教育的であることと科学的であること。

水からの伝言」とかに関連して、まだ頭の中で整理できていないこと。
 
 科学というのはまさに人類の希望だと思うし、一方で、「ありがとう」と言うと水の結晶がどうとかこうとかいうのは科学的とは言えません。
 
 にもかかわらず、道徳の授業で「水からの伝言」を使ってしまうのは、教師の科学リテラシーに問題があるからだ!
 
 ……と言い切ってしまうのは簡単なんですけど。
 
 先日、児童指導主任が、子どもたちに話していたこと。
「人間には、お口は1つ、お耳は2つありますね? だから、自分でお話するよりも、相手の話を2倍よく聞かないといけないんです」
 
 いい話だなー、と思いつつ、ちょっとひっかかったことでした。
 
 耳が2つあるのは、目が2つあるのと同様、音がどの方向から来るのかを立体的に把握するためでしょう。
(進化に目的はない、という根本的な話はさておき)
 いわゆる「立体音響」というのは、これを逆用した技術ですね。
 
 だから、その意味では、児童指導主任の発言は「科学的に間違っている」ということになります。
 
 ……だからと言って、直ちに非難する気にもなれないのは、「寓話だから」ということでしょうか。
 
 私自身の感覚では、「耳と口」の話はボーダーライン上にあると思います。
 
 これよりもより「許される」方向にあるのは、
「“人”という字は、人と人が支え合っている形をしている」
 とかいう金八先生お得意のアレとかかな、と思います。
 
 字源の説明としては明らかに誤りなんですが、それを
「間違っている!」
 とかつっこむ人はあまりいないと思います。
「いい話だなー」
 で済ませる人が大多数じゃないでしょうか?
 
 一方、「耳と口」の話より「許されない」方向にあるのは、(以前にも書きましたが)
病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める-
 この本に載っていた、
「人間の歯は、犬歯1(肉食のための歯)に対して門歯+臼歯が7(草食のための歯)だから、動物食15%、植物食85%が人間にとって自然な食のバランスである」
 というような話かと思います。
 
 ……「耳と口」の話と酷似してますよね?
 
 もちろん、「耳と口」の話は、語る側がそこに進化学的根拠があるわけじゃないのを知っている一方、「病気にならない生き方」の方は、筆者がそれを医学的事実だと主張している、という違いはあります。
疑似科学とそうでないものを分けるのは、「科学的根拠があるかのように偽装するか否か」の違いだ、と見なす方もいるでしょう)
 
 でも、例えば件の歯の話だって、給食主任が
「人間には、とがった歯とそうじゃない歯がありますね?」
 とかいう語り口で、
「だから、野菜をいっぱい食べないとだめなんです」
 とかいう教訓説話に仕立てることも十分できます。
 
 っていうか、誰かやってそう。
 
 その場合、本人がそれを医学的事実だと信じていてもいなくても、語り口は大して変化しないと思うのです。
「ニンジンを食べると足が速くなるよー」
 とかと同じですね。
 
 つまり、教訓説話においては、
 
・しばしば、科学的に正しくはない主張がされる
・おおむね、科学的データは(あってもなくても)示されない。
 
 だから、特に子ども向けの寓話の場合、それがただの方便であっても、あるいは背後にカルト的な疑似科学があっても、見かけ上は大して変わらなくなってしまうのです。
 
 それを、
「寓話の形式にアレンジして“いい話”にして語るなら、たとえ疑似科学であっても教育上許される」
 と考える人もいれば、
「いかなる形であれ、学問的根拠のない謬説を子どもに吹き込むことは許されない」
 と考える人もいるでしょう。
 
 多くの人はその中間に属するでしょうが、おそらく教育関係者は、「寓話」に触れる機会が多い分、より「許される」側に近い判断基準の持ち主が多いのだと思います。
 
 もっとも、これは教育関係者に限った話ではなく、自己啓発だのビジネス関係の本も、わりと「非科学的寓話」の巣窟であって。
 「いい話」なら、明日からの仕事に役立つなら良いじゃないか、という、ある意味で功利主義的な風潮が、結果的に疑似科学をはびこらせる土壌になってしまっているのではないか、と思ったりします。PHPとか。
 
 冒頭述べたとおり、私自身、まだ頭の中で結論は出ていないのですが……。
 
 子どもに
「いくら良い子にしてたって、サンタクロースは来やしないぞ!」
 と説いて回るようなことはしないものの、できる限り科学的に裏付けのある寓話を子ども達には話したいな、と思うことでした。
 
 ……まあ、この宇宙が、人間のために設計されたものではない以上、
「人間の道徳に科学的裏付けがある」
 という発想そのものが非科学的なのではないか、とも思うのですが……。
 

追記

 なんか、水からの伝言を道徳の授業で用いることを擁護する記事であるかのように読まれているようで……。
 
「“寓話”では、“いい話”であれば学問的な根拠は重視されないことが多くて、それが“水からの伝言”とかに入り込む余地を与えてしまっている。
 かといって、科学的事実だけを根拠に道徳を教えられるかというと難しいし、どうしたものか」
 
 というのが本記事の趣旨で、“水からの伝言”はあくまで「悪い例」として挙げたつもりです。
(“水からの伝言”が、全体として見ると道徳的にも問題がある、という主張にも同意します。
 あくまで、部分的に切り取ると「いい話」として使えてしまう部分がある、という話です)
 もちろん、疑似科学を商売にする輩も許せません。
 
 ただ、これは主に教育について考えた記事で、「水からの伝言」や疑似科学批判が主眼ではないので……。
(もちろん批判批判でもありません)