読み聞かせボランティアに思う

  読み聞かせ、というものがあります。
 絵本や童話などを選んで、子どもたちに読んで聞かせるものです。
 
 自分で本を読むのがあまり好きでない子でも、読み聞かせは好きだったりしますから、読書への敷居を下げる、読書指導の一環とも言えます。
 児童文学作家の佐藤さとる氏は、「子どもを確実に本好きにする方法がある。それは、親が子どもに本を読んで聞かせてやることだ」と言っています。
 
 図書館などでよく「おはなしの会」などと称して実施していますし、学校を訪れて読み聞かせをしているボランティア団体もあります。
 
 本校にも、地域のボランティアの方がいらして、朝の学習の時間、定期的に読み聞かせをしてくださっています。
 
 ありがたいことです。
 以下、いくつかのエピソードをご紹介しましょう。
 

事例1

 作品は「人魚姫」。
 
「このお話は、外国のお話です。どこの国か知ってる人はいますか?」
 
 誰もいません。
 
「これは、アンデルセンのお話です」
 
 はい?
 
 いや、確かに人魚姫はアンデルセンの話には違いないけど、文脈があってませんよ?
 
 で、読み終わった後に。
 
「このお話、どこの国の話だったか、覚えてますか?」
 
 奇妙な沈黙。
 
「あれー、みんな忘れちゃったのかな? これは、アンデルセンという国のお話です」
 
 ぐは。
 
 ていうか、そもそも4〜6年生相手に「人魚姫」って選択からしてどうよ?
 

事例2

 「ちいちゃんのかげおくり」。
 
 それ教科書に載ってるよ!(光村図書:3年国語)
 
 しかもちいちゃんのしゃべりかたが異様にばばくさいよ!
 (ボランティアが年配の方だから、しょうがない……んですが……)
 
 いや、この話は大好きなんですよ?
 「ちいちゃんのかげおくり」とか、「一つの花」とか。
 範読の時はいつも気合いを入れてるので……。
 自分で読んでて泣けてきますよ?(ほんとです)
 
 それだけに……。
 ああ! 「大きな記念写真だこと」の読み方はそうじゃねえ! もっと、悲しみを微笑みで覆い隠したようにだな……!
 

事例3

 「杜子春」。
 芥川龍之介
 

 或春の日暮です。
 唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。
 若者は名は杜子春といつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費ひ尽して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になつてゐるのです。
 何しろその頃洛陽といへば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしつきりなく、人や車が通つてゐました。門一ぱいに当つてゐる、油のやうな夕日の光の中に、老人のかぶつた紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾つた色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のやうな美しさです。
 
青空文庫http://www.aozora.gr.jp/より。
杜子春はこちら。http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/170_15144.html

 
 ……これ、普通に読むんだって4年にはかなり厳しいと思いますが。
 漢字仮名交じり文ならなんとか意味のとれる文でも、耳で聞いたら発音しかわかりません。
 

 いかにもおれはがびさんにすんでいるてっかんしというせんにんだ。

 
 何言ってんだお前。
 
 「峨眉山」と書いてあるのを見れば、「ああ、山の名前だな」くらいの見当は付きますが、「がびさん」って耳で聞いてもわからないでしょう。
 
 しかも、読み聞かせは朝の学習の時間(10分)を使うのですから、どうしたって一度では終わりません。
 「続きはまた次回に」。
 その次回が半月先です。
 
 もはや意味不明。
 
 親孝行とかそういう教訓を与えたい気持ちもわかるんですが。
 
 ていうか、お前ら、単に自分が好きな作品を読んでるだろ。
 
 大学で習ったことの受け売りですが、読み聞かせと朗読は違うんです。
 
 それに、一口に「絵本」と言っても、読み聞かせに向いたものとそうでないものがあるんです(向かない例:「ウォーリーをさがせ」 その他、細かい挿絵をじっくり味わうことに意味がある作品。「となりのせきのますだくん」など、コマ割りされている作品。 「おとうさんはウルトラマン」など、本文とは別に挿絵の中に台詞が書き込まれている作品)。
 また、絵本を読み聞かせるにしても、いろいろな工夫が必要です。たとえば、挿絵の一部を紙片で隠しておいて、話の展開に従ってめくって見せるとか。
 絵本の持ち方、ページの開き方一つとってもいろいろノウハウがあって、「読み聞かせのプロ」と呼ぶべき人だっているわけです。
 
 ていうか俺の方がうまいよ。間違いなく。
 教頭の読み聞かせはもっとずっとうまかった。
 
「ボランティアで来てもらってるのに文句を言うなど言語道断」という意見もあるとは思います。
 実際、毎回最後はお礼を言って終わるわけですが。
 
 しかし、読み聞かせボランティアに対して、学校側は何の負担もしていないのでしょうか。
 
 そのとおり。何一つ負担していません。
 お茶くらい出すけど。
 
 しかし、子どもたちは負担しているものがあります。
 
 それは時間です。
 
 少年老い易く学成り難し。
 
 本来、個人の読書や算数ドリルなどに充てられている朝の学習の時間を削って、読み聞かせの時間を捻出しているわけですから、少なくとも、それ以上にためになるものを提供してもらいたいわけです。
 そうでなければ、迷惑するのは子どもです。
 
 学校の時間を使って、子どもの前で何かやる以上、それは授業みたいなものです。
「ボランティアでやってるんだから感謝されて当然」ではなく、それなりの緊張感と使命感をもって、十分な事前の研究と練習をしてから臨んで欲しいと思います。
 
 ボランティアはありがたいですが、正直、多少お金はかかっても質の高いものを子どもには提供したい、というのが、学校の考えですし、それは多くの保護者の思いでもあるのではないでしょうか?
 
「先生……アンデルセンて……」
「……アンデルセンデンマーク人の童話作家だ。 だが黙ってろ」
 
 これで、作品が「裸の王様」だったりしたらオチはばっちりだったんですが。残念。
 
 (今回はダークだな……。 疲れてるのか、自分)
 
 読み聞かせの技術については、私も専門的に勉強したことはありませんが、興味のある方は下のサイトなどを参考にして下さい。
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~honyomi/saito%20yomikikase.htm
(でも、私ならハリポタは読まないな……)
 http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Brown/7692/yomikikase/yomi-index.html
(「読み聞かせは大人の自己満足の場でも自己表現の場でもありません。
 子どもに対して礼儀正しく、作品に失礼のないように」
 その通りだっ!)