「子どもらしい」って、何?

filinion2008-01-10

注目URLから。
 
小学校2年生の作文に泣かせられたよ。 - Something Orange
 
読んで驚きました。
 
何がって、
「この感想文は小学2年生の女の子のものです」
と言われて信じて疑わない人がこんなにいる
、ということに、です。
 
だって、小2ですよ?
7歳児ですよ?
 
教科書で言うと、
スイミー
とか
「かさこじぞう」
とかやってる時期ですよ?
 
この感想文、教科書よりよっぽど長くて高度なんですが。
 
こんなこと書くと、
「子どもの可能性を信じないのか!」
とか言われるかも知れませんけど……。
 
そういう問題じゃない、です。
 
なんというか、「本当のじぶん」と「ちゃあんと」が浮いているとかいうレベルの話ではありません。*1
もっと根本的な部分で不可能だと思います。
 
いや、深く自分を見つめている小2の子は、いるかも知れない。
 
これだけの文章力を持った子は……いる……か……なあ?*2
 
私が疑問を抱いたのは、内容的な面です。
あまりにも大人向けのメッセージでありすぎる、というか。
あまりにも大人受けするキャラクターでありすぎる、というか……。
 
この文章を肯定的に引用してるエントリも読んだんですが。
(「あるSEとゲーマーのはてな」ブログ様の記事、「子供を子供扱いするのに違和感を感じる」)

子供はめちゃめちゃ考えてるっちゅうに!!!
なめんなww
 
人間の脳がCPUとするなら

幼稚園も大人も基本処理能力となる周波数は一緒で変わらないの。

http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20080106/1199659347

脳をCPUにたとえられたわけですが。
人間の脳を、ハードウェア、脳細胞のかたまりとして考えると、その物理的な内容は、確かに大人になるまでそんなに変化しません。
個々の細胞の性能はどれも大体一律ですし、細胞の総量も、生後1・2ヶ月で増加がストップします。
 
そう考えると、人間の脳=精神は、生後1・2ヶ月で完成され、後は生涯そのまま、ということになります。
 
周波数、一緒ですか?
「内省する機会と、文章などに書き起こす機会があれば、
自分を掘り起こすことはでき」
ますか?
 
……そんなわけないじゃないですか?
 
人間の精神を、ハードウェアの側面から捉えるのには無理があります。
 
脳はコンピュータではありません。
その処理能力は、主として、脳細胞が形成するニューラルネットワークの学習によってもたらされるものです。
 
実際には、乳児期の人間には、感情は「快・不快」の2種類しかないとされています。
これが、成長と共により複雑に分化していくわけです。
 
人間の精神は、ゼロに等しいところからスタートして、幼児期、思春期を通過するまでの間、すさまじい速度で変容していくのです。
……言い換えれば、小学2年生の精神は、どんどん変容していく途中にあり、大人とは違うものなのです。
(感情の分化は、思春期以後まで続く)
 
16世紀に、「子供の発見」というものがありました。
それ以前のヨーロッパでは、「子ども」という発想はありませんでした。
 
子供は「小さな大人」と見なされ、子どもの特有の振る舞いは、単にまだ仕付けが足りていないためだ、と考えられていたのです。
当時の絵を見ると、子どもは、大人と同様の頭身で、ただ大きさだけを小さくして描かれています。
 
子どもは頭が大きくて手足が短く……なんてのは、普通に見ればわかる……はずですが、目の前にいるはずの「子ども」の存在が、かつては見えていなかったわけです。
 
近代に入り、ついに、「子ども」というのは大人とは異なるメンタリティを持った存在であることが「発見」されました。
 
そして、子どもの特性を扱う「児童心理学」、子どもから大人への成長の過程を扱う「発達心理学」といった分野が勃興したのです。*3
 
……という流れを踏まえると、子どもを大人と同じような知的能力を持った存在として扱うことは、このあたりの知見に反するわけです。
一度は発見したはずの「子ども」を、再び見失っている、というか。
 
確かに、自分の子ども時代の記憶とか辿ると、今とそんなに違わなかった気がするかも知れません。
 
しかしそれは、成長すると共に、常時記憶がアップデートされていくからでしょう。
 
子ども時代の自分の、大人とは異質だった部分は、すでに大人である自分には理解できなくなっているのです。
 
小学2年まで遡らなくても、中学時代の日記とか読み返せば、過去の自分の視野の狭さにのたうち回れると思います。*4
 
この辺り、はてなユーザーに子どもと触れあう機会が少ない人が多いからわからないのかなあ、と思ったのですが、なんとなく、もう少し根が深い問題のような気がしてきました。
 
