汎用人工知能と、特化型天然知能。

 最近読んだ本から、人工知能について知ったり考えたりした話。
 
働きたくないイタチと言葉がわかるロボット  人工知能から考える「人と言葉」
働きたくないイタチと言葉がわかるロボット 人工知能から考える「人と言葉」
 
 人工知能に言語を学ばせるとはどういうことかについて、音声認識の技術から、言葉の「意味」の理解に関する技術までを概観した本。
 
「自分たちの代わりに働いてくれるロボットが欲しい」
 と考えたイタチ村のイタチたちが、開発の過程で様々な困難に直面し、トラブルを引き起こしていく……というストーリーと、ちょっと詳しいコラムが交互に出てくる、一般向けのやさしい本です。
 
 筆者も断っていますが、筆者の専門である言語理解の話が中心なので、それ以外の部分(ロボット工学的な問題とか)はざっくりしています。
 
 単語の意味をベクトルで表現する手法、なんて話はこの本で初めて知りました。
 
 この本を読んで「そうか、なるほど……」と思ったのは、
「複数の言語を教えると誤認識が増える」
 という話。
 
 古い笑い話があります。
 
 外国人観光客が、日本の農村を訪れて、畑の脇に積んである、収穫したばかりの里芋を検分していると、離れたところで作業していた農家の人が大声でこう言います。
「What time is it now !?」
 それで観光客は今何時か教えるのですが、どうも話がかみ合わない。
 
 というのも、本当は農家の人は「掘った芋いじったな!?」と言っていた……という。
 
 こういう誤認識は、もちろん音声言語だけの話ではありません。
 
 例えば、郵便番号を認識する機械なら、0〜9までの数字だけ知ってれば事足ります。
 汚い字で書かれた番号に、「これは2だろうか3だろうか?」と判断に悩むことはあるでしょうが、まあそれくらいのものでしょう。
 
 しかし、もし、この機械に、平仮名やアルファベットを教えてしまうと、
「これは0なのか? oなのか?」
「3なのか? ろなのか?」
 とか、無意味に迷うことが増えてしまいます。
 
 つまり、機械に教える言語を増やせば増やすほど、認識精度は下がっていく。
 そうしないためには、最初から「日本語しか知らない機械」「英語しか知らない機械」というように、特化させる必要がある……というのです。
 
 だから現状では、例えば
「英語でも中国語でもスワヒリ語でも聞き取って、日本語に翻訳してくれる機械」
 というのは現実的でない、と。
 
 ……で、ここからは完全に本の内容とは離れた想像になってしまうのですが、こういう問題は言語に限らないのであろうなあ、と。
 
 IBMのワトソンを各社の業務に利用するにあたっては、それぞれの業務に適合するよう特化させる必要があるのだそうです。
 医療関係なら医療だけ、金融関係なら金融だけ、というように。
 
 以前は、
「なんでそんな面倒なことをするんだろう? 色々な分野を一つの『ワトソン』に覚えさせて、医療にも金融にも法律にも天文学にも、あらゆる分野に詳しいAIを作ったらいいのに……」
 と思っていたのです。
 
 しかし、なるほど、複数分野を一つのワトソンに学習させると、精度が落ちてしまうのだろうな、と理解しました。
(まあ、学習に使った顧客の情報を外部に漏らさないため、ということもあるのかも知れませんが)
 
 自分としては、様々な学術分野に精通し、それらを組み合わせて新しい知見を生み出すことのできる超AI……というようなものに憧れるのですが、それはまだ先の話なのかも知れません。
 おそらく、いずれ人工知能が政策立案とかに携わるようになっても、
 
建設監督AI「産業政策AIからの通達で、今期のCNT割り当ては削減するって」
宇宙開発AI「はあ!? ただでさえ工期遅れてるのに!?」
建設「その代わり来期は割り当て増やすし、今期もSSTOは優先使用していいそうだ」
宇宙「あンの政治BOTども……! 宇宙開発ってのはタイミングが重要なんですよ! 適切な時期を逃したら、後からどんなに資材増やしても巻き返しがきかないんです! 医療用こそ後回しにしたらいいのに……!」
(この間0.02秒)
 
 とかなんとか、専門分野が違う「特化AI」同士が互いに相手の無理解を嘆くような状況が続くのかも知れない、などと妄想しました。
 
 ……それにしても。
「AIがブームだけれど、それは特化型の人工知能に過ぎず、真のAI……汎用人工知能にはほど遠い」
 なんてよく言われますが、ではそもそも人工「でない」知能、我々自身の知能はどの程度「汎用」なんでしょう。
 
