輸入の話だろう、と思ったんですが。
「それほど難しい話ではないから、読者諸賢も良く考えて御覧になれば、マスコミの詐術に気がつくはずである」
 とか書いてある。
 
 良く考えるべきなのは筆者なんですが。
 
 たぶん筆者は、マスコミが「円高で輸出産業が云々」って報道したときに、
「嘘だ!」
 と“直感”したんだと思います。
 
 で、その直感が「論理的に証明された!」と思った時点で考えるのを止めているんだろうと。
 
 ……まあ、ここまでの話のオチは、
「“直感が正しいとは限らない”という私の直感が論理的に証明された!」
 ということなんですが。
 

教師は嘘を教えるのに慣れているか。

 
 話はちょっと変わって、ちょっと前に話題になっていた、学校と「水からの伝言」の話。
 
 まごうかたなき疑似科学水からの伝言」の講演会が、女性校長会で行われる、という事件がしばらく前にありました。*2
 
 で、そのことに関連して教育について述べているのが「教育と嘘事」(黒猫亭日乗)という記事。
http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/10/post-801a.html

子供に対して大人の話をすると当然「よくわからない」という反応になるが、「よくわからない」ながらどの程度わかっているのかが問題になる。それはつまり、完全にはわからなくても、どの程度わかっていればよしとするのか、という問題でもある。

これを煎じ詰めれば、子供に物を教えるということは、子供にわかる意味内容を予め想定してそのように成形した情報を教えるということである。
(略)
複雑な情報は、まず単純化して教えてから、子供の発達度に応じて詳細な細部を補完していくという形になる。
(略)
これはつまり、とくに初等教育においては、複雑な問題は中間項がスッポリ抜け落ちた形で子供に伝わるということになる。
(略)
つまり、初等教育の教育者は、悪い言い方をすれば、大人が考えるような意味で正しいことを子供たちに語らないという身振りに慣れてしまっているのではないか。つまり、子供向けの不完全な正しさで物事を語ることに鈍感になっているのではないか、このような疑いを抱き得るだろう。

これをもっと踏み込んで謂えば、子供相手の教育においては、何が嘘で何が嘘でないのかという境界が曖昧化しているのではないか、ということである。

 著しく略してしまって申し訳ないのですが、気になる方はどうか元記事を御覧ください。
 
 簡単に言えば、
「教師は子ども向けに簡略化して物を教えることに慣れている。
 それは言ってみれば半分嘘をついているみたいなものだ。
 だから、事実と異なることを子どもに教えるのも平気なのではないか」

 といったことかと思います。
 
 むむ。
 いかにもありそうな話、ではあるんですが……。
 
 いや、この記事、例によってPSJ渋谷研究所X様経由で知ったわけですけど。
「発達段階に応じた指導」とニセ科学http://shibuken.seesaa.net/article/107627549.html
 
 読んでから色々考えているんですが、「事実と異なる説明」の例がなかなか思いつかないので困っていました。
 
 TOSSの実践に「筋論的に考えれば戴けないような内容のものが殆ど」というのはかなり賛同しますが(割合として殆どかどうかは何とも言えないが、数としてかなりあるのは確か)、教科書の内容に関して考えるとどうか。*3
 
 「小学校では天動説を教えている!」なんて、一時期話題になりましたが、そういう報道こそ事実に反するわけで。
 天動説(太陽は地球の周りを回っている)が書いてある教科書なんてありませんよ?*4
 
 3年生の算数ではわり算の「あまり」を出すところまでしか扱わず、小数とか分数とかはもっと上の学年の学習になりますが、それも「教わっていない」というだけの話だし……。
(そういう、「とりあえず簡単な結論で止めておく」という例は多い)
 
