謝恩会で、職員からも演し物をやることになっています。
何をやるか決めるようおおせつかったのですが、思いつかなかったので、とりあえず合唱ということに。
練習時間もないし。
で、しかも何を歌うか思いつかない。
森山直太朗の「さくら(独唱)」を合唱しては、とも思ったのですが。
しかし、N先生が、
「コブクロの“桜”にしましょう!」
と提案。
私その曲知らないんですが。
しかし、職員室で聞くとみんな知っていて、半数近い先生は自分でCDを持っているらしいので、それに決定。
私は知らないけど。
……という、無責任きわまる決め方をしたところ、後から
「あれは歌いづらい」
という苦情が続出。
……うん、確かに。
その辺りは各自の根性に期待するわけですが、校長先生が、
「でも、あの曲って、卒業シーズンに歌われるわりに、歌詞の意味としては失恋の曲だ、とかいって問題になってなかったかしら?」
ええー。
……私その曲知らないんですが。
改めて歌詞カードを見直したN先生、
「本当だ! “散る”とか言葉入ってますよ! どうしましょう!」
いや……どうしましょうって。
「……桜は散るから桜なのであってですね。散るのが嫌なら卒業入学のシーズンに桜なんか採り上げるなと」
もう今さら変更できないのでごり押ししたわけですが、練習しながら改めて歌詞を見直すに、確かに失恋っぽい詞ではあります。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B11864
ただ、単に切ない詞というより、痛手から立ち直ろうとする曲だと思うので、いいんじゃないでしょうか。
「桜の花びら散るたびに」
にしても、
「桜の花びら散るたびに
届かぬ思いがまた一つ
涙と笑顔に消されてく
そしてまた大人になった」
ですから。
悲しい思い出を新しい思い出で消し去って、成長していこう、という意味にとれるんですが。
どうでしょう。
「桜が散る」
というのは、
「一輪散る」
というより、
「桜のシーズンが終わる=年を重ねる」
と解釈するのが正しいかな、と。
そういう意味では、卒業=成長を祝う歌でもいいんじゃないかなー、と。
しかし、むしろ驚いたのは、推薦するほどこの歌が好きなはずのN先生が、詞の意味を考えたことがなかった(というか、詞にどんな言葉が使われていたかも覚えていなかった)ということ。
……まあ、
「今年はこの歌を合唱しまーす」
と言いつつ自分がその歌を知らなかった私にはもっと驚きですが。
以前
「歌詞は詩です。つまり文学作品です」
とか書いたことのある私としては信じがたい思いなのですが、この失恋の曲が卒業ソングとしての地位を確立しているらしい、という状況からするに、
「詞の意味なんか考えもしないで曲を好きになる」
という人は相当たくさんいるのかも知れません。
それもいかがなものかなあ、と感じたりもしたのですが……。
ただ、大学時代習ったことですが、歌詞の全体としての意味が重視されるようになったのは、歌を短冊などに書くようになってからのことだとか。
それ以前の時代の歌(長いの。旋頭歌とか?)では、最初と最後でテーマが変わってしまって、全体の意味が全然通じなかったり、ということが普通だったそうです。
歌は「聞くもの」であって、「読むもの」ではなかったからですね。
最初と最後を見比べたり、全体を読み返したりする、という視点はなくて、時間と共に流れていく歌を瞬間瞬間に受け止める、という鑑賞スタイルが普通だったため、全体としての意味、というのはあまり問題にされなかったわけです。
してみると、
「この歌は好きだけど歌詞の意味は考えたこともない」
というのは、ある意味歌謡曲の鑑賞スタイルとしては正しいのか? とも思えます。
むう。
でも気になりますけどね、意味。
「太陽と月のよう」
って、どういうことを言いたいんだろう。
……ともあれ、練習練習。