 私たちの中には、日本語を解する人も、英語や中国語、スワヒリ語、フランス語、ブルンゲ語、タイ語、その他もろもろの言語を話す人がおり、中には2つ、3つ、あるいはもっと多くの言語を解する人もいます。
 しかし、それら「全て」を理解している人はおそらくいません。
 
 私たちが日常生活で安定して会話できるのは、要するに、私たちが乏しい数の言語しか知らないからです。
 2つの言語が混在する状況では
「掘った芋いじったな!?」
 が誤って認識されかねないように、もし人々が全ての言語を理解してしまったら、おそらく人類はバベルの塔以来の大変な混乱に陥るのではないでしょうか。
 幸か不幸か、それを実験することは不可能ですが。
 
 同様に、私たち個々人は、それぞれ乏しい分野の知識しか持っていません。
 群盲象を評すの喩えがあるように、人類の知識全体という「象」に対して、私たち一人一人は汎用でもなんでもない、全くの「特化型知能」のように思えます。
 
 まあ、だからと言って、ワトソンが人間と同等の汎用性を持っているか、と言えば全然そうじゃないわけですけれども。
 とはいえ、
「今のAIは汎用知能じゃないから人類は安泰!」
 などと威張っていていいのかな、と思います。
 
 ただ単に人類に優越するだけなら、AIにとって汎用性なんてそれほど必要ないのかも知れません。
 

大阪市の教育統計と全国学力テストの話。

 なんか、大阪市が、全国学力・学習状況調査の結果を、校長・教員の給与に反映させるって言ってるらしいんですけど……。
 
 どう考えてもそれは不正の温床になると思うんですよ……。
 
 もちろん、あのテストは全国一斉に行われるものですから、問題などが外部に漏れないよう、学校に送られてきた用紙は厳重に梱包されています。
 
 しかし、実施するのは普通の教室で、試験監督は教員です。
 つまり、「教師は子どもに答えを教えたりしないだろう」という性善説的な前提の上に立って調査が行われているわけです。
 
 なんで過去10年ほどそれでやってこられたかというと、「成績を水増ししても教師の得にならない」からですね。
 いやまあ、自分が担当するクラスの成績が悪ければ、もちろん担任としてはプライドは傷つくのですが、成績を水増しすると、子どもたちの学力……というか、どんな分野が弱いのか、といった状況を正しく把握することができなくなり、指導に活かせなくなる、ということがあります。
 あのテスト、やるの一日がかりですし、実施学年以外も「テスト中だから授業も静かに。休み時間も騒がないように」とか、学校全体としてそれなりに負担です。
 不正をすれば、テスト結果が資料として無価値になり、その苦労が完全な徒労になってしまう、ということから、まあ公正にやっているわけです。
 
 しかし。
 テスト結果が校長や担任の給与に直結する、となると、事情はだいぶ変わってしまいます。
 なにしろ問題は事前に学校に届いてるわけですし。
 試験監督はだいたい担任ですし。
 
 大阪市の子どもたちをみんな別な会場に集めて、学校職員以外の誰かに試験監督をやらせれば、試験中の不正は防げるかも知れませんけど……。
 でも、この記事「大阪市長「学力テスト発言」が危険である根拠東洋経済オンライン)」で懸念されてるような、
「音楽や体育をつぶして、国語や算数の授業を増やす」
「過去問を宿題にする」
 といったことまでは防げないわけで……。
 
 というか、大阪市の教育が、民間人校長の登用などでかなりおかしなことになっている、というのはもうかなり前からですが。
 統計を見るだけでもすでにかなり不安なところがあって。
(以降の記事は「政府統計ポータルサイト」による)
 
 文科省による調査を見ると、大阪府では校内暴力の発生件数が1000人あたり8.2件。
 全国平均が4.4件ですから、ほぼ2倍です。
 
 一方で、いじめの認知件数は、全国平均では1000人あたり23.9件であるところ、大阪では19.0件と、2割くらい少ない。
 
 つまり、
「大阪の子どもは、暴力は振るうけどいじめ事件は起こさない(少なくとも認知はされない)」
 という現象が起きている。
平成25年には、大阪のいじめは全国平均の1/5くらいだったんですけど、今ではそれほど露骨ではなくなったようです)
 