 中学の「結合の手」とかはかなり便宜的な説明ですが、あれも「本当に手が生えているわけではない」って教わったような気がするな……。
 
 前・中期旧石器時代の記述とかは事実に反していたけど、あれは完全に「間違っていた」だけだし……。
 
 「磁石にくっつくのは鉄だけ」とか言い切ってしまうと、これは事実に反するかも知れないな……。
 
 と、色々考えたのですが、「これぞ」という例が思いつきませんでした。
 
 ……まあ、
「それはお前が教員だから、慣れてしまって思いつかないのだ!」
 とか言われると反論できませんが。*5
 もし、「これはそうじゃないか?」という例があったらご教示ください。
 
 ともあれ、不完全な情報を出すことは確かにあります。
 それが、成長に応じて情報が補充されていくことを前提にしている、というのも事実。
 
 しかし逆に言うと、それは
「自分が今教えている内容には不完全な部分もある。
 しかし、自分が教えているのは9年間に及ぶ義務教育カリキュラムの一部であり、不完全な部分は上学年で補足されるので大丈夫」
 という確信(安心感と言っても良い)があるから可能なことだと思います。
 
 ……と言いつつ、中学校の具体的なカリキュラムをちゃんと把握していないとか、かなり「義務教育カリキュラムへの信頼」とか「信仰」とかに近い部分もありますが。
 
 だから、「水からの伝言」(というか、TOSS的なものの多く)のような、教科書に掲載されていない内容を、その不完全さを知りつつ教える、というのは、あまりにも恐ろしいことで、私にはとてもできません。
 
 投げ込み教材(俗語)の誤りを訂正するのは、家庭教育や社会教育に期待するしかないのですが、私は家庭教育や社会教育を、学校教育ほど信頼していないのです。(えー)
 ……まあ、少なくとも科学教育に関しては。
 
 だから、教員が嘘を教えることに慣れている、というのは、ちょっと違うのではないかな、と、私は感じます。
 

何が正しいのかわからない。

 
 教員が「平気で嘘をつく人々」ではない、としましょう。
 
 じゃあ、なんで「水からの伝言」なのか。
 
 件の記事では、

「言葉を大事にしましょう」という至極単純化された結論さえ伝わるのであれば、何故大事にしなければならないのかという理路は一旦捨象されるのではないか。その理路がたとえ呪術紛いで問題含みの嘘事であったとしても、それはそれで問題とは見做されないのではないか。

 と推測されていますが、
「良い言葉を使いましょう」
 といった話は、「水からの伝言」なんかに頼らなくても、小学生・幼稚園児にでも教えられることです。
「みんな、言われていやだった言葉はあるかな?」
「逆に、言われてうれしかった言葉はあるかな?」

 とか聞いてみればよいのです。
 
 少なくとも、
「なんで悪い言葉を使ってはいけないの?」
 という質問が、
「結晶って何?」
 という質問より難しいとは思えません。
  
 ……じゃあ、なんで「水からの伝言」が、学校の授業で取り入れられたりするのか?
 
 答えは一つ。
 
「その教師が信じているから」
 
 です。
 
 ……考えてみれば単純な結論ですが。
 
 はなはだ残念なことに、教員の科学リテラシー(というか、情報リテラシーとか法律リテラシーとかなんでも)の平均は、社会全体の平均に比べ、
「ちょっとは高い……かなー?」
 という程度に過ぎません。たぶん。ひいき目に見て。
 
 で、一般社会で波動とかデトックスとか嘘っぱちがあれだけまかりとおってるんですから、それより「ちょっとは高い……かなー?」程度な人たちの中にも、それを信じてしまう阿呆が相当数いるのは避けられない。
 
 っていうか、うちの教頭は岩盤浴に行ってます。
 汗腺から毒素が出るんですってよ。
 
 阿呆呼ばわりしてすみません。
 
 いや、教師を擁護してくださる方もいるんですけど。
 
 件の記事のコメント欄*6に、亀@渋研X氏が、

「本当にそういう現象が起きるのかという点では、正直言って半信半疑だった」にもかかわらず、「こうして本になって売っている」ということと、「先行する実践例がたくさんある」ということでだいじょうぶと判断したわけです。

