ちょっと前の記事。
オーストラリアにおける「不都合な真実」の悲惨な結末 - 矢澤豊
記事の主眼は、
今年の2月7日前後に、オーストラリアのヴィクトリア州で大規模な山火事(ブッシュファイア)が同時発生し、200人近くが死亡、約500人が重軽傷を負い、約2,000世帯が住まいを失うという大惨事がありました。
……という出来事の遠因に環境保護団体の活動がある、という話です。(詳細については元記事を参照)
まあ、環境保護団体の活動が必ずしも科学的に妥当でなく、時には有害なことさえある、というのは事実と思います。
それは、これが初めての話でさえなく。
イヌイットのアザラシ猟の話とか、あるいは捕鯨の話とか、感情論が先走って結果が伴わない、みたいな例も実は多いかと。*1
だから、
「環境保護運動が「倫理的」な問題として捉えられるようになり、あたかも宗教的/原理主義的論調がまかりとおり、そこから科学的な思考、合理的疑義や議論が排除されつつある」
……というのは、的を射た指摘かと思います。
しかしどうもひっかかったのは、元記事の後段。
「圧倒的多数の科学者が同意している」という論法で、その主張を正当化することがいかに科学者として受け入れがたいか、というクライトンさんの見解は重要です。インタビューでは、アインシュタインの相対性理論を「ユダヤ人の科学」として中傷するためにナチスが御用学者200人あまりを動員して、アインシュタイン批判をさせた史実を引いています(ビデオの47:38から)。「圧倒的多数の科学者のコンセンサス」が科学的実証となるのであれば、ガリレオさんがなにを言おうと、「それでも地球は動いていない」はずだったわけです。科学は民主主義ではありませんからね。
いやいやいやいや待て待て待て待て。
ガリレオはまごうかたなき大偉人ですが、「それでも地球は」のくだり*2を自分になぞらえて語る人はなぜか大抵トンデモさん、という謎の法則があってですね。
そもそも、天動説を支持してガリレオを叩いた「圧倒的多数の科学者」なんて存在しません。
だって、一人でもそいつらの名前挙げられます?
よく知られたことですが、地動説を批判したのは、科学者というより主に聖職者でした。
カトリックの教義に合わないから批判された、という背景は有名ですね。
大体、コンセンサスを形成するほど科学者がいないですよあの時代。*3
相対性理論の件だって、ユダヤ科学がどうとかいうたわけた批判は、科学者というよりナチの政治家が主導したものです。
当のアインシュタインは当時すでにアメリカに渡っており、本人もその理論も、戦中・戦後を通じ、科学界で正当な評価を受けています。
……ただしナチスドイツを除く。*4
件の山火事防止の話だって、反対運動を繰り広げたのは、別に「圧倒的多数の科学者」ではないはずです。
(っていうか、環境保護運動から「科学的な思考、合理的疑義や議論が排除されつつある」ことが問題なはずでは?
なんでそれが科学者批判になるんだろう……)
こうしてみると、誤った説が「圧倒的多数の科学者のコンセンサス」を得る(少なくともそのように見える)のは、科学に政治が絡んだ場合に限るわけです。*5
……そうそう、ルイセンコのことも思い出してあげてください。
1:科学者は、間違った学説を支持し続けたいとは思っていない(さもないと後年に馬鹿扱いされるから)。
2:科学者の多くは科学について理解する力を持っている。
……以上の前提が正しいとすれば、より確からしい学説はより多数の支持者を獲得するはずです。
これはまさしく民主主義の原理そのものです。
科学の世界では、究極的な「科学的真理」はおそらく唯一です。
そして、そこに到達することは科学界全体の利益であり、また、個々の科学者の利益でもあります。
短期的にも長期的にも。
だから、たとえ科学者個々人が利己的で、競争し合っていても、全体としてはいわば一丸となって正しい道を模索することができるわけです。
一方、一般の政治では、全体の利害と個人・党派・企業・省庁の利害、長期的利益と短期的利益は複雑に対立し、「正しい政策」も明らかではありません。
だから、みんなのためにならない政策を頑強に支持し続ける勢力がいたり、過去の政策の功罪の評価が何十年経っても定まらなかったりします。
そう考えると、科学の世界って、むしろ民主主義が最も理想的に機能してる分野だと思うのです。*6
だから、「圧倒的多数の科学者が同意している」なら、それはたぶん正しいはずなのです。
大体、ガリレオやアインシュタインが正しかった、ということを我々一般人が理解してるのだって、結局「圧倒的多数の科学者のコンセンサス」に従ってるだけですし。
この辺を無視して、
「科学は民主主義ではない」「ガリレオを見よ」
とか言い出す人は、速やかに疑似科学者認定しても良いくらいだ……と、思うのですよ、私は。
……で、まあ。
こういう話は、もっと科学とか疑似科学とかに詳しい人が書けば良いんですよ。本当は。
それでも気になってこんなことを書いたのは、かく言う私も、ついこの間、子どもたちに
「科学は民主主義ではない」
って教えたばかりだからで……。
本年度、理科の授業開き。
……だいたい以下のような流れでした。
T「ここに、水の入ったビーカーがあります。まあ、仮に、水とビーカー合わせて300gとしよう。
こちらには、木のブロックがあります。100gとしましょうか。
一緒にはかりに乗せると、何gになりますか?」
C「400gに決まってますよ先生」
T「そうだなあ。では、このブロックを取り上げて……(ぼちゃん)ビーカーの水の中に浮かべると、重さはどうなるだろう?」
*軽くなる・重くなる・変わらないの3択で予想させる。
(ほとんどの子は「軽くなる」と予想する)
何人かに理由も発表させる。
T「よろしい。では、各班で道具を出して実験してみましょう」