 まあ……そういう子どもの特性なのかなー、と考えることもできますけど。
 
 また、長期欠席の統計を見てみましょう。
 全国平均では、長期欠席の児童は全体の2.07%です。
 一方大阪では、これが2.75%。
 
 つまり、大阪では、小中学生が長期欠席になる率が高い。
 
 ところが、大阪ではそのうち「不登校」とされているのは全体の56%弱で、全国平均の64%より低いのです。
 
 じゃあ何が多いのかというと「病欠」。
 全国では「病欠による長期欠席」は20.6%ですが、大阪ではこれが28.4%と高い。
 
 まとめると、
「大阪の子どもは、他所の子どもよりも長期欠席する率が高い。ただし不登校は全国平均より少なく、病気がやたら多い」
 ということになります。
 
 ……いや……これはさあ……。
 なんか現場に圧力かかってるんじゃないの? と思うんですけど。
 
 すでにこういうことが起きている……疑いがあるわけです。
 
 現場に不用意な圧力をかけると統計が改竄されて適切な政策決定ができなくなる、というのは、かつてソ連が歩み、あるいは日本が「働き方改革」で歩みつつある道なわけですが、大阪の教育もそれに追随しようというのかなあ、と感じます。
 
 ……ていうか、そもそも全国学力・学習状況調査って、時の文科省中山成彬氏が
「日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったのでそれを証明しようと思った」
 と言ってて、調査の結果全然関係ないことがわかったわけなので、無駄金使うのはとっととやめたらいいんじゃないかと思うんですけどね……。 
 

星の王子さまとファシズム。

星の王子さま」に登場するバオバブが、ファシズムの比喩である、という解釈があるのを最近知りました。

ネット上では多くの「星の王子さま」読者が指摘しているように、第二次世界大戦中に発表された同作中でバオバブは「星を壊す」ファシズムの象徴として描かれています。
 
「自称プラントハンターによる「星の王子さま バオバブの苗木」、大炎上により販売中止に」より

https://buzzap.jp/news/20180811-le-petit-prince-baobab2/

 でも、私はファシズム説には懐疑的です。
 
 まず、「バオバブファシズムである説」の根拠を挙げてみましょう。
 
・作者、サン・テグジュペリは、第二次大戦で自由フランス軍の一員として戦った、反ファシズムの闘士である。
・この物語は、「子どもの頃のレオン・ヴェルト」に捧げられている。レオン・ヴェルトは作者の友人で、ユダヤ人であるために当時フランスで身を潜めていた人物である。
・作中、抜くのを怠ったバオバブに占領されてしまった星、で描かれる「3本のバオバブ」は、日独伊の枢軸3ヶ国を表している。

 
 ……つまり作者が言う
「早いうちに芽を摘まないと惑星全体にはびこり、星を破裂させてしまう」
「子どもたちに声を大にして危険を伝えたい」
 バオバブとは、すなわちファシズムのことである……という解釈です。
 
 なるほど魅力的な解釈だとは思うんですけどね……。
 
 でも、私は違う気がします。
 
 理由を幾つか挙げます。
 
1・ファシズムにしては扱いが軽すぎる。
 
 読めばわかりますが、バオバブの話って、「星の王子さま」の最初の方でちょっと登場するだけのエピソードなんですよ。
 
 王子さまは毎朝自分の星を見回るのが日課で、それはおそろしいバオバブの芽が出ていないかを確かめるためでした。
 で、ある時、見慣れない植物が芽を出しているのを見つけました。
 新種のバオバブかもしれない、と思って注意深く見守っていた王子さまは、そこからすばらしく美しい花が咲くのを目の当たりにしたのです……というような話。
 このバラの花こそ、王子さまにとって唯一無二の、愛する相手になるんですけど。
 
 つまり、バオバブは、バラと出会った理由づけに過ぎないのです。
 
 作者は、フランスがナチと講和した後、なおアメリカに亡命してナチと戦った(そして命を落とした)人物です。
 なるほど、反ファシズムの闘士なのは確かでしょう。
 
 だから逆に言って、もし作者が本当にファシズムを意識して書いたなら、バオバブはもっと重要な役割を果たしてなきゃおかしいと思います。
 何しろ、本作のメインテーマは「愛とは何か」であり、バオバブはほとんど物語に出てこないわけですから。
 
2・ファシズムを扱いたいなら他に出すところがある。
 
 第10章からの、王子さまが色々な星を巡り、色々な「大人たち」に出会うところ。
 もし本当に作者があの作品でファシズムを扱いたかったなら、あそこにファシストが……「指導者」とか「将軍」とか「主席」とか「統領」とか「総統」とかそういう名前で……登場してしかるべきだと思います。
 あるいは、ファシストに盲従する大衆が。
 
