日本語は滅ぼすべき。(なるべく計画的に)

短期的な利点。

 なんかひところはてな界隈でえらく有名だった本「日本語が滅びるとき」日本語が亡びるとき」。
 私は読んでないし読む気もないんですが。
 
 国語科出身の私ですが、実はもうそんなにがんばって日本語を保護しなくてもいいのではないかな、と思うのです。正直なところ。
 
 いや、今すぐ英語を公用語に! とか言われると私個人は困るんですが。
 しゃべれないし。
 
 ただ、今後英語教育に力を入れ、段階を踏んで
 
「日本語・英語併記」
 ↓
「英語のみ」

 
 ……というように公用語を英語に移行するのはアリではないかと。
 英語単独表記の看板とか、すでにけっこうあるじゃないですか?
 
 英語公用語化の論拠としては、はてな界隈では
「その方がビジネスに有利だから」
 というのを挙げる人が多いようです。
 また、故アイザック・アシモフは、
「主要な科学論文は英語で書かれている(誰もが英語を理解できれば科学の進歩が促進される)」
 というのを理由に挙げていました。*1
 
 私としては、やはり意思疎通が容易になれば相互理解も深まり、世界の平和に寄与するのでは、という思いもあります。
 
 まあ、同じ言語しゃべってる民族同士が延々と紛争を続けてる地域もゴマンとありますけどな。
 
 ……と、こんなことを言うと、
「日本の伝統的な文化が継承できなくなる!」
「英語の覇権の下では文化の多様性が失われる!」

 といった意見もあろうと思うんですが。
 
 ではまあとりあえず、下の話を読んでいただきたく。
 

中学時代に読んだ。

 これはフィクションではありますが、けっこう古い随筆(エッセイ)が下地になっています。

 かなり年配の退職校長の話。
 ある日彼は、地元の中学が、修学旅行でテーマパーク(っていうかディズニーランド)へ行くらしい、という話を聞いた。
 
「自分が校長だったころは、修学旅行といえば京都・奈良・鎌倉くらいだったものだが、時代は変わったことだなあ。
 そういえば、ディズニーランドというのもよく名前を耳にはするが、実際に行ったことは一度もなかった。これはいかん。
 退職したとはいえ見聞を広めるのは大切だ。
 これは自分でも一度行ってみるべきだなあ」
 
 と、一念発起し、ディズニーランドへ出かけることにした。
 
 もちろん男一人である。
 
 帰ってきて周囲に語って曰く、
 
「最近ディズニーランドに行ってきたんだが、実に興味深かった。
 ああして色々な様式の建物が一堂に会している、というだけでも確かに色々勉強になるものでね。
 もっとも、どこも大変な行列ができているには閉口したよ。
 たまたま列ができていないところに入ってみたが、中はみんな土産物屋になっているようだった。
 並んでまで土産物を買うこともあるまいと思って他の所には入らなかったんだが、もっと空いていればもう少し建物の中の様子も見てみたかったな」
 
 少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。

 言うまでもなく「徒然草」(第五十二段)なんですが。*2
(原文→http://www.tsurezuregusa.com/contents/52.html
 
 大学時代の恩師が、こんな話をしていました。
 
「この間若い先生の授業を見てきたんだが、“徒然草”読ませて
『この話で作者の伝えたいことは何でしょう』
 とかバカなこと聞いてやがった。
 随筆に主題があるわけないだろう。
『少しのことにも先達はあらまほしき事なり』
 ってのはありゃあ『作者の伝えたいこと』じゃなくてオチであって笑うところだ」
(似たような授業らしい→http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114960071
 
 石清水八幡宮の本殿が山の上にあって、仁和寺の法師が見てきたのは摂末社に過ぎない、というのは教科書にも載ってますし、最後の一文がオチだ、っていうのは同意される方も多いと思うんですが。
 しかし“徒然草”第五十二段の笑いどころはこれだけではありません。
 
 まずそもそも、
「この時代の石清水ってのは、言ってみれば観光地だ。みんな遊びに行くところだ。
 そこへ
『みんな行ってるのに自分はこの歳まで詣でたことがない』
 って“心憂く”覚えたりするのはすでに何か勘違いしてるわけだ。
 まじめというか世間知らずというかな」
「で、“徒歩にて詣でけり”な。
 普通はみんな船で行くんだよ。
 それで船の中で飲んで騒いでな。
 そうすりゃ石清水八幡宮がどんなところかも教えてもらえたろうに、こいつは一人でてくてく歩いて行ったんだな」
 
 まあ、仁和寺の法師のくそまじめっぷりが笑いどころなわけですが。*3
 
 ……「そんなの知ってたよ。常識だろ?」って人がどのくらいいますかね?
 