という例を挙げています。
これに対して黒猫氏は、
 
>これは筋論的な検証のアプローチではないですよね。
とか、
>本が売れているということが内容の妥当性を担保するものではないということは、さまざまなニセ科学関連の書籍の例で実証済みですね
 
 とかおっしゃる。
 まあそれはその通りなのですが、高度な科学に関して「筋道論的なアプローチ」が可能か、と言えば個人のレベルでは難しいのが現実でしょう。
 というか、個人のレベルでは、それこそ「天動説」とか、物理学で言えばニュートンどころかアリストテレスの時代(重い物は軽い物より早く落下する)に逆戻りせざるを得ない。
 
 むしろ、科学理論を自力で検証しようとして
相対性理論は間違っている!」
 とか叫び出す疑似科学の人も、枚挙にいとまがないわけです。
 
 そうすると、いきおい、
「専門家の言ってることは正しいんだろう」
 ↓
「科学解説者が言ってることは正しいんだろう」
 ↓
「新聞の科学欄に載ってることは正しいんだろう」
 ↓
「みんなが言ってることは正しいんだろう」
 
 とかいう判断基準にならざるを得ない。教師も。
 
 ……まあ、
「みんなが正しいと言っていることは確からしさが高い」
 と見なすのは、民主主義の原則でもありますしね……。
 
 もっとも、
「教員はみんな、“半信半疑だけど売れてるからやっちゃった”人たちなんだよ!」
 とか主張するのは、かなり責任逃れっぽい気もします。
 
 本気で信じている教員もかなりいるはずだし、そもそも
「なんで多数の人が信じてしまった(=本が売れた)のか」
 という問題がありますし。
 

正しいと思ったことは正しい。

 
 ……で、最初の話に戻るわけです。
 
 人間、自分が「こうあって欲しい」と思ったことが、ほんとうに真実であって欲しいのです。
 
 なんか最近、
「私たちは本当のことが知りたいだけなんです!」
 とか訴える人がいますよね。
 
 癒着胎盤とかパンがのどに詰まるとか。
 
 お亡くなりになった方々には心から哀悼の意を表するのですが、遺族の方が言う「本当のこと」というのが、「本当であって欲しいこと」に過ぎないのではないか、というのは、たぶん多くの方が感じられたのではないかと思います。
 
 「真善美」と言えば最高の価値ですけど。
 でもその人にとっての「真」というのは、実は「真であって欲しいこと」だ、というのが、人間の心理なのです。
 
 一方、教育関係者は、子ども達に悪い言葉は使うなとかタバコは吸うなとかゲームはやりすぎるなとか、「形のないもの」「直ちに立証できないもの」を教えなきゃならない立場にあります。
 
 子ども達を納得させるのは大変です。
 
 そこへ、「副流煙も有害」とか「ゲームのやり過ぎで目が悪くなる」とか「悪い言葉を使うと体内の水が云々」といった理論が、グラフだの写真だのつきで登場すれば、そりゃあ使いたくなります。
 
 これが本当であって欲しい!
 
 ……かくて、検証はなおざりにされ、疑似科学が学校に入り込む羽目になるのです。
 
 っていうか、「しつけに便利だから」って話であれば、家庭教育で疑似科学をやってるおうちも、実はけっこうあるんじゃないかしら。目につきにくいだけで。
 精白糖は有害だとか、育児雑誌に載ってたりしない?
 
 以前、
「体験によらない知識の重要さについて言っておく」(地下生活者の手遊び)
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080925/1222338469
というよそ様の記事を読んで、
・自然科学は事実そのものの共有を可能にするシステムをつくりあげた
 とした上で、

意味とか解釈とか、個々のニンゲンにとって「しっくりと」くる部分をそぎ落として事実そのものをとり出すことによって成立するのがカガクなのだから、カガクは最初から非人間的であり「しっくりと」くるものではにゃーんだ。

そりゃあ「水からの伝言」は人間味のある言説だろうにゃ。コトバは無機物にだって伝わるのが神話というものだにゃ。しかし、人間味のある、しっくり感のある言説だからこそ、それはカガクではにゃーわけだ。

