「最近の日本語は乱れている!」とか主張すると、なぜ国語学者はニヤニヤするのか。

 
 なぞなぞです。
 
 母には2回会ったけれど、父には会わなかった、というものなーんだ?
 
 ヒント:これは平安時代のなぞなぞです。
(「母には二度逢ひたれど父には一度も逢はず」『後奈良院御撰何曽』)
 
 
 
 
 
こたえ:くちびる
 
 えーと、「なんでだ!」って話を説明すると長くなります。
(有名な話ではあるんですが)
 
 半濁音(ぱぴぷぺぽ)を含む言葉の多くは外来語で、いわゆる「和語」には少ないことは、皆さんご存じと思います。
 
 これはなぜか。
 
 これは、日本語の発音の変遷に理由があります。
 
 日本語では、古くは、「はひふへほ」という字を書いて、「パピプペポ」と発音していました。
(しかし、文字で説明するのが難しい話題だな)
 だから、「はは」という言葉を発音する時、実際の発音は現在の「パパ」に近くなりますから、唇が2回合わさるのです。
 これがなぞなぞの答えの答え。
 
 さて、もっと時代が下ると、「は行」は「ファ フィ フ フェ フォ」に近い発音になりました。*1
「天草本平家物語」(1592)という、ポルトガルの宣教師が聞き書きした平家物語があるのですが、そこでは「平家物語」が「Feiqe Monogatari」と表記されています。
 
 おごるフェイクェは久しからず。*2 *3
(「か」「け」の発音についてはちょっと疑問がありますので注意。脚注とコメント欄参照のこと。詳細ご存じの方がいらしたらご教示ください)
 
 「は行」の音が、現在の「ハヒフヘホ」へと変化したのはもっと後のことです。
 
 ……すると、今度は「パピプペポ」という音を表記する手段がなくなってしまいました。
 “p”音も、「折半」「反発」など、特定の場合*4には残っていましたから、これは不都合です。
 それで、「半濁音」という表記が発明されたわけです。
 
 いかにも「特殊ルール」な感じで美しくないですが、しかたない。
 
 そんなわけで、
「古い日本語には半濁音がない」
のではなく、
「古い日本語は半濁音だらけだった」
というのが正解。
 
「にほん」と「にっぽん」、どっちが正しいか、というのも、その辺りで説明がつくでしょう。
 
 ひらがな・カタカナは表音文字だ、というのは大体事実ですが、ある文字が常に同じ音を表してきたとは限らないのです。
 
 さて、このように、p→f→hと発音が変化することを「唇音退化の法則」と呼びます。
 
 大学時代の恩師曰く、
「要するに、発音は楽な方へ楽な方へと変化していくわけだ。
 だから、こういった変化を見れば、未来の日本語……というより、すべての言語がどう変化していくか、大体予想がつく」*5
 
 伝統主義者が大騒ぎしている
「アクセントの平板化」
 だって、「楽な方へ」の変化ではあります。
 
 そもそも、「平板化している!」って問題になるのは、「委員会」とか「自転車」「彼氏」「世界史」など、新しい言葉ばかり。*6
 なにぶん、古い日本語のアクセントはすでにあらかた平板なので。*7
 
 従って、古い時代の日本語は、ちょっと聞いただけでは日本語とは思えないくらい抑揚が豊かだったと推測されます。
 能とかの台詞回し、聞き慣れない人には何言ってんだかさっぱりですが、成立した当初にはみんな普通に聞き取れたはずなわけですから。
(もちろん、現代における“日常会話”と“演劇の台詞”くらいの違いはあったでしょうけど)
 
 なので、うっかり平安時代にタイムトラベルしたりすると日本語が通じませんので注意。
 
 その他、発音については、四つ仮名の混同*8とか、上代特殊仮名遣い*9とか、いろんなエピソードがあるわけですが。
 
 また、表記についても似たようなことが言えます。
 私たちは、カタカナは擬音語や外来語を書くのに使う仮名である、と理解していますが、別に元からそういう目的で発明されたわけではない……というのは、前に書きましたっけ。
「オノマトペについて。」
 
 このように、言語というのは時間の流れとともに必然的に変容していくものです。
 墨守すべき「正しい日本語」などというものは、歴史上のどの時点にも存在しないのです……ということを国語学者は痛感しているわけです。
 
「古典文学に触れて、日本語の美しい響きを味わおう」
 とか言ったって、
 清少納言は「春はあけぼの」を「ルワアクェボノ」(太字にアクセントがある)とか発音してた(たぶん)なわけで。*10 *11
「美しい日本語の伝統」とやら言う時の「伝統」は、せいぜい「俺が若かった頃」を意味するに過ぎないのは明白です。
 