 しかし実際には、あの一連の話にファシストの「大人」は登場しません。
 「王様」は登場しますが、彼はファシズム的な人物ではありません。
 なにしろ地の文で「とても善良な人」と明記されてるくらいです。
 王子さまから見るとおかしな人ではありますが、他人に無理な命令は出さないのがモットーなわけですから。
 
 実のところ、あの作品でもっともファシズムに近いのは、点灯夫だと思います。
 自転周期が変わって自分の休息時間がなくなったにもかかわらず、「毎日一回ガス灯を点灯・消灯せよ」という指示にひたすら従い続けているわけですから。
 でも彼は、作中で最も好意的に描かれている大人ですからね……。
 
3・バオバブは我々にとって危険な木ではない。
 
 言うまでもなく、バオバブはアフリカには自生していて、特に危険なものではありません。
 作者は、それをアフリカで見たことがあるわけです。
 
 作者は「子どもたち、バオバブに気をつけろ!」と書いていますが、それはあくまで「将来子どもたちが旅に出て、小惑星に迷い込んだら危険だから」と書いています。
 地球ではバオバブは危険ではないのです。
 
 それがファシズムの象徴である、とするのはおかしいでしょう。
 もし本当にファシズムの象徴として何かを描くなら、まだ地球には普遍的でない何か……未知の病原体だかトリフィドだか、そんなようなものとして描いたのではないかと思います。

「Giant Kudzuがいったんはびこってしまったら、それを根絶するのは難しいんだ。
 奴らは逆に、自分たちを邪魔するものをみんな絞め殺し、追い出してしまう」
「子どもたち、Giant Kudzuに気をつけるんだ!」
 ……こういう話ならまあ「ファシズムの象徴」と言っても差し支えないと思うんですけどね。(イルミナティカードが予言だとか陰謀だとかいう妄説に与するわけではありません。念のため)
 
 ブコメ引用。
自称プラントハンターによる「星の王子さま バオバブの苗木」、大炎上により販売中止に | BUZZAP!(バザップ!)

ところで自分がバオバブに親しんだアフリカ人だったら星の王子さま読んで怒る自信がある。

2018/08/12 10:20
 もし本当に「バオバブファシズム」という意図だったら、それはある種のバオバブ差別ですわな……。
 

とはいえ。

 もちろん、バオバブファシズムの隠喩でないとしても、ああいうバオバブの売り方が望ましいとは思いません。
 
 そもそもバオバブって(ネットで調べた限りでは)夏場は日当たりの良い外に出してやらねばならない一方、冬は気温が5度以下になると枯れてしまうという、観葉植物として気軽に育てるにはちょっとハードルの高い植物だと思います。
 ガーデニングだか盆栽だかの経験がある人が買うならともかく、経験のない人に気軽にバンバン売るのは、「ファインディング・ニモ」需要で売れたカクレクマノミとか、「ハリー・ポッター」で売れたフクロウの仔みたいに、かわいそうな末路を辿ることになると思います。
 
 ……でも、あの「プラントハンター」の人って、「世界一のクリスマスツリー」の時には、富山の山中に生えていた樹齢150年のあすなろの木をはるばる神戸まで植え替えたあげく、イベント終了後はバラしてバングルとして売りさばいたわけですからね……。
 キャッチコピーは「輝け、いのちの樹」。
 NHKスペシャルに出てた時は、「植物の生態を把握して、最適な環境で育てるよう配慮するプロ」みたいな扱いだったけど、実のところ植物を延命することにはあんまり興味がないのかも知れない。
 
 あとさあ、あの「小さなバオバブは旅に出た」で始まる中学生のポエムみたいな文章、あれまさか「星の王子さま」をイメージしてるわけじゃないですよね?
 どう考えても文体が別物なんですけど。
 

ところで。個人的な感想文。

 私、「星の王子さま」が児童文学だとはあんまり思えないんですよね……。
 
 私自身は小学生の時に初めて本作を読んだんですが、正直言ってよく意味がわからなかった。
 
 言葉の意味が難しいとかではなくて、
「なんでこんなに子どもを持ち上げるんだろう? そして大人を悪く言うんだろう?」
 というのが理解できなかったのです。
 
 あの「大蛇のスケッチ」、小学生の私だって「あー、これは帽子にしか見えないね」と思いましたもの。

 作者もその辺は巧妙で、
「大人たちに見せても、みんな『それは帽子だ』と言う」
 ……とは書いていますが、
「子どもに見せると『大蛇だ!』と言う」
 とは書いてないんですよね。
 