 ……と述べられているのを読んで、得心しました。
 
 科学は、もともと人間の直感にしっくりくるように作られたものではないのです。
 そして、それが「事実」なのです。
 
 別なブログの、
事故米アフラトキシンによる肝癌のリスクを大雑把に計算してみた」(NATROMの日記)
 http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20080910
 という記事では、
 
「例のアフラトキシン汚染米で肝臓ガンになる人は、かなり多く見積もって0.0018人」
 という結論に、コメント欄で感情的反発が渦巻いています。
 
 どれもこれも、反論というより、「ちゃんと記事読めよ」というレベルなんですが。
 
 これでもし、
三笠フーズのやったことは言語道断だ! これによって肝ガンで死亡した人の数は、試算するとこんなに膨大な数にのぼる!」
 とかいうのが科学的結論であれば、みんな「そうだ、とんでもない話だ!」と、納得したんでしょうけど。
 
 ……死者が多い方が納得する、というのも嫌な心理だけどな。
 
 科学は(そして「事実」は)、人間の感情とか道徳とかを忖度してはくれないのです。
 
 そんじゃどうすればいいんだよ、というと、私には難しすぎてなんとも言えませんが……。
 
 むしろ、道徳に科学性を求めないことなのかな、と思っています。
 「科学的に正しい」ということは「真」ではあるかも知れないが「善」とは限らない、と思うのです。
 だから、科学を道徳の基礎に置こうとすべきではない。
 
 逆に考えて、仮に万一、「水からの伝言」が正しかったとします。
 
 「良い言葉」と「悪い言葉」を判断する力を、水が具えているとしましょう。
 
 で、たとえば「障碍者」(または「障害者」)と「障がい者」の両方を水に見せた時、前者の方が結晶が汚かったら(あるいは逆だったら)、我々はどんな表記を採用すべきでしょうか。
 
「東海」と「日本海」、あるいは「竹島」と「独島」では?
「日本人」と「中国人」では?
麻生太郎総理大臣」と「小沢一郎総理大臣」では?
「有罪」と「無罪」とかは?
 
 水のご託宣……というか、あえて水の結晶でなくとも、「科学的真実」の前に、我々はひざまづくべきでしょうか。
 「超人的な判断力を備えた人工知能」とか、「万物理論」とか。
 
 私にも、
「これが科学的真実であって欲しい」
 という願望はあります。
 
 その一つが、
「人種間で知的能力に差はない」
 という命題です。
 
 ……一部で信じられているらしい「黒人(や、有色人種全般)はサルに近い」と対極をなしますが、科学的根拠がないという点で大同小異です。
 
 というか、知的能力に遺伝的要素が絡んでいるのはほとんど確実です。
 
 人種間で、肌の色のみならず、身体的特徴全般について種々の差があるにもかかわらず、脳にだけは差がない……と、断言できるでしょうか。
 
 いや、
「知的能力は同等であるべきだ」
 ……と私は信ずるのですが、全能なる造物主が我ら人間を作った時、人権とか平等とかは全然考慮しなかったらしいのはほとんど確実なので。
 
 私の知る限り、この件に関する充分な規模の調査はないようです。
 
 というのも、知的能力には後天的な教育が大きな影響を与えているため、黒人・白人・黄色人種を同じ環境において調査を行わねばならないにもかかわらず、現実には、有色人種の方が教育環境の面で不利な環境に置かれていることが多く、厳密な調査が困難だからです。
 
 ……でも、いつか、厳密な調査が行われて、その結果、
「白人がもっとも知的に優れている」(またはその逆)
 みたいなことが明らかにされてしまったらどうしよう、と、私はずっと恐れています。
 