 だから、そういう意見を聞いてニヤニヤしてる国語学者は、
 
「へー? じゃあ、どの時代、どの地域の日本語を“正しい”と思ってるんだい、あんたは?」*12 
 とか考えてる、と思って良いでしょう。
 
 そして、言語が今後も変化していくのも必然です。
 
 もちろん、コミュニケーションの道具である、という言語の目的からすると、変なジャーゴニズムに陥るのは避けねばならない(=一定の規範性・保守性は必要)ですが、ありもしない「伝統」とかを根拠に、過剰な保守主義に陥るのも、むしろ労力の空費であろうと思います。
 
*余談
 
 国語学の人って、言語が社会全体で変化していくことには寛容だけど、個人レベルの誤りへの対応は全然それと違うので注意。
 どのくらい違うって、ラングとパロールぐらい違います。
 
 私は、教育学部の国語科だったわけですが、国語学とかを専門にしている先輩もおり。
 
 そうすると、うっかり黒板に字をかいたりすると、
「書き順違うよ!」
 とか。
 
 書き順に法的根拠などないんじゃー!
 
 それでいて、学科の掲示板を見ると、なんか旧仮名遣いで書いてる教官がいたりとか。
 
 教官も、
学生「……というように、作者は比喩的な表現を多用しており……」
教官「今、“比喩表現”ではなく“比喩的な表現”とおっしゃったのはどういった意図からですか?」
 
 こわいよ国語科。
 
 ……あ、私はできの悪い学生だったので、この記事にも問題点が多々あるかと思うんですが。
 お気づきの点がありましたらご指摘下さい。
 
*附則
 
 宣言文。
 
 この記事における「言語」の定義は、三省堂大辞林」第二版……っていうかgoo辞書に準拠するものとし、特に断りのない限り、音声言語と文字言語(表記)の両者を含むものとします。
 プログラミング言語は原則として含みません。
 
 断りなく「言語」と言った場合は、世界のすべての言語を指し、「ある言語」と言った場合には、そのうちの日本語や英語など、ある任意の言語を指すものとします。
 
 当ブログにおける過去(および、今後断りがない限り将来)の記事も同様です。
 
 時々そうじゃない時があるかも知れませんがその辺は文脈を読んでください。
 

*1:平安時代にはすでにそうなっていて、「パピプペポ」と発音したのは文献時代より前だ、という説もある。

*2:この記事では当初「フェイクェ」としていましたが、ポルトガル語では一般に「K」を使わないので、「qe」は「クェ」ではなく「ケ」の方が適切なようです。
watasiさん、ご指摘ありがとうございました。

*3:……と思ったのですが、先日、大学時代に教官からもらったレジュメを発掘してみたら、「け」は「kwe」と発音した、と書いてあったので元に戻します……が、参考文献とか書いてないので根拠不明。うう。

*4:「ん」の後か、「っ」の後。

*5:発音の変化、というのは、もちろん日本語に特有の現象ではありません。
 たとえば、中国語でも漢字の読みは変化しています。
 日本語の漢字で、音読みが二通りあるようなのは、それを反映しています。
 
例:「行」の音読み
 ギョウ(呉音)
 コウ(漢音)
 アン(唐音)
 
 時代とともに変化した読み方が、随時日本に流入してきて、そのまま定着してしまったのですね。

(ただし、決して、
「呉音が呉王朝・漢音が漢王朝・唐音が唐王朝でできた」
わけではなく、地域的な差も大いに含むので注意。
coffeekudasaiさんの指摘により追記。ありがとうございました)

*6:国語学とかでは、明治以後にできた言葉は「新しい」呼ばわりです。
 ご了承ください。

*7:古くからある言葉にも、例外はもちろんあります。
特に、「暑い」とか「箸」とか、平板化すると別な語(「厚い」「端」)と混同されてしまう、というような場合。

*8:「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は、昔は違う発音だった。

*9:古代、日本語には、6つだか7つだか8つだかの母音があった。万葉仮名をよく見ると書き分けられている。

*10:「パルワアクェボノ」から訂正。お恥ずかしい。

*11:「フェイクェ」と同様の理由によって再訂正。もう何が何だか。

*12:「どの地域」については、tenntekeさんの指摘により追記。ありがとうございました。
日本に「標準語」というのが成立したのは明治に入ってからで……って話も、前に書いてはいたんですが、時期的な差異について書いていたら、地域的な差異に配慮するのを忘れました。反省。
前の記事→「言語的な帝国主義http://d.hatena.ne.jp/filinion/20071008