 だから、あれを一目見て「大蛇だ」と見抜いた唯一の人である王子さまは、感性が子どもなのではなくて、何か特殊能力を持った人なのだろう、としか思えませんでした。
 絵に描いた箱の中にヤギが見えることも含めて。
 
 そして、王子さまは、「王様」やら「のんべえ」やらに出会うたび、「大人っておかしいなあ」と言うわけですが、なにしろサンプルが偏っている。
 少数のサンプルで大人全体について語るのは差別であり政治的に正しくないと思います。
 
 ……というのは冗談にしても、何しろ子どものころの私が知っている「大人」と言えば、まず両親であり、それから先生です。
 
 どの人も王様ではないし、ビジネスマンでもないし(父は公務員なので)、地理学者でも点灯夫でもなく、ありがたいことにアル中でもなく、うぬぼれ屋でも(たぶん)なかったのです。
 だから王子さまが「大人って……」と言うたびに、「えー?」って感じでした。
 
 中学生になって再読して、ようやく作者の言わんとすることがわかったのですが、それによって
「ああ、自分はもう純粋な『子ども』ではなくなったんだなあ……」
 というささやかな悲しみを覚えました。
 
 あの本で書かれている「子ども」というのは実際の子どもではなく、大人が懐かしむ、センチメンタリズムとしての「子ども」なんですよね。
 そこに共感できる人間はもう子どもではない。
 
 だから私は、「人間はいつ大人になるのか」と問われたら、「『星の王子さま』が理解できるようになったら大人」と答えることにしています。
 

付近の住民は語る。

 犯罪が起き、その判決が下った時に、しばしば「被害者/遺族には納得できない思いが云々」って話があります。
 
 しかし私が常々思うのは、犯罪の量刑に被害者やその親族・遺族の心情を酌量すべきでない、ということです。
 だって客観的な意見ではないに決まってるわけですから。
 
 例えば、昔、私がバッグを置き引きされたとき(現金はほとんど入ってなかったけれど、個人的に大事なノートとかが入っていた)、犯人が交通事故か何かで死んで欲しいと思いましたし。
 奧さんが(まだ結婚する前だったけど)痴漢に遭った話を聞いたときには、そいつが目の前にいたらホームから突き落としてやりたいと心底思いました。
 
 ……でも、じゃあ、置き引きは死刑、痴漢も死刑、というのが量刑として妥当か、といえば、まあ明らかにそうではない。
 
 だから、被害者やその親族が厳罰を望むのは人間として当然だし、それを非難することはもちろんできないのだけれど、しかし社会の側がそれに巻き込まれてはならない、ということなのです。
 刑罰の目的は、復讐ではないのですから。
 
 つまり何が言いたいかというと、私は低能先生を憎んでいるのです。
 彼が生涯娑婆を歩くことがありませんように。
 
 ……客観的に見れば、
低能先生自閉症スペクトラム障碍の疑いがあるのではないか。彼を包摂できなかった社会の側にも問題がある」
 といった話になろうかと思います。*1
 
 しかしそんなの糞食らえなのです。
 
 私は、別に殺されたhagex氏と知り合いだったわけではありません。ブログの読者だったわけですらありません。
(ブログ記事を30件くらいブクマしていたけど、それはたまたま流れてきたのを読んだだけで)
 
 しかしそれでも、「はてな村の有名人」として知ってはいたし、共感するところもあったわけで。
(そしてまた、私自身、度々低能先生から罵倒のidコールを受け取っていたわけで……。個人的には、通報を受けてアカウントをBANしていたはてなの対応が間違っていたとは思えません)
 私や、あるいは名のある…そして私同様に名もないはてなの人々が、hagex氏の死を悼み、低能先生を憎むのは、あるいは客観的には……政治的には正しくないかも知れないですが、今は許されるのではないかと思います。
 
 いや、hagex氏と親しかったけれど、それでも低能先生に慈悲の目を向けるような聖人がいるなら、それはそれで尊いことだとは思いますが。
 ただ、私以上によく知らないのに「殺される方にも落ち度があったんだろう」とかいう意見には私的な憤りを覚えます。
 
 一はてな民として、心よりhagex氏の死を惜しみ、哀悼の意を表します。
 

*1:全くの余談ながら、レイシストネット右翼が社会生活に問題を抱えている、といった話を聞くと、「社会的包摂が必要」と私は思います。
 ネオナチの若者が福祉施設でのボランティアを経験して、高齢者に感謝されたり仲間と協力し合ったりしたら、ネオナチから足を洗った、などという話もあり。
 そういうのが理想だ、という思いはあります。客観的には。