「子ども」が、単に見失われて、16世紀以前の「小さい大人」へと後退したのではなく。
何か、違うものへすり替わっている気がするのです。
 
率直に言うと、「大きいお友達」の幻想の中の子ども
 
もっと率直に言うと、
「お前ら幼女に期待しすぎ」
 
アニメとかに出てくる子どもって、まあタイプはいろいろありますけど、ちょっと極端に言うと、
 
・無知であるがゆえに真実を見抜く力を持っている
・勇気はないが恐れも知らない
・わがままだが純真で正義感は強い
固定観念にとらわれない分、時として大人も驚くような機転を発揮する
・人懐こいが、いい人か悪い人かを直感的に感じることができる
 
とかいう感じですか?
 
でも、リアル世界にはいませんから。そんな子ども。
 
目を覚ますんだ、君たち。
 
誤解しないで頂きたいんですが、アニメに出てくる子どもが純真で賢明、というのは、まあ悪い事じゃないと思うんです。
児童向けアニメは本来的には「小さいお友達」向けなわけで。
そういう中で、一つのロールモデルとして、理想的な子ども像が描かれるのはまあいいんじゃないかと思います。
 
でも、自分自身の子ども時代を振り返って、ドラえもんとかズッコケ三人組とか(カードキャプターでもプリキュアでもこじかでもいいですけど……)に登場するようなメンタリティを持った子どもが身の回りにいた、という人はいないんじゃないでしょうか?
 
その辺のフィクションを現実と混同して、子どもにファンタジーを抱いてしまう人が多いのはいかがなものか、と思います。
 
で、まあ、そういう「小さい子ども向けのロールモデル」だったはずの「利発で素直なロリっ子ショタっ子」が、どういうわけか「大きいお友達向け」のアニメ・コミックにも続々進出しているのが現代の状況。
 
翻って、件の感想文に出てくる子どもを見ると、
 
「わたしもハンバーガーたべたいよう……。でも、きっとたかくておとうさんにはかえないから、おねだりしたらこまらせちゃうよ、だからがまんしないと……」
「ほんとはおかあさんにだっこしてほしいの。でも、わたしはもう、まきのおねえさんなんだもん。がまんがまん……」
 
純真で健気でがんばりやさん。(ついでに言うと無知=世間ずれしていない)
愛情に飢えているけれど、きゅっと唇を結んで甘えるのを我慢してしまう子。
そして、だっこしてあげたりマックのハンバーガーを買ってあげると、思いがけなさにびっくりしてしまう子。
 
こういうの、好きな人多そうだ。
 
私も大好きです。うは、超萌えー。
 
審査員の方々も、こういう子が好きなんでしょうね。
 
いや別に、審査員が「大きなお友達」だというわけじゃなくて。
 
「もっと賢くなって欲しい。でも、その純真さを失わないで欲しい」
……というのは、大人が子どもに抱く基本的な願望なんだと思います。
(だからこそ、そういうキャラクターが受けるわけです)
 
この作文は、それを体現してみせた、萌え作文なのです。*5
 
「大人びている」というのではなく、「子どもらしくない」というのでもなく。
大人にとってわかりやすすぎる」「萌え子どもらしすぎる」。
 
「子どもは素晴らしい」という発想自体は、今に始まったわけではありません。
例えば「星の王子様」なんて、半分はそれでできてるわけですし*6、「ピーターパン」でも「裸の王様」でも。
 
ただ、「子どもは純真だ」という発想自体は昔からあるし、ある意味真実なんですが、「時には大人より知的だ」という幻想は、たぶん最近の日本特有。
 
欧米のジュブナイルなんかだと、子どもは容赦なく無知でトンチンカンなことをしでかしますから。
 
なんというか、この作文を
「素晴らしい!」
って褒め称えるのは、飼い犬に服を着せて喜んでる人に似てる気がします。
 
ほんとは相手のこと理解してないだろ。
 
たぶん、この作文コンクールの審査員も、これが大人の作品だ、ってことは解ってたと思うんです。
それでも通さざるを得なかった=出品作品が本当に子どもの作品かどうか、確実に判別する手段がない、というのが、作文コンクールの問題点だと思うんです。
 
ブックマークコメントでも触れてる人がいますが、無理矢理子どもの作文を改変して書き直させて、原型をとどめないまでに「添削」する、というのが、常態としてまかり通っているわけで。
 