 「家畜人ヤプー」は(未読なんですが)、“日本人が実は「ホモ・サピエンス」ではなかった”という「発見」がなされた世界ですよね?*7
 
 そんな感じで、万一、ある人種が他の人類と知的な断絶があることが判明したりしたら、我々はどうすべきなのか、と思うのです。*8
 
 
 「道徳」の根拠を、科学に求めてしまうのは誤りなのです。たぶん。
 
 ……いや、だからといって、意志決定の際に科学を度外視していいのか、というと全然そうじゃないわけですが。
「発ガン性が疑われる物質の、食品への混入はゼロにするべきだ!」
 とか。
 
 粉デンプンでもなめてろ。
 
 ……でもさっき私、
「仮に、人種間で知的能力に差があることが科学的に証明されたとしても、平等な人権が認められるべきだ」
 って言い張ったわけですけど。
 
 でもたとえば、
「〜〜症候群の人たちは、〜〜の面で知的な遅れが見られる。特別な教育を受けた方が有効なことが実験的に証明された」
 ……というような場合、
「それでも、すべての子を普通学級で勉強できるようにさせるべきだ。それが平等であり、人権を守ることだ」
 ……って主張する人がいたら(います)、どう反論すればいいでしょう。
 
 もちろん、両者は同一ではないし、特別教育と「ヤプー」は方向性が全く逆ですけど。
 
 でも、
「道徳的判断において、科学的事実など問題ではないのだ」
 と言い切ってしまうのもまた問題なんだよな、と思うことしきり。
 
 たぶん、「最大多数の最大幸福」とか、社会として目指すべき目標は、科学に頼らずに立てて。
 その目標に到達する方策は、科学的手法で導けばいいんだろうな、とは思うんですけど。
 
 「“副作用ゼロで飲むと幸福になるクスリ”を量産してみんなにばらまけばいいんじゃない?」
 とかいう結論になりそうな気もするけど。
 

余談。

 
 教科書に載ってない上に事実と違うことを教えたのを思い出したので、罪滅ぼしの意味を込めて書いておきます。
 
 子どもから聞かれたのです。
 
「じゃあ、どういう人が日本人なの?」
 
 一年生のクラスでした。
 クラスに、お母さんが東南アジア出身、という子がいたのです。
 名前もカタカナだし、見るからに日本人っぽくない外見。
 
 でも、法律上は明らかな日本人だし、日本語しか話せないし、クラスの子から
「外国人」
 とか言われると泣いてしまうのです。
 
 私の答えは、
 
「……“ぼくは日本人だ”って言う人は、みんな日本人なんだよ」
 でした。
 
 いや、だって、国籍とか血統主義とか帰化とか、一年生に説明するの無理だし……。
 
 苦情もありましょうが、お許しください。

*1:で、アメリカの謀略がどうとかこうとか。
……何でそんな本を手に取ったんだか忘れましたが。

*2:……前の校長も行ったのかな、総会。
学校は、性による差別が少ない職場だ、と私は信じていますけど、それでも
「女性管理職、って、結構見る目が厳しいのよ、校長会とかでも」
とは、前校長の言でした。
……件の問題が、「だから女の校長なんて」とかいう人を勢いづかせないといいんですが。

*3:「教育者をマッスとして捉える総論なのだから、当然個々の教育者には異論もあることだろう。」
という意見に異論を唱えるのはやりづらいのですが、「マッスとして捉える」ときにTOSSをサンプルにするのは標本の偏りが大きいと思います。

*4:「小学校では地動説を教えていない」
 のは事実ですが。(太陽の動きと影の動きに関わりがあることを学んだり、太陽が天球上でどう動くかを観察したりするだけ)

*5:ほんとに言われたら
「それは反証不可能命題だ!」
 って反論しますので御注意ください。

*6:長文が多くて、全部は読めてません……。
向こうにコメントしないのはそれが一つの理由。

*7:いや、作中の白人支配体制には、ほかにも色々政治的・歴史的な理由付けがあるんだったと思いますが。

*8:……というか、あえて「人種」という枠組みに依らなくても「知的能力には遺伝的要因が関係する」って言った時点で、「知的能力が遺伝的に低い人たちのグループ」が想定できるわけですが。