TOWNが幻想入り。

*オタクの話なので意味がわからない人はすみません。
 
 ウチのクラスに、YouTube東方Projectの動画を熱心に見ている女の子がいます。
 
K村「東方の動画……ってどんなの見るの」
「ゲーム実況とか……色々です。先生はYouTube見ないんですか」
K村「どっちかというとニコニコ動画の方を見ます」
「えー? だってニコニコはコメント入るじゃないですか。コメントが邪魔で動画が見えませんよ」
K村「……ぐうの音も出ない……!」
 
 タブレットで動画を見る層にとってはコメントなんて邪魔なだけですからね……。
 
 どこで買うのか下敷きは東方の絵だし、ペンケースにもキャラの缶バッジが。
 誕生日プレゼントに東方のコミックを買ってもらったとか。
 
 ……わりとスッとした美人なのに、小学4年でもうオタク女子だなんてかわいそう……。(偏見)
 
「東方のゲームもやってますよ。先生はやってないんですか?」
K村「いや……シューティングは得意でないので……」
「私がやってるのもシューティングじゃないですよ」
K村「えっ」
 
 どんなゲームなのかまで詳しく聞かなかったけどなんだろう……対戦格闘とかだろうか。
不思議の幻想郷TOD -RELOADED- - PS Vita(これはローグライク系らしい)
 
「東方の曲って知ってますか?」
K村「曲名はわからないけど、聞けばそれっぽいのはわかるかなあ。この間のお昼のBGMで、隣のクラスの子がリクエストした曲、あれ東方の曲だと思うんだけど」
「そうですよー。他にもいろんな曲がありますよ。てってってーとか」
K村「『てってってー』は東方じゃないです」
「え……でも東方実況で……」
K村「でも東方の曲じゃないです」
 
 ……私ももう老害オタクになってしまったのだろうか……。
 

東方の曲(左)は特徴的なのでなんとなくわかる……気がする。
「てってってー」は右側。まあどっちもゲームのBGMなんです……けど……。
 

リンゴとミカンは本質的に平等である。

 リンゴとミカンという2種類の果物があります。*1
 
 一般的に言って、リンゴとミカンには色々な違いがあります。*2
 
 しかし、そのような相違点は決して両者の優劣を決めるものではありません。
 リンゴとミカンは本質的に平等であり、両者に上下はない、ということには、どなたも同意されると思います……理念としては。
 
 しかしこの理念が、現実には機能していない……というのが、近年の問題なのは、よく知られたことだと思います。
 

初期の議論のまとめ

 
 リンゴ・ミカンの間に差別が存在している、として、両者が待遇の是正、平等な取り扱いを求めるようになったのは、比較的近年……日本においては、国産リンゴの生産が広まった明治以降のことです。
 
 このような、リンゴ・ミカンの訴えに対して、かつては、市場経済の下、対等な条件で販売すれば平等が実現されるだろう……というプリミティブな主張が支配的でした。
 
 しかし、第二次大戦やバブル崩壊を経た現在、作付面積・出荷量ともに、リンゴはミカンより少なくなってしまっているのが現実です。(農水省資料:http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/sakumotu/sakkyou_kazyu/index.html#r
 結局のところ、競争は常に格差の拡大を招くのであり、「競争によって平等な取り扱いが実現される」などというのは、市場原理主義者のマッチョイズムに過ぎなかったわけです。
 
 そこで、この問題を解決するためには、取扱量が平等になるような政府補助……アファーマティブ・アクションの導入が必要だ、というのが、リンゴ側の主張です。
 
 一方のミカン側は、リンゴがアップルパイ・リンゴジャムなどの形で幅広く用いられているのに比べ、ミカンは活躍の場が限られている、と指摘し、特に製菓材料分野での採用拡大と、そのための啓発活動の充実を訴えています。
 
 ひるがえってリンゴ側は、「こたつにミカン」に象徴されるような、「人間に身近な果物」としての扱いがリンゴにもなされるべきだ、と唱えています。
 

現在の状況

 
 このようにして、リンゴ・ミカンが平等に扱われる社会を目指す取り組みがようやく始まったのですが、様々な困難も表面化しています。
 
 リンゴ側においては、「平等な取り扱い」とは、出荷重量を規準とするのか販売額を規準とするのか、それとも作付面積か、という議論があり、意見が分かれています。
 
 さらに、
「出荷重量で比べるのは良いが、より厳密に、可食部分の重量で比較すべき」
「販売額で比較する場合、補助金で価格が下がる分はどう扱うのか」
「重量当たり価格が安いのは望ましいことなのか」
 等々、りんご内にも様々な主張があり、意見はまとまっていません。
 
