我々に道徳心があるのは誰のせいなのか。

 ブックマークから。
 「なぜ日本人は無神論者なのにマナー良いし犯罪少ないの?」…アメリカの掲示板で大激論
 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1367901.html
 
 これに対して
「日本人は無神論者じゃないよ」
 と得意げに指摘する人がいっぱいいます。
 
 まあ確かに。
 
 無神論、というのは、
「神は存在しない」
 と主張する立場です。
 
 しかし、日本人の多くは、特定の宗教に入信してはいないものの、神が存在しないと思っているわけでもありません。
(……私は無神論者のつもりですけど)
 
 だから、
「日本人は無神論者じゃないよ」
 というのは、
「日本は単一民族国家じゃないよ」
 というのと同じくらい正しい指摘だと思います。
(指摘する人の得意げっぷりもよく似ている)
 
 ただ、それはおそらく議論の本質ではないと思います。
 
「激論」
 を交わしている人々には、おそらく
「人間の善性は神に由来する。人間が道徳的であり得るのは信仰があるからだ」
 という前提があります。
 
 ……「無宗教」である我々には理解しがたい前提なのですが、どうもそう信じられているらしい。
 
 ちなみに、議論してる人たちも、日本人が「無神論者」だと思っているわけではないと思います。
 
 無宗教であることと無神論者であること、そして悪魔主義者であることは、しばしば混同されるようなので、たぶんその区別ができてないだけ。
(非キリスト教文化圏にサタン崇拝が存在するわけない、と思うんですが、神の存在を前提にして世界を把握すると違ってくるんでしょう。
 近世に入っても、
キリスト教以外の宗教は、サタンが人間を惑わすために作ったものだ」
 という極論が通っていたわけで。
 非キリスト教とサタン崇拝が混同される世界では、無神論無宗教がごっちゃにされても仕方ないのかと)
 
 そういう意味では、
「日本人は無神論者だよ」
 って言ってる日本人とほとんど同じ認識だと思います。
 
「タオは笑っている」という本があります。
 タオは笑っている (プラネタリー・クラシクス)
 著者であるレイモンド・スマリヤンアメリカ人です。
 
 道教の思想について楽しくわかりやすく述べた本……っていうか、
アメリカ人が理解した道教
 という感じで、道教の泥臭い部分をきれいに洗浄してアメリカナイズした感じなんですけど。
 
 ともあれ、その中で、自分が罪を犯すのではないかとおののく人間が、神と対話するエピソードがあります。
 
 一部抜粋。

神「こうしよう。おまえだけ特別に、どんな罪を犯そうとけっして罰しないと神として誓おう。これならいいだろう」
人間「(恐れおののいて)とんでもない、そんなことぜったいなさらないでください」
神「なぜ?わたしの神としての約束を信用しないのか」
人間「信じますとも。でもわたしは罪を犯したくないのです。罰を恐れることとは別に、罪を犯すこと自体を憎悪しています
神「それなら罪を犯すことに対する憎悪感もとりのぞいてあげよう。ここに魔法の薬がある。これを飲めば罪は憎くなくなり、喜々として罪を犯せるようになる。後悔もしないし、そのために罰を受けることもない。永遠に幸福でいられる。さあ飲むがいい」
人間「冗談じゃありません」
(強調引用者)

 結局、この人間(明記されてないけどクリスチャンなんでしょう)が「罪を犯したくない」と願うのは、本人の内的欲求であって、「神が見ている」という宗教的理由ではないのです。
 
 ……そんなの自明じゃないか、という気がするわけですが、それをあえて指摘しないといけないのがキリスト教文化圏なんですよ、たぶん。
 
 だから、「激論」を交わしてる人々は、たぶん
「全ての善の源は神である。神を持たない日本人が道徳的であり得るのはなぜか」
 という問題を議論してるわけです。
 
「それ、前提がおかしいだろ?」
 と思うのは我々が信仰を持たないから。
 
 というか、
「神が道徳の根源」
 という前提自体が宗教の一部なんですが、彼らはそのことを意識していないのです。当たり前すぎて。
 
 彼らは宗教的前提の中で、いわば神学論争をしているわけだから、非信者が外部から口を出そうとしても話が食い違うのは当然だと思います。
 
 個人的には、
「善をなしたい」
 というのは社会的生物である人間の生まれ持った本能ではないかと思います。
 
 それを神に帰すのもご先祖様に帰すのも、
「日本は相互監視社会だから」
 という議論に帰すのも、似たり寄ったりの議論ではないかな、という気はします。
 
 いささか不穏当な例かも知れませんが、統合失調症が原因で、陰謀論的な被害妄想にさいなまれ、ひどい不安感に襲われる人がいます。
 
 ここで普通は、「陰謀」に対する不安が不安感の原因である、と考えます。
(本人だってそう思っています)
 
 しかし、聞けば「不安感」自体が病気の症状であってそこに外的な理由はなく、陰謀論は「理由のない不安感」を説明するために後から形成されるものだ、という見解があるのだそうです。
(だから、他人が陰謀論の誤りを指摘することによって不安感を解消することはできない)
 
 同様に、
「神が見ているから」
「世間が見ているから」
 といった説明は、「理由のない道徳観」を説明づけるために後から発案された理屈のように思います。
 
 必ずしも、人間の本質が善だ、と言いたいわけではないのですが、
「人間は本来的には身勝手なものであって、外部から監視されていると思うから善をなすのである」
 という主張には賛同できないな、と。
 
 悪が人間の中にあるとすれば、善もまた人間の中にあるのだと思います。
(ある意味では、「神が人間を道徳心を持つよう創り給うたから」ということになるのかも知れません)
 
 もちろん、社会制度や経済状態が、犯罪率を上げたり下げたりするのも事実なのでしょうけれど。