 もはや我々は、古典文学を「読む」ことはできても「感じる」ことはできなくなっているのだと思います。
 生きている時代背景が違うから。
 
 そんな話をすると、恩師には「バカ」呼ばわりされると思うんですけどね。*4
 
 高校時代に読んだテキストで、
「“白足袋”を“white socks”と訳すことは可能だが、“白足袋を履く”という文の持つ緊張感、清潔感といったニュアンスを伝えることは不可能だ」
 といった話があったんですが、そもそも今の日本人だって足袋なんかろくに履かないわけで、たとえ原文で読んでいたって、本来のニュアンスは時代と共に失われざるを得ない。(「パンパン音のするような袴」って結局なんなんでしょう……。→「70年代の児童文学について。」) 
 
 だとしたら、
公用語が英語になったら、日本の伝統的な文化が継承できなくなる」
 という危惧にどれほどの妥当性があるでしょうか。
 

昭和は遠くなりにけり。

 いや、徒然草を引き合いに出しておいて恐縮ながら、なんか聞いた話では「日本語が滅びるとき」日本語が亡びるとき」で扱われてるのは近代文学だけなんですか?
(なんでなんですか? 教えて読んだ人)
 
 しかしそれでは、もっと近い時代の言葉なら元のニュアンスを理解できるか、というと必ずしもそうではないわけで。
 
 「核抑止力」とか「東側諸国」といった言葉がかつて持っていた重苦しい雰囲気が、今でも伝わるでしょうか。
 「テレビ電話」とか「電気自動車」といった言葉がまとっていた「遙か近未来の夢の技術」というおぼろな希望のイメージは?
 「バナナはおやつに入るんですか」というフレーズに込められた自慢げな響きは?*5
 
 言語は文化の基盤となるものですが、日本語さえ使っていれば過去の日本文化を理解できるとは限りません。
 
 人間が実感できるのは、結局のところ自分自身が生きているその文化だけであり、それ以外のものは、中世の日本文化であれ現代のアメリカ文化であれ(よほど勉強しない限り)「他人事」に過ぎないからです。(もちろん近い遠いの差はあるでしょうけど)
 
 そう考えるなら、日本の国語を20〜30年がかりで段階的に英語へと移行したからといって、致命的な何かが失われるとは言えないのではないでしょうか。
 
 っていうか、現状を見る限り、どっちみちいずれ英語が世界を席巻するのは確実でしょう。
 
 色々がんばって自国語を守ろうとするのは日本人やフランス人ばかりではないでしょうけど、言語の変容というのは不可避的なものであって、少数の「知識人」が何か主張したところでどうにかできるものではない、と私は思います。
 それは川の流れを手でせき止めようとするようなものです。
(……というのは以前書いた話。→「最近の日本語は乱れている!」とか主張すると、なぜ国語学者はニヤニヤするのか。
 
 あれだけメディアが騒いでも「ら」抜き言葉は定着し、
「こちらがご注文の商品になります」
「980円ちょうどからお預かりします」
「ご覧いただけますでしょうか」
 といった表現も根絶できず、HPはホームページの略であり、クラッカーは永遠に焼き菓子またはパーティーグッズの一種なのです。*6
 
