『一枚の写真から』について。

まじめな話。
 
社会科の授業の話です。
11/5に書いたことの続きになります。
 
件の授業について、授業後の研究会で、授業者が、
 
「できることなら、『一枚の写真から』というようにしたかった」
 
という反省を述べていたわけです。
 
社会科では、よく、一枚の写真を提示して、そこからわかることを子どもたちに考えさせる授業があります。
 
お手元に社会科の教科書がある方はご覧下さい(……最近の教科書ですよ?)。
特に、単元の最初などは、見開きで一枚の写真が大きく載っていることが多いのではないでしょうか。
 
例えば、自動車工場の写真を見せて、
 
「この写真から、どんなことがわかるでしょう」
とか聞くわけです。
 
で、子どもたちは、あれこれ考えながら、
 
「たくさんの製造途中の自動車が並んでいる」
「一台一台に、指示を書いた紙が貼り付けられている」
「作業服を着てヘルメットをかぶっている」
 
……などの情報を読み取り、学習テーマである
『自動車工場では、どのような工夫をしているのだろう』
ということについて考えていくわけです。
 
しかし、この考え方が、私には疑問で。
 
もちろん、これらの写真は、教材として適切であるよう、教科書会社が精選し、文部科学省の検定を経たものです。
 
しかし、子どもたちにそれがわかろうはずもなく。
 
「一枚の写真から、とてもたくさんのことが読み取れるんだ」
「ただ一枚の写真からでも、そのものについて正しい情報を得ることができるんだ」
……という考え方・方法論をも学習してしまうのではないか、と思うのです。
 
しかし、これはメディアリテラシー的にどうなのかな、というのが昔から疑問で。
 
例えば、
「バ市に入城する我が兵士と、歓呼の声で迎うる市民たち」
……みたいな写真があったとしてですね。
 
「この写真から、どんなことがわかるでしょう」
 
しかし、それと同時に
帝国主義者の侵略に対し決起し、自動小銃を手に武力闘争を誓う人民たち」
……みたいな図が、そのすぐ近くで発生している可能性も当然あるわけです。
 
言うまでもないことですが、物事には様々な側面があります。
その中から、「一枚の写真」を選ぶ過程には、選ぶ側の意図が入るわけです。
 
それを、誰が、どのような意図で写真を選んだのか、という検討をせず、一枚の写真からあれこれ読み取らせるのはある意味危険ではないかな、という懸念を抱いていたのです。
 
まあ、これは、写真が一枚だろうと百枚だろうと、上映時間8時間の超長編映画*1だろうと同じ事なんですが。
 
天安門事件の時、突き進んでくる戦車の列の前に立ちはだかった一人の学生がいました。
そのまま進んでくる戦車。
動かない学生。
 
……固唾をのんで見守っていると、ついに、戦車は学生のすぐ前で停止したのです。
 
これを、私たちは、「自由の勝利」(「非暴力の勝利」でもなんでもいいけど)を象徴する図として受け取りました。
でも、中国共産党では「人民軍兵士の人間的理性」を示す映像として報道しているわけで。
 
まあ、どんなものでも、解釈は様々あり得るし、政治的に利用される可能性も様々あるわけです。*2
 
で、先輩のH教諭と。
件の授業についての批評と共に話を聞きました。
 
私「今回の授業、授業者が、『一枚の写真から、という形を取りたかった』って言っていたんですが」
H「うーん、そうだねえ。あんまりたくさんの情報を一度に子どもたちに与えると、かえってわけがわからなくなってしまうこともあるからね」
私「でも、よくある、『一枚の写真から』って、どうなんでしょう。一枚の写真からでは、読み取れないものもたくさんあると思うんですが」
H「それは確かにそうだよね。だからこそ、見学に行く意味があるのであって。事前にあまりたくさんの資料を見せて、それからまた見学に行くのでは、子どもたちの意欲はむしろ低くなるよね」
私「行く前から、もう行ったような気になってしまう?」
H「うん。スーパーマーケットについて、あれだけたくさんの資料を見せて、二時間かけて『わかったこと』『見つけたこと』をワークシートいっぱいに書かせてさ。その上、実際に見学に行って、さらに工夫を見つけなさい、っていうのは、子どもたちにとっては酷だと思うよ。児童の実態にもよるだろうけど、『これ以上何すりゃいいの先生』って感じになるんじゃないかな」
私「あー……。すると、『一枚の写真』、っていうのは」
H「この写真からわかることもあるし、わからないこともあるね、ってことを確認するわけだ。それで、わからないこともあるから、もっと調べてみたいね、ってことにつなげていくんだよ」
私「なるほど……。一枚の写真は、学習の入り口なんですね……」
 
いや……。
己の未熟さを思ったことでした。

*1:ソ連映画「ヨーロッパの開放」

*2:当時、「軍が学生に無差別に発砲し、数千人の死傷者が出た」と報道された天安門ですが、実際には学生の死者はほとんどなく、むしろ人民軍の方が被害が大きかった……らしいです。
……これも、「非暴力の勝利」の、一つの形なんでしょうか……。