さて、先日、とある学校の取り組みが話題になっていました。
ドリル宿題をやめ、子どもが自ら課題を設定する「自主学習ノート」に切り替えた、という話です。
ドリル宿題はもうやめます!“当たり前”を見直した水戸市石川小学校の挑戦 | アカデミア-真の教養を研究する教育情報メディア
で、読んだ私の感想。
ドリル宿題はもうやめます!“当たり前”を見直した水戸市石川小学校の挑戦 | アカデミア-真の教養を研究する教育情報メディア
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こういう記事でノートの写真が紹介されるような、自分で学ぶ力がある子にはいいだろうが…。学力格差が拡大しそう。途中の新聞記事に「教師が丁寧にコメントすることが大切」とある通り、教師の労力は増えると思う。
2020/02/09 13:19
そしたら、なんと記事の筆者、ソルティー(塩畑貴志)氏からTwitterで返信をいただきました。わあお。
そうですね。ただ、宿題を必ずやらなければならないというルールではないようです。
https://twitter.com/Solty_gn/status/1226450337914998785
子供自身が何を書こうかを考えること自体が正解なんだと思います
また、丁寧にコメントをする時間は本来教師が行うべきところだと思っています。丸付けは保護者も手伝ったりしているので労力が減っているようです。
もちろん保護者としては労力が増えているので大変ですが、そこも地域で子供たちを見るという部分に繋がってくるのかなと思います。
https://twitter.com/Solty_gn/status/1226450741453131776
教員だけに教育を任せようとしてしまうと、子供にとって本当に良い教育につながらないのかな〜ともお話を聞いていて感じました。
(ツイート貼り付けたらすっごい見づらいレイアウトになったので引用文にしましたすみません)
私も……自主学習ノートを全否定しているわけではないんです。
前の学校でも、中学年以上では自主学習ノートが宿題としてありました。
子どもたちの思考力や課題を追求する力を育てることは大切だし、その意味で、自主学習ノートは有効な取り組みだと思っています。
ただ、色々難しいところもあるよな、とも思うのです。
「課題は自由です」
というのは、「自由研究」「思ったように書いてごらん」みたいなもので。
自分で学ぶ能力のある子(そしてそれをサポートできる保護者)にとってそれは素晴らしい機会になるでしょうが、そうでない子には厳しい。
要は「2ページの自由研究」ですからね。
それで結局、「自主学習ノート」の2ページにびっしり計算練習をしたり漢字練習をしたり……という状態になる子は少なくないと思います。
っていうかわりと見た。
そして、大体そういう子って、自分の苦手分野に取り組むんじゃなくて、とっくに覚えた漢字や、余裕でできる計算を「練習」するのですよ……。
まあ、自分が何が苦手かを客観視するのって、小学生には難しいですから、責められませんが。
でも、だったらドリルをやった方がマシなわけで……。
そこで保護者が、子どもの苦手分野を見抜いてやるべきことを示唆してあげたり、研究すべきテーマを一緒に探してあげたり、そうでなくとも、せめて本屋で市販のドリルを買ってやったりするならまだいいんですが……。
まあ……色々なおうちがありますからね……。
ソルティー氏は
「保護者としては労力が増えているので大変ですが、そこも地域で子供たちを見るという部分に繋がってくるのかな」
とおっしゃるんですが……。
「地域で子どもを育てる」って言うのは簡単だけど、普通の保護者は自分の子しか見ません。
本当に「地域で」見るなら、保護者に見てもらえない子は他の誰かが見る仕組みを作らなきゃならないんですよね……。
それがあるといいのですが。
ともあれ、子どもが各自の能力に合った課題に、自主性を持って取り組めるようにするには、やっぱり大人のサポートが必要になります。
その意味で、
「丁寧にコメントをする時間は本来教師が行うべきところ」
というのはまことに耳の痛いところで、
「お前の能力がないから子どもの自主学習ノートがそんななんだ」
と言われたらまあ返す言葉もないです。
ただ、それって結局、子どもを伸ばすには相応の手間が必要だよ、という話なんですよね……。
記事中でも触れられている秋田県においては、県の予算で教員を多く配置し、小学1~3年では30人学級、4~6年では20人程度の少人数指導が可能になるよう図ってきた、という事実があります。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/084/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2011/07/05/1308080_6.pdf
秋田県の学力が高い件については、「秋田は田舎だから地域の繋がりが密なのが影響している」「冬が長いから自宅での学習が捗る」「自主学習ノートなどの取り組みが」といったいろんな説がありますが、結局のところ、予算突っ込んで人員を増やしたから学力が上がったのだ、という、きわめて当たり前で身も蓋もない話なわけです。
(その人員をどう活用して何をやるのか、という点に秋田県の工夫があるわけですが)
件の記事中では、
「ドリルを採点するのは先生たちも大変」
「ドリルをなくせば業務改善にもなる!」
みたいな話になってますけど(なんと石川小のサイトにもそれっぽいことが書いてある)、普通に考えて、35人が同じドリルをやってきてそれを採点するのと、35人が別々の「自主学習」をやってきたのを見るのとでは、後者の労力の方がケタ違いに大きいわけです。
(もちろん、楽ならいい、って話ではありませんけども)
「宿題を必ずやらなければならないというルールではない」
っていうのもよくわかりません。
件の校長先生は
「極端なこというと自主学習さえなくていいかなって。だって子供って好きなことやれば良いわけだし。本当は読書とかね。自由だから気付くんです」
とか美しいことをおっしゃってるけど……。
やらなくていいなら何もしない子いるよね……?
漢字ドリルにしても計算ドリルにしても、よく素振りに例えられますが、反復練習する中でしか身につかないことってどうしてもあると思うのです。
たとえそれがすごくつまらないとしても。
つまらない勉強をいかに面白くするか、味付けを工夫するのは教師です。
でも、「面白さ」は手段であって目的ではありません。
勉強の目的は、学習内容が定着することなわけで。
だいたい、どうがんばったって、普通の小学生にとって勉強がゲームより面白くなることはない。
そして、どう味付けしてもあんまり面白くならない反復学習も残念ながらあると思います。
だから、「ドリルがつまらない」というのは、それをやめる理由にはならないのではないでしょうか。
だからまあ……いきなり
「ドリル廃止! 自主学習一本にします!」
みたいな話ではなくて、ドリルはドリルでそれなりに取り組みつつ、それなりに自主学習もやる、みたいなことが必要なのではないかなあ、と思っています。(ネット受けしない結論)
石川小の取り組みの結果がどうなるかはまだわかりませんが、教育の分野でいきなり極論に走るのは危険なんじゃないでしょうか。