 また、
「リンゴはミカンに比べ輸入量が多い。輸入リンゴを計算に入れるとミカンより少ないとは言えないのではないか」
 という指摘に対する
「中国産をリンゴに含めるべきではない」
 というコメントが、排外主義的だとして炎上した事件も記憶に新しいところです。
 
 同様にミカン側でも、
ママレードはむしろリンゴジャムより一般的なのでは」
「オレンジはみかんと違う」
 というやりとりが、オレンジ差別だとして批判の対象になっています。
 
 また、「こたつにリンゴ」運動では、ノーマライゼーションの観点から、手軽にリンゴの皮をむいて芯をくりぬくことのできるリンゴ皮むき器が開発されましたが、コスト等の問題で普及は進んでいません。
 
 さらに、
鏡餅の上に乗せるのがみかんだけなのは差別」
「あれは橙では」
「橙はみかんの仲間ではないというのか」
「普通サイズの鏡餅にリンゴを乗せたら見た目のバランスが悪い」
「外見で差別するのか」
「和リンゴでよいのでは」
「そもそも国産リンゴというなら和リンゴであるべき」
 といった、宗教上のシンボルをどう扱うか、といった議論も存在しています。
 

まとめ

 
 以上のように、何をもって「平等な取り扱い」と見なし、それをいかに実現していくか……という点で、コンセンサスが得られていないのが、リンゴ・ミカン問題の現状です。
 しかし、私たちは忘れてはいけません。
 
 リンゴとミカンは本質的に平等だということを。
 

*1:もちろん、世界にはそれ以外に多様な果物があるわけで、果物多様性を否定するわけではありません。

*2:もちろん、あくまで平均的な傾向に違いがある、という話で、個体差が非常に大きいことを否定するわけではありません。

ウチのクラスのいじめ・不登校の事例報告(その2)

 昨日の記事「ウチのクラスのいじめ・不登校の事例報告(その1)」の続き。
 
 今回で終わりにしようと思ったけど、前年度までのことを書いていたら長くなってしまったので、4年生になってからのことはまた別の記事にします。すみません。
 

B児の紹介

 昨年度から不登校気味になった……そして今も不登校であるB児(男児)について。
 
 入学当初から、とても真面目な子でした。
 学力的にはそこそこですが、授業中はいつも良い姿勢で集中して話を聞いており、話し方もきちんとしていました。
 
 むしろきちんとしすぎていて、
「大丈夫かこの子。何か無理してるんじゃないのか?」
 と心配になるくらいでした。
 
 ……だから、まあ、心配はあるにはあったのですが……。
 とはいえ、その意味で「全く心配のない子」というのは存在しないので。
(いつも授業中に机の上で消しゴム転がすのに夢中なC児とか、1年生で「わたしの机に誰かが悪口を落書きしました」事件を自作自演したD児とか、2年生になっても「新幹線」を「ちんかんてん」と発音する上に作文でもそう書いてるE児とか……)
 もっと心配な子は他にいる、という感じでした。
 
 そんな彼ですが、低学年で担任していて気になったトラブルが2つあります。
 どちらも、いささか不可解なものでした。
 

1年生の時のトラブル

 
 ある日、連絡帳に母親から
「隣の席の子が授業中に騒いで勉強を邪魔したり、足を蹴飛ばしたりしてくるので学校が嫌だと家で泣いています。対応をお願いします」
 と書かれてきました。
 
 しかし何しろ授業中の話です。
 そんな騒いでりゃ気付くだろ。
 
 隣の席のF児は……まあ「肝っ玉母さん」みたいな感じの子です。
 確かに声は大きいけど、授業中騒いだり、こっそり嫌がらせをしたりする感じの子ではない。
 
 とはいえ自分の観察力が乏しいのには自信があるので、副担任と、それから算数の時間だけ補助に入っていた教頭(つまり算数は3人体制で授業だった)にも相談、近くの席の子にも話を聞きました。
 しかし、やはり
「F児はそんなに騒いでない」
「足を蹴ったのは見たことがない」
 という点で一致しました。
 
