確かに「大きい主語は信頼できない」けど、それ自体の主語が大きい。

 最近、「主語が大きい人」という言葉を覚えました。
 
「我々は」とか「世間が」とか、むやみに広大な範囲を主語にとる主張は妥当性が低い、ということのようです。
 
 原則としてその通りだろうなー、と思っていたのですが、その一方で、
 
1:人間は〜〜なものである
2:男なら〜〜である
3:中国人はみな〜〜である
 
 の3つの中で比べると、なんか後になるほど主語は小さいのに妥当性は怪しい気がします。
 
 何が違うんだろう、と思って考えた末、「主語」の中に話者本人が含まれているかいないかの差だと気付きました。
 
 例えば、
「女とは〜〜なものである」
 というのは、全人類の半分を含む主語ですが、それを語るのが男性であるか女性であるかで信憑性が変わってきます。
(もちろん、女性が語っていてもなお、主語が大きすぎて、充分信頼できるとは思えませんが)
 
 だから
「我々日本人は」より「彼ら韓国人は」の方が主語は狭いけれど、話者が日本人である限りは後者の方が信頼できないのだと思います。
 
 あえて名付けるなら「大きな一人称」と「大きな三人称」だと思うのですが、「主語が大きい」という批判では、その両者はあまり区別されていないように思います。
 まあ、一人称と三人称のいずれでも、「主語が大きくなると信頼性が下がる」という原則は変わらないと思うのですが。
 
 大きな一人称が信頼できないのは、「我々」とか「世間」とかいうのが、実は自分の見解なのに、それがあたかも一般的の意見であるかのように装う言葉だからでしょう。
 
「俺には許せない」を「世間が許さない」と言い換えているだけ、みたいな。
 
 この場合、大きな主語を使うことそれ自体が、主張の信頼性を下げるとは言えません。
 
 しかし、自分の意見にまともな論拠があるなら、論者は当然それを示すはずです。
 それをせずに「みんなそう言ってるよ」を第一の論拠にするのは、もっとマシな論拠がないことの傍証と言えます。
 
「これを買うことであなたにどんなメリットがあるのか」
 を説明せずに
「みんな持ってるから買って!」
 という子どものようなものですね。
 
 つまり、その場合、親にメリットはない。
 
 一方、大きな三人称が信頼できないのは、そもそもそんなものが存在し得ないから、だと思います。
(それは大きな一人称にも共通しますが)
 
「欧米人」にせよ「ムスリム」にせよ「ホームレス」にせよ、実際には多数の個人の集合です。
 詳細に見れば個別の事情や特性があり、ひとくくりにして論じるのは普通は困難でしょう。
 それをあえて論じてしまうのは、個別の違いが見えるほど相手の詳細を知らない、ということを示しています。
 
 例えば、日本人一般に共通する性質は何か、というのは、なかなか難しい質問です。
 あえて挙げる場合でも
「まあ、そうじゃない人も多いですけど」
 とか前置きしたくなります。
 
 なのに、「中国人は〜〜」とか平気で言ってしまう人がいるのは、要するに日本人のことはある程度知っていても、中国人のことはよく知らない、ということを示しています。
 あれだけ広大な地域に住んでる膨大な人間を、そう簡単に一般化できるわけがない。*1
 
 その上、大きな三人称をとる主張って、相手に批判的なものが多い気がします。
 それは要するに、よく知らない相手をひとくくりにして批判する、というわりと無謀な試みなのですが。
 
 さて、相手を変な形で集団と見なして批判する……というのは、実は陰謀論者にもよくある特徴だったりします。

ユダヤ人」とか「製薬会社」とか「マスゴミ」とか「ロスチャイルド=ロックフェラー=イルミナティフリーメーソン」とか。
 いや、そいつら特に組織として団結してないんじゃね?
 
 まあ、特定のカテゴリに属する人々を叩くのが、必ずしも無意味なことだとは言いません。
 というか、社会を良くするために、ある範囲の相手を批判の対象にすることは、おそらくしばしば必要でしょう。
 
 しかし、その際に、相手の実状をよく見ずに「大きな三人称」にひとくくりにして叩くのは、問題の解決にならないと思うのです。
 陰謀論者のみなさんが、実在しない敵を相手に、永遠に終わらない不毛な戦いを繰り広げているように。
 
「敵を知り、己を知れば」という言葉もありますが、本当に相手を打倒したいならなおさら、相手のことをよく知る必要があるのが当然でしょう。
 
「分割して統治せよ」ではありませんが、打倒すべき相手が一枚岩でないなら、相手を分断して各個撃破するなり一部を味方につけるなり、不和を誘って相争わせるなりするのが上策でしょう。
 意味もなく相手をひとくくりにして批判すれば、本来は一枚岩ではなかった「敵」を、かえって団結させてしまうことさえあるかも知れません。
(一部の喫煙者たたきとか見てると時々そんな気がします。私は非喫煙者ですけど)
 
 ともあれ、大きな主語を使うのは、その人がその中身をよく知らない証拠なので信用するな、という話でした。
 
*余談
 この文章自体、大きな一人称・三人称を多用してるんですが、日本語では主語を省略して文を書くことができるので、例えば
「外国人についてよく知らないからそうなるのです」
 とかを“私”のことなのか“日本人一般”のことなのか“人間全て”のことなのかをぼかして語ることができます。
 
 つまり主語を明記せず、暗黙の了解として「大きな主語」を使えるわけで、日本語ってとっても便利な言語ですね。

*1: もちろん、それを踏まえた上で、議論のために大きな主語を使うのは時には必要なこととは思います。
 全体の傾向を論じる場で「みんながそうとは言い切れない」「例外も多い」とか言い続けると、議論が全く進まなくなるのも事実なので。