70年代の児童文学について。

先日来続行中の、本のpdf化作業。
 
色々悩んだんですが、すでに定年された先生から頂いた本もpdf化することにしました。
頂き物を裁断機にかけるのは実に気が引けますが、捨てるわけではないし……。
 
「彼らは死ぬのではない、永遠になるのだ!」
うう。
 
それらの本の中に、「日本子どもの文学 四年生」(東京私立初等学校国語研究部文学研究会:1971)という本がありました。

 
わりと古い本ですが、なにしろ最初に載っているのが
 
「ひとつの花」(今西 祐行)
 
「ゆみ。さあひとつだけあげよう」
 
うわーん。
すでに泣きそう。
 
(ちなみに教科書に載っている文とちょっと違う)
 
その他にも、
「キリン」(まど みちお)
「モチモチの木」(斎藤 隆介)*1
と、後に教科書に採用される名作が。
 
さて。
 
そんな作品の中から、一つをご紹介したいと思います。
 
「塩川先生」(宮口 しづえ)
です。

このお話は、わたしの三年生、十さいぐらいのころだったでしょうか。そのころ、わたしたちは塩川先生という、となり村からかよってくる先生に教わっていました。
いつももめんの手織の着物を着て、パンパン音のするような、はかまをはいていられました。*2

「パンパン音のするような」はかま、というのがどんなものか、すでに現代っ子の私には理解できないのですが。
(よくのりのきいた、といった意味でしょうか?)
この辺が、本作が現在あまり顧みられない理由かも知れません。*3
 
さて。
 
先生がある朝(略)いつになく下のほうを向かれていて元気がありません。
 
どうしたどうした。
 
「きのう、わたしの小さいころからなかよしだった友だちが、遠い満州へいっていて、七年ぶりで帰ってきて、たずねてきてくれました。
 
満州とか。
 
いろいろと話しているうち夜もふけたし、それに友だちはお酒が大すきだったので、ごちそうしてあげるつもりで、わたしはあまりのめなかったけれど、友だちにすすめるうちに、ついたくさんのんでしまい、けさ学校へくるのがやっとでした。
こうやって、みんなのまえに立っていても、頭がいたくて、ふらふらします。

 
二日酔いかよ!
台詞が妙に言い訳がましいぞ、塩川先生。
 
すこし休んだら、じきによくなると思いますから、ここでしばらく休ませてください。
みんなは、おとなしく国語のかきとりでもしていてください。

 
……って、おい!
 
それで塩川先生、教室の板の間にごろ寝してしまってですね。
 
子どもたちはみんな、びっくりしながらも黙って書き取りを始めるんですが。
で、まあ、先生が寒そうに感じた子どもたちが、みんなで自分の着ていた羽織を先生にかけてあげて、目を覚ました先生が、涙ぐんで
 
「ありがとう。あとがとう」*4
と、くりかえして、おっしゃいました。

 
という、「いい話」で終わるんですが……。
 
いや……。
 
教室で寝るな。
 
ていうか、授業できないほど具合が悪いなら教室に来るな。
 
ちなみに、巻末の「読書の発展のために」によると、これを書いた宮口しづえ氏は、一九○七年生まれ。昭和二年師範学校を卒業し、小学校に勤務。……だそうです。
 
教職経験者が書いた話かよ。
 
……たかだか30何年前に出た本なのに……。
 
現代では考えられぬお話だなあ、と思いました。
 
ちなみに裏表紙。

 
現代では考えられぬ。*5

*1:ちなみに「モチモチの木」では、豆太の内心の声が、
―イシャサマオヨバナクチャ!
になっています。
 
光村の指導書によると、これが本来の形なんだとか。
 
絵本出版にあたって、編集者がこれを
「イシャサマ
と直したら、
「豆太の動転した様子を表すには“オ”でなきゃだめなんだ」
と、作者が怒った、というエピソードが載っています。
 
でも教科書では「を」。

*2:改行引用者。以下同様。

*3:「ごんぎつね」の「赤い井戸」だって、一読して意味がわかるとはとても言えないですが。

*4:原文ママ

*5:ちなみに、ウサギも人食い土人槍を持った人も、収録されたいずれの作品中にも登場しません。