 いたずらに変化に抗って時間と労力を空費するよりも、より良い形で英語体制に移行できるよう努力した方がよいのではないかな、と思います。
 
 ……と言っても、これは
「どのみちアメリカ様にはかなわないから大人しく英語支配に服従した方がいいよ。わんわん」
 というような敗北主義ではありません。
 
 大局的な流れに抗うことはできなくても、流れを少しでも自分たちにとって都合の良い方向へ向けることはできる、と思うのです。
 

我ら乱世の覇者たらん。

 まずこちらの記事。
英語とは誰の言葉か 形を変え続けて広まる英語――フィナンシャル・タイムズ 

 英語が世界中に広まったこの物語は、北アメリカ、ブリテン諸島、オーストラレシアに住むネイティブ・スピーカーたちの勝利だ——と解釈したくなる気持ちも分かるが、それは間違いだ。「English Next」の筆者デビッド・グラドル氏は、こう指摘する。グローバル英語は最早もっと複雑な段階に入っている。英語は世界中でどんどん変化していて、古くから英語を使っている国々はその変化の仕方をコントロールもできないし、変化の仕方が必ずしも気に入らないかもしれないのだ。

 「英語の覇権」は、決して「アメリカの覇権」を意味するのではありません。

 実際に今や、英語を使って交わされる会話の大半は、非ネイティブ・スピーカー同士のものだとグラドル氏は言う。さらに言えば、ビジネス会議を英語で行う場合、英語ネイティブがいない方が、やり取りはスムースに進むようだという。

 非ネイティブスピーカーたちは英文法をいくつかの形で修正させていることが明らかになってきたという。英語をかなり流暢に使える人でも、三人称単数現在形の語尾の「s」を落とすことがあるし、関係代名詞「who」と「which」の使い方もネイティブとは違っていることが多いという。

 「世界共通語」としての英語は、もはやアメリカのものでもイギリスのものでもありません。
 世界で話される英語はすでに変容しつつあり、いずれ誕生するであろう「共通英語」は、おそらくイギリス英語ともアメリカ英語とも大きく異なるものになるでしょう。
 
 そして、何が「正しい」英語なのかを決めるのは、少数の(!)ネイティブスピーカーではありません。
(件の記事によれば、
「ネイティブ・スピーカーと、外国語として英語を使う非ネイティブ・スピーカーの比率は今や1対3。(略)これからさらに何百万という人たちが新たに英語を勉強し始めるに連れて、この比率の開きはどんどん大きくなる」
 のです)

 ネイティブなら往々にして、これまで挙げてきた例はどれも「バリエーション」ではなくて「間違い」だと言うだろう。「knowledges」も「phone to somebody」も、紛れもなく間違いだと。世界各地で英語を教えている非ネイティブの英語教師たちも、そう言うだろう。しかし言葉とは変化するもの。文法的に何が正しいか正しくないかも、時代によって変化するものなのだ。

 言語の変容というのは不可避的なものであって、少数の「知識人」が何か主張したところでどうにかできるものではない、のです。
 川の流れを手でせき止めようとするようなもの。

 ネイティブスピーカーは、顔をしかめるかもしれない。けれども私たちは日に日に少なくなりつつあるマイノリティーなのだ。

 そのときはアジア発の専門誌の編集者たちが、世界中の研究者に、自分たちの「世界語」の文法に合わせるよう要求するのだろう。そうなったら、もし論文に「the patient feels」と書いてあったら、編集者は「the patient feel」と文章を校正するに違いない。三人称単数現在形の語尾の「s」を落として。

 以前、次の時間はALTの授業だ、という時に、ALTに「よろしくお願いします」……と声を掛けてから、ふと尋ねました。
「“よろしくお願いします”って、英語ではなんて言うんです?」
「英語にはそういう表現がありませんね。私は代わりに“Enjoy it!”とか言いますけど」
 
 英語には「よろしくお願いします」も「おつかれさまでした」もない……と言われると、また日本語保護主義者が
「日本の精神的美風を守るべきだ!」
 とか主張しそうな気もしますが、アメリカ英語に「よろしくお願いします」相当の表現がないからといって、世界共通英語もそうでなければならないとは限りません。
 
 元々英語には「なつかしい」に相当する表現はないんだそうですが、我々は「ノスタルジー」に、それに相当する意味を与えて使っています。
 「ドライな関係」とかいう表現も、本来の英語にはありません。
 