もちろん、そういうやり方をする側こそまず非難されなきゃいけないわけですが、不正直者が得をする構造になっている限り、そういう事実上の代筆はなくならないと思います。
 
……とはいえ良い提案もないので、その話はここまで。
 
ともあれ、この作文、中村咲紀ちゃん小学2年生(当時)も関わってはいるんでしょうが(字を書いたのは間違いないと思います)、その内容は、たぶんお母さんあたりが書いたものだと思います。
 
「この本を読んでどう思った?」
「おもしろかったー」
「どこが?」
「んっとねえ、ゴーシュがセロがうまくなったとこ」
「どうしてうまくなったのかな?」
「がんばっていっぱいれんしゅうしたから?」
「でも、前にもゴーシュはいっぱい練習してたよね? その時にはうまくならなかったのに、なんで?」
「んーっと、どうぶつさんがきたから?」
「そうかー、動物さんが来た時と、その前は、がんばり方が違ったんだね。動物さんが来た時は、どうしてうまくなったのかな?」
 
……みたいな感じじゃないかなあ?*7
 
そして、その過程で、お母さんは、咲紀さんの甘えたかったけれど甘えられなかった気持ちを初めて知り、思わず涙したのでした。
「咲紀、甘えたい時は、我慢しないでいつでも甘えていいのよ……」
 
そう、この感想文は、実はお母さんが自分の育児を振り返り、我が子の思いに気付かされた感動を表したものだったのです。
 
……みたいな物語があった、と信じたいなあ。
 
とにもかくにも、咲紀さんの人生に幸多かれ。
 
過去の関連エントリ:「読書感想文に決して書いてはいけないこと」

*1:ちなみに、小学校一年生の国語に「ずうっと、ずっと、大すきだよ」という単元もあるので、「ちゃあんと」という表記自体は特に不思議でもない。

*2:そういえば、計算力とかピアノの演奏とか日付の暗記とかで常人を圧倒する能力を具えた子ども、とかって、たまにテレビで紹介されたりしますけど。
文章力って、あんまり話題になりませんね。
「天才えりちゃん」くらい?

*3:ピアジェとかでググれ。

*4:個人的な経験で恐縮ですが。
小学校低学年のころ、「小さいモモちゃん」という本を読みました。
その中で、主人公であるモモちゃんが、ママに、
「20円のガムをかってくれ」
と言って泣く場面があります。(いつもは10円のガムなんです)
 
読んだ当時、私、モモちゃんにものすごく共感したんです。
 
……で、大きくなってから読み返したら、一体自分が何に共感したんだかわからない。
(共感した、という事実だけは覚えていて、話の筋は歪んで覚えていた)
 
もう自分は子どもではなくなってしまったんだ、と、実感しました。
 
そう考えると、松谷みよ子さんはすごく偉大だなあ、と思いますね。

*5:だってさ、原稿用紙45枚ですよ?
18000字ですよ?
 
その20分の1の長さの小論文でさえ、構成が破綻する受験生が多いってのに、この子は、
「主人公(ゴーシュ)の心情を推察する」(本文中には全然語られていない部分)
「それを人間心理について一般化する」
「翻って自分の昔のエピソードを語る」
「その昔の自分に、ゴーシュの姿を重ねる」
「自分が、ゴーシュと同じ過ちを犯していた、と語る」
「人は、みんな、心をくっつけ合って、生きていくのです。
でも、くっつけすぎには気をつけて、みんな元気な時ははなれて、じぶんのことをちゃあんとするのがいいと思います。
わたしは、がんばって大きくなります」
 
……これだけ構成を整えて書くには、ものすごい読書量が必要だと思います。
 
何歳で字が読めるようになったのか知らないですが、「スイミー」とかではこういう構成はそもそも存在しないですから、小学校に入学する以前から、相当高学年向けの本も読んでいたとしか思えません。
(文章を構成を考えて組み立てる力って、絶対にひとりでにできあがる物じゃないんで。)
 
でも、マックがジャンクフードだって知らないのな。

*6:やっぱり小学校低学年であれを読んだけど、
「なんで作者はこんなに子どもを変に持ち上げるんだろ?」
って不思議に思ったものです。
 
それが理解できるようになったのが中学生くらいの時。
また、
「もう自分は子どもじゃないんだなあ」
ですよ。

*7:セロ弾きのゴーシュ」って、有名な作品ではありますが。
でも、わりと子どもにとっては難解な作品だと思います。

「なぜ、ゴーシュのセロは上達したのか」
というのは、大人にとってもかなりの難問でしょう。

客観的に見れば、動物たちは邪魔しに来てるだけだし。