 事情を聞かれたB児自身は「そういうことがあった」と言うものの、F児は心底びっくりした様子で「そんなことしてません」。
 周囲の席の児童も首をかしげるばかり。
 
K村「そもそもF児って、B児に意地悪するほど嫌いでも好きでもないと思うんですけど」
副担任「ですよねー。そもそもあんまり関係性がないというか……」
教頭「まあ、B君はちょっと感受性の強いところがあるから、何かちょっとしたことが気になったのかもね。
 ちょっとFちゃんが呟いただけでも集中できないとか。
 Fちゃんが足ぶらぶらしてたのがぶつかった、くらいのことはあったのかも」
K村「そうかも知れませんね……」
教頭「B君も、きっとかわいがって欲しいんじゃないの?」
 
 ともあれ、母親が「家で泣いている」と言うなら確かに泣いているのでしょうから、それは対応しなければならない。
 とにかく席替えをすることにして、B児は教室の一番後ろ、副担任の隣の席に移動して目を掛けてもらうことにしました。
 
 しばらく後に
K村「最近はどう? 意地悪されたりしない?」
B児「はい、大丈夫です」
K村「そう……。でも、そんな嫌なことがあったら、まず先生にも教えてね」
B児「はい」
 というやりとりがあり、保護者からもその件についてはその後連絡はありませんでした……その年は。
 

2年生の時のトラブル

 
 ある日、鬼ごっこの時に、
「先生、みんなが、ぼくが足がおそいのでバカにしてきます」
 と、ぽろぽろ涙をこぼしながら訴えてきました。
 
 しかし何しろ体育の授業中で、私も副担任も一緒にいる中でのことです。
 そんな意地悪されてりゃ気付くだろさすがに。
 どういうことなんだ。
 
 よくよく話を聞くと、鬼になった時に、周りの子が
「へいへい、こっちだぜ!」
 とか囃すのを
「足が遅いのでバカにされた」
 と認識した模様。
 
K村「そう……なるほどわかりました。じゃあ、ちょっと気持ちが落ち着くまで、先生と一緒にここでみんなの鬼ごっこ見てようか」
B児「はい」
K村「……それで、ちょっと見てごらん。『ここまでおいで』とか、鬼になった人はみんな言われてるよね?」
B児「言われてます」
K村「だからそれは……B君が嫌だったのはわかったけど、きっと、別にB君が特に足が遅いからバカにして言ったわけじゃないんじゃないかなあ」
B児「はい」
K村「B君、別にそんな足遅くないもんね? (運動能力も中の下くらいでした)」
B児「はい」
K村「どうする? ここで見学しててもいいし、またみんなと鬼ごっこしてきてもいいけど」
B児「やってきます」
 
 B児はそんな子です。
 それが、3年生になるや否や不登校になってしまったのです。
 

3年生の時のトラブル

 
 これは、当時担任だったN先生から聞いた話ですが。
 
 保護者(母親)から連絡帳で、
「ウチの子が学校で石をぶつけられたと言っている。どういうことなのか。危険ではないのか。きちんと対応して欲しい」
 という連絡があり。
 
 本人や、「ぶつけた」と名指しされた子(ちなみに消しゴムコロコロのC児)、周囲で遊んでいたという子どもたちに事情聴取したところ、要するに
「C児が休み時間に走っていて方向転換したら、小石が跳ねてB児の足にぶつかった」
 という話だった模様。
 
N先生「そうかー、じゃあわざとじゃなかったんだね?」
C児「はい」
N先生「B君、C君はわざとじゃなかったんだって。それは納得した?」
B児「はい」
N先生「でも、わざとじゃなくても石がぶつかったら痛いよね? C君はちゃんと謝った方がいいね」
C児「うん、B君、石ぶつかってごめんね」
B児「いいよ」
N先生「じゃあ、仲直りして、これからも仲良く、気をつけて遊んでね」
B・C児「はい」
 
 ……ところがこれが、B児の母親から
「学校はいじめの事実を認めようとしない」
「石をぶつけた子の肩を持っている」
 という激烈な反応を招くことになり。
 
 なんやかんやあってB児は休みがちになり、不登校保健室登校を行ったり来たりするようになりました。
 
 N先生としても色々配慮し、例えば遠足の時には班をどうするかB児の母親に相談したところ、
「この子とこの子とこの子とこの子とこの子とこの子とこの子とは一緒の班にしないで欲しい」
 というリストをメールで送られて頭を抱え、それでもなんとか班を編制して連絡したところ、
「この子とも一緒の班は嫌だとウチの子が言っている」
 というメールが来て再び頭を抱え……といったことがあったようです。
 
 そして肝心の4年生ですが……。
 いい加減長くなったので続きは別記事にします。