 ならば、今の英語では表現できない日本伝統の感情・言い回しも、積極的に英語化すればよいわけです。
 
 かつて明治時代の人々は、日本にはない西洋の物品・概念を表す言葉を無理矢理日本語に翻訳しましたが*7、今度はその逆をやるわけです。
 
 さらに言えば、文法についても同様のことが言えます。
 
 英語は、比較的簡潔で覚えやすい言語だそうです。
 
 しかしながら、こんな研究もあります。*8
 
 「英語式語順は、自然な思考の順番に反する」研究結果

 英語も含めて、人間が使用する言語の約半分では、主語の後に動詞が続く。こうした言語を生まれたときから使用している人には、「Bill cake eats(ビルが、ケーキを、食べる)」というSOV型の語順の文は、直観に反しているように聞こえるかもしれない。だが、こうした文章構成の方が、実は人が認識する順番に従っているようなのだ。

「Bill cake eats」みたいな語順で話す日本人の英語は、なるほど「本来の」英語とは異なるものであって、「Inglish」とか嘲笑されるかも知れません。ネイティブには。
 
 でも、世界の言語の45%がSOV型で、そちらの方が人間の生理に即しているのだとしたら、それを話して悪いわけがあるでしょうか。
 むしろ、英語の方が我々に合わせるべきなのでは?
 
 繰り返しになりますが、英語が共通語化することは、決してアメリカの勝利を意味するのではありません。
 むしろ今は言語的にはかつてない乱世なのであり、群雄割拠する「ピジン英語」の中で何が後世に生き残るか、誰にもわからないのです。
 
 ならば、我々は、「Inglish」をどんどん使って世界に広め、来るべき世界標準が、日本語型……SOV型の英語となるように戦うべきではないでしょうか。
 
 ……まあ、そこまで根本的な文法の変化が、100年待たずに起きるか、というと実は懐疑的ですけどね。
 
 なにしろ、近隣の中国語も韓国語も英語同様にSVO型で、しかも英語学習に力を入れてるから、日本人より先に英語を習得して、そっちが「共通英語」の形成に大きな影響力を発揮するとかいう結果になりそうな気も。*9
(個人的には中国政府が突然「今後〜〜年以内に英語を公用語とする」とか言い出すのって、結構ありそうな気がするんですが……)
 
 ともあれ、今からがんばれば、文法はともかく語彙とかにはかなり日本語の影響を残せるはずと思います。
 この情勢下で、ぎりぎりまで日本語にこだわって、あげくに(日本語の要素を全然持たない)「共通英語」に蹂躙されるくらいなら、早めに英語にシフトして、日本文化の影響をその中に残した方が良いのではないでしょうか。
 
 我が国の政治はなおも混乱が続く気配ですが、政府には大局的な視野に立った言語戦略を迅速に練っていただきたい、と思うことしきりです。
 
 ……いや、あまり迅速だと私は困るんですけどな。しゃべれないし。
 

まとめ(追記2)

 オチの後に何か書くのはどうか、って感じですが、趣旨がつかみづらいというご意見を頂いたり色々あったので、まとめ。
 
・今後、情報の流通が盛んになると、いずれは世界共通語のようなものが(自然に)成立するだろう。
・現状を見る限り、それはたぶん英語をベースにしたものになるだろう。
・その一方で、日本語はその地位を低下させ、(すでに多くの言語がそうなったように)失われてしまうだろう。
・これは残念なことだが
*10、言語の趨勢を人為的にどうにかできたためしはほとんどないので、たぶん不可避である。
・「日本語がなくなったら古典文学などの伝統文化が理解できなくなる」という意見もあろうが、文化というのは言語だけでなく時代的な背景にも依存しているので、たとえ日本語を使っていても、正しく理解することは時間と共に不可能になる。
 
・別に「日本語は滅びた方がいいよ!」と言ってるわけではない。ないったらない。
 
・一方、英語も、非ネイティブの話者が増えるに従い、語彙も文法も従来の姿から変容しつつある。
・であれば、日本人も「日本式に間違った英語(Inglish)」をどんどん発信し、「世界共通英語」が、文法的にも語彙的にも、日本的な要素をたくさん含んだ物になるよう努力すべきである。

