「ダ・ヴィンチ・コード(映画版)」感想(ネタばれあり)

DVDをPS2で再生したら、最初の新作映画予告がとばせなくて腹が立ちました。
 
……というのはさておき。(でも、「交渉人 真下正義」ではとばせたのに……)
 
卒論が小説版を読んではまって、「ぜひ映画を一緒に見たい!」というので、DVDを見ました。
 
私自身は読んでいないんですが、トンデモ本だという噂だけは耳にしており。
「西洋美術版“神々の指紋”をサスペンス映画にしたみたいなもんじゃないの……?」
という懸念を抱いていたんですが、それを口に出すと卒論の機嫌を損ねること確実。
 
実際に見たところ、案外楽しく見られました。
 
もっとも、卒論自身は不満げでしたが。
「展開早っ!」
とか、何度か叫んでましたし。
「こんなところで死ぬのかー!」
とか。
 
ネタばれを含みますので注意。
 
私としては、
「確かにえらくテンポの速い展開だけど、“息をつかせない展開”と言えるレベルだよなあ? 少なくとも“粗筋みたい”とかじゃなくて」
などと思ったんですが。
 
でも、
http://movie.maeda-y.com/movie/00726.htm
を読むと、確かに登場人物の内面をじっくり描く場面はなきに等しかったので(説明はされる)、そういう意味では原作の良さが失われた面は大きいのかも知れません。

暗殺者シラスと神父の愛情とか、ヒロインのソフィーの暗い過去、そしてトラウマから立ち直る姿、被害者ソニエールの執念や、研究者ティービングの情熱といった、肝心の"景色"を楽しむ余裕はないだろう。

また、ほとんどの場面を省略していないくせに、シラスが霧の中で祈る、この物語の中で最も感動的かつ美しいシーンをカットしているのは疑問が残る。これではシラス役、ポール・ベタニーの好演も台無しだ。

少なくとも映画を見る限り、シラスは「飼われてる狂犬」みたいに見えます。

まるでアクセル全開で突っ走る暴走バスのような映画で、ひとつカーブを曲がるたびに、お客さんは次々と振り落とされていく。開始30分の時点で車内になんとか残っているのは、原作をしっかり読んで予習してきた人と、元々キリスト教や聖書、秘密結社といった分野に強い人だけだ。

えーと僕、そんな怪しい分野に強い人じゃありませんけど楽しく見ましたから、そんなことありませんよ?
 
「わーい、テンプル騎士団だー!」
とか、
ローマ帝国キリスト教化以前)だー! あれはミネルヴァ神像かなー?」
とか、
地母神崇拝だー!」
「ニケーア公会議だー! すげえ荒れ方だな、おい」
とかは楽しかったですけど、これくらいは一般常識ですよね? ね?
 
終盤では、
卒論「今の、一体なにしたの?」
K村「水の上を歩けるかどうか試したんだよ。聖書でイエスがそうしたように」
とかいうやりとりがあったくらい、わかりやすい映画でしたよ?
 
ただ、映画では触れられてませんでしたが、正統なキリスト教地母神的なものを切り捨てようとしたものの、切り捨てきれずに民衆の間に残った結果が、聖母マリア崇拝だと理解してたんですが。
まあ、「教会は女性原理を完全に否定した」ってことにしたほうが、作品のテーマ的には都合がいいんでしょうけど。
 
絵の「解読」には、素人の私にも色々疑問はありましたが。
“聖杯”の象徴が隠されている、と称するものがいかにもこじつけ臭い、というのはともかく、あれがマグダラのマリアだったら、12使徒の誰かが欠けてることになるんですが……。原作ではその辺はどういうことになってたんだろう?
その辺は聖書学の専門家ではないのでパス。
 
まあ、「一般常識」についてはさておき、展開については、
http://silly-talk.cocolog-nifty.com/silly_talk/2006/05/post_473d.html
でも、「ある程度は映画慣れしている人なら問題ないレベルなのだろう」って書かれてますし。
「3冊の本すべてのエピソードを同じ濃度で2時間30分の映画で描けるはずはないのだから、この批判はまったくもってフェアではない」
というのが実際ではないかと。
原作ファンには物足りない、というのは事実なんでしょうけど。
 
原作が「一級の歴史文書を元にくみ上げられた説」かどうかは多分に怪しいですが。
そりゃあ、魔女狩りが、進歩的な(っていうか、経済的に自立した)女性*1をターゲットに行われた、というのは事実みたいですし、三位一体説が比較的新しい教義だとか、マリア福音書とかトマス福音書とかが聖書学的に重要だとかいうことも知ってますが、だからって、シオン修道会だのニュートンだのの話まで事実とは言えませんよ。
「これは正しいな、これも間違いない。これも事実だ。これはよくわからないけど、事実に違いない」
……ってのが、フィクションでもっともらしく嘘をつく秘訣ですから。

キリスト教は資本主義、民主主義の源でもある。こうした映画をきっかけに世間の関心が高まるのは良いことではないかと思う。
映画では詳しい説明がないが父権的な時の権力者がキリスト教を大衆支配に利用し、女神信仰など女系社会的な要素を弾圧していった。娼婦とされ貶められたマグダラのマリアを聖女とする女神信仰は女系社会を求める人々の願望の反映でもある。またキリスト教の歴史にまつわるミステリーは男系・女系社会の葛藤の歴史でもあるという点も見逃してはならないだろう。

というのはその通りかも知れません。
 
ただ、日本人として普通に見た限りでは、ティービングはいたくトンチンカンな人だよな、と思います。
ティービングは、キリスト教会が女性原理を抑圧したことが、世界のあらゆる災いの種であるかのような(そして、「真実」を明らかにすることでそれを全て解決できるかのような)ことを言うわけですが、それってキリスト教文化圏でもなければキリスト教と戦った文化圏でもない日本人にはピンと来ないなあ、と。
キリスト教世界でも宗教紛争はありますし。
エスの子孫が生きて発見されたらそれなりの大発見かも知れないけど、それで世界が大変革を迎える、と考えるのは、キリスト教文化圏の人だけですよね?
上の引用みたいに、ティービングの情熱を「女系社会への願望」として一般化するならともかく、ただキリスト教の教義をひっくり返すだけでは、世界は大して変わらないんじゃないかなあ? などと思いました。
 
あと、Wikipediaの「マグダラのマリア」を見たら、

第2バチカン公会議を受けて1969年にカトリック教会がマグダラのマリアを「罪深い女」から区別するなど、その地位の見直しが始まった。(略)しかし、娼婦でなければ妻とするのは「同じ見方の裏と表」と、エレーヌ・ペイゲルス(Elaine Pagels)は指摘する。ペイゲルスによれば、「男たちは、マグダラのマリアがイエスの弟子でも、リーダーでもなく、性的な役割だけを与えようとして、このようなファンタジーを作っているのではないかとさえ思える」と。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2

って書いてありました。
 
そうですなあ。
そう言われると、「ダ・ヴィンチ・コード」でも、マグダラのマリアは単にイエスに愛されてその子どもを産んだ人、って扱いだった……。
そう考えると、一概に女系原理復活云々、って見なすこともできないかも知れないですね。
(言われないと気付かないのがなー……)
 
ともあれ、
「面白かったけど他人にはすすめない」
ということで。
 
(攻城用の投石機が動いてるのを見られたのはちょっと感動した。ちらっと出ただけだけど。
飛んでいく「石」が煙の尾を引いてたのは、燃える樽か何かを投げてたのかな?)

*1:産婆助産婦さんとか、遺産がある未亡人とか。