*各班に実験させ、「水+ビーカーの重さ」「ブロックの重さ」「浮かべたときの重さ」を板書させる。
T「……さて、どうだろう。水の量なんかは、班ごとに違っていたけれど、“浮かべたときに重さがどうなるか”という点については……」
C「変わりませんでした」
T「そうだね。
世の中には、多数決で決めて良いことと悪いことがある。
理科というのは、多数決で決めることはできない、実際にやってみないとわからないことを扱う教科なんだね」
……というわけで。
いや、特に間違ったことを教えたつもりはなかったんですが……。
でも、前述の記事のブックマークで
「科学は民主主義ではない」
に無批判に賛意を表明している人たちは、ひょっとするとかつてこういう授業を受けてきたのかも知れないな……などと考えてしまいました。
本当は科学は民主主義だし、最終的には多数決なんだ、と、子どもたちに言わねばなりませんね。*7
そのことを授業でどう扱ったらいいか、は、いまだにつかみかねていますが……。
でも、科学的根拠の疑わしい「倫理的」主張に惑わされたり、現代のガリレオを名乗る疑似科学にひっかかったりしないように教育するのも、理科教育の大切な使命だよな、と思うことしきりです。
補足
この記事を書いて以来、何人もの方から同じようなご意見を頂きます。
それは主として、
A:「科学者は多数決で物事を決めたりはしないよ! 科学的手法で決めるんだよ!」
B:「多数決で科学的真理を見いだせると思ったら大間違いだよ! 多数意見が間違っていることもあるよ!」
といったものです。
それはそうです。
観察・実験・仮説・検証といった「科学的手法」こそ科学のキモです。
ただ、「科学的手法」による研究を経てなお、実験結果の解釈などを巡って意見の相違が残り、複数の学説が対立することはあります。
そのような場合に、どの説を正しいと見なすかは、それぞれの科学者が自分の科学的判断力に従って各自に決めることになるでしょう。
その結果、より正しい説は、おそらくより多くの支持者を得るはずです。
学界で充分一般的になった説は、「定説」と呼ばれ、ほぼ確からしいと見なされます。
この部分に関して言えば、民主的な原理が働いているといえる、と述べたのです。
「民主主義」と言うと政治に限ったものだ、という認識の方がいるらしく、「政治と科学をごっちゃにするな」というご意見も頂くのですが、それはそもそもこの記事の主張でして。
科学的手法が科学研究だけのものではないように、民主的な原理も政治の世界だけのものではありません。
私の言う「科学における定説の成立には民主的な原理が働いている」というのは、科学者がお互いに根回しやら派閥の切り崩しやら多数派工作やらをしているという意味ではありません。
っていうか、そういう多数派工作はそもそも民主主義とはちょっと違う話なので。
また、多数意見が間違っていることもある、というのは政治の世界でも科学の世界でも全くその通りです。
個々の人間が過ちを犯しうる以上、謬説が多数を占めてしまう可能性は常にあります。
しかし、それは結局は時間とともに正されていくものです。特に科学では。
今、科学界で「定説」として流布されている中にも、いずれ新しい説に取って代わられるものはあるでしょう。
ただ、それを誰よりもよくわかっているのは当の科学者たちであろうと思います。
そして、「取って代わる」というのは、結局は「新しい説が多数派になる」ということを意味するのです。
それと、気になるのは
C:「科学者は多数意見に屈したりしないよ!」
的な意見をくださる方がこれまた何人もいること。
それは全くその通りなのですが。
民主主義というのは、そもそも「多数意見に屈する」ことを要求するものではありません。
確かに、民主主義は「正しい意見はより多数の支持者を得るであろう」ということを前提にしますから、最終的には多数決で物事を決定します。
しかし、「正しい意見が多数の支持を得る」ためには、どの意見にも対等な機会が与えられる必要があります。
簡単に言えば、自由な議論が保証されていなければなりません。
どんな正しい意見も最初は少数意見として始まるのですから、少数派の発言権が圧殺されるようなことがあってはならないのです。
ゆえに、民主主義体制下においては、いかなる少数派であっても、その妥当性を訴える権利は常に保証されるのです。(これを「言論の自由」と呼びます)
科学者は、自説の支持者が少なくても、それが正しいと思えばたぶん考えを曲げないでしょう。
政治の世界でも、民主国家では、少数派の発言が妨げられたりはしません(すべきではありません)。
このあたりを無視して、
「民主主義=少数意見への弾圧」
という前提に立った意見をくださる方が多いのは、もしや小学校の学級会で議論を尽くさないまま多数決が濫用されていることも影響しているのではないかな、などと考えさせられてしまうのでした。
*1:ただまあ、今回の件について考えると、あの辺りでは定期的に山火事が起きるのが「自然」であって、「自然保護」という意味では“グリーニーども”が正しいんですよな。
まあ、そんな「自然」の中で人間は生きていけないですが。
*2:ちなみに後世の創作。
*4:おかげでナチスは原爆製造に失敗しました。これも政治家の皆さんのおかげです。本当におめでとうございます。
*5:教会を「政治」とか言っちゃうと苦情が出るかも知れませんが、少なくとも当時のカトリック教会を「世俗の権力」と表現しても、イエス様は怒らないんじゃないかと。
*6:もちろん、科学界内部にも「政治」はあるわけで、完全に理想的に民主主義が働いてるわけではありませんが。
ニュートンが足を引っぱられたり引っぱったりとか……。
*7:もちろん、民主主義=多数決ではなく、多数決に至るまでの開かれた議論が最も重要なわけですが。
そして科学は、議論が公明正大に行われる点でも他の分野に優越していると思います。