 
 具体的に言うと、本文中で書いた「センチメンタル」とか「ドライ」とかに、日本的な意味合いを付加するとか。
 あるいは、「萌え」とか「もったいない」みたいに、日本特有のニュアンスを持った単語を国際語化するとかが必要、といったことでしょうか。
 

追記。

 なんかたくさんブックマークをいただいてしまって驚いています。
 お返事したいのですが、一度には難しいので取り急ぎ一つだけ。
 
(その他のコメント返しはえらい分量になったので、独立した記事として翌日に回しました。
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20090215
 
「日本語を滅ぼさなくても英語を第二言語にすればいい」
 とかおっしゃる方々へ。
 
 自覚してらっしゃらないかも知れませんが、あなた方は知的エリートです。
 
 日本人の多くは、すでに学校で何年にもわたって学習しているにもかかわらず、まともに日本語が使えない人がたくさんいるんですよ?
 
 それなのに、全国民がバイリンガルになんてなれるはずないじゃないですか。
(「セミリンガル」……は差別語らしいので「ダブル・リミテッド」でググるのおすすめ)
 
 教育課程の問題もあります。
 
 新学習指導要領では、小学校6年間の全授業時数(これは、「総合的な学習の時間」や「特別活動(運動会とかのいわゆる学校行事など)」も含めた全部)は5367時間。
 そのうち、「第一言語」である「国語」だけで1377時間が配当されているのです。
 
 第二言語、学校で教えるんですか?
 
 いいけど、理科も算数もやる時間なくなりますよ?
 
 そりゃあ、第一言語がドイツ語とかフランス語とかだったら、一緒に英語を習うのも比較的簡単でしょうけど。
 ご存じの通り、日本語と英語は恐ろしく相性の悪い言語なので……。
 
 だから(アシモフの心遣いには悪いんですが)、日本に英語を「第二言語」として導入、というのは難しいのでは、と、私は思います。

*1:アシモフは、「英語は第二言語の地位でも良いから」としていたことを付言しておきます。
ついでに言うと、アメリカはヤードポンド法を廃止してメートル法に移行すべきだ、とも。

*2:全国の退職校長の皆さん、仁和寺の法師扱いしてごめんなさい。

*3:極楽寺・高良など」も相当壮麗なものだった、というのもおさえておくべき。

*4:恩師の意見は、
「古典文学も日本語で書かれている我々に理解可能なテキストである。
 だから、係り結びの法則みたいに特殊な『現代語と違う部分』ばかり強調して扱うのは古典嫌いを増やすばかりだ。
 語彙など必要な事項だけ補足するにとどめ、そのおもしろさを味わわせるべきだ」
 といったことでした。

*5:1ドル=360円の固定相場制の下ではバナナは(っていうか輸入品全般は)高級品であり、同級生の前で
「バナナはおやつに入るんですか?」
 と聞くのは、
「自分はバナナ持って来られるんだぜ!」
 という自慢の意味が込められていた……と、ウチの親が言ってました。

*6:でも世界的に見ると、HPは一般には「馬力」の略として使われ、たぶん日本では「ヒットポイント」の略として使われることが最多のような気がする。
ヒューレットパッカードの略だ、とか言ってる人の方がおかしいんじゃないかしら。

*7:Loveの訳に「愛」があてられる以前、日本にそれに相当する言葉はなく、キリスト教宣教師は「汝の隣人を愛せよ」を訳すのに苦労したとか。

*8:……と思ったら、どうもここで引用したWiredの記事は超訳気味の内容だったらしい、とブックマークコメントで指摘を頂きました。
 なので、共通英語に日本語文法を押しつけるのは(まあ無理だろうとは言ってたけど)難しそうです。
 やられた。
 
 nofrillsさん、ご教示ありがとうございました。

*9:韓国語の語順はSOV式でした。大学でちょっとかじったのに……とほほ。なまえさん、ありがとうございました。

*10:特に私みたいに、英語がしゃべれない一方、日本語についての蘊蓄を垂れるのが大好きな人間には非常に残念。