火星の土地を買おう!

栃木県馬頭町には、「共墾社」という交差点があります。
なんですかそれ。
 
これは、明治時代、那須野が原開拓を行った団体の一つの名前なのです。
 
那須野が原開拓、那須疎水の話は、社会の教科書にも載っています。
 
現在、那須塩原市のあるあたり、那須野が原は、かつては果てしなく茅が生い茂る荒れ地でした。
土地は砂と砂利。
 
水を汲むには4kmほど水桶を担いでいかねばならず。
畑に水をまいても、たちまちしみこんでしまう。
 
種をまいても、強風でたちまち飛ばされてしまう。
 
そんな土地だったのです。
 
この状況をなんとかしようとしたのが、矢板武と印南丈作でした。
 
二人は、那須開墾社を設立し、私費を投じて農業用水路である那須疎水の建設を開始。
さらに、政府への陳情を繰り返し、那須疎水建設を国家事業として認定されます。
 
政府の後援を受けた那須疎水建設は、地元住人の協力も得て急ピッチで進み、何度も拡張・改修工事を経て、現在もなお、日本三大疎水の一つとして、上水道の水源に活用されています。
 
明治時代に作られた水路ですが、長い地下水路を通り、固い岩盤を掘り抜き、涸れ川(普段は石がごろごろしているだけだが、雨の時には川が現れるので、水路を作れない)の下をサイホンでくぐり抜けるなど、昔の人の工夫が随所に見られます。
 
これだけの大工事が、機械を使わず、わずか3ヶ月で成し遂げられた(第一期工事)というところに、いかに当時水が大切だったかが現れていると言えるでしょう。
 
……というのが、教科書に載っている話。
 
「じまんできる先人をさがそう」という、郷土学習の単元ですね。
 
社会科は、学校周辺について調べることから始まって、地元の町、地元の県、そして日本から世界へと学習の範囲を広げていきます。
 
だから、この那須野が原開拓の話は一つの例であって、実際に勉強する時には、那須塩原ではない地元の偉人について調べねばなりません。
……でも、業者テストは那須疎水についての問題だったりするどうにもならない問題もあるんですが。
 
さて。
 
ところで、この、矢板武と印南丈作とは、一体何者だったのでしょうか。
 
私費で疎水建設を始めたことから考えて、「地元の有力者」であったことは、すぐにわかります。
那須開墾社」の代表であったことも。
 
那須開墾社は、那須野が原の開拓を請け負った団体です。
 
明治の始め、殖産興業・富国強兵政策を推進する新政府より、那須野が原の原野3000haを借り受け、「新天地那須野が原で一旗揚げよう」と、大々的に広告を打ったのです。
 
その謳い文句に惹かれてやって来たのは、故郷では将来に希望を持てない、地方の農家の三男坊・四男坊たちとその妻子でした。
 
開拓生活は過酷でした。
 
当時の開拓者の言葉があります。(那須野が原博物館で配布していた資料より抜粋。改行は後から加えました)

(前略)生活の場は定めたがまず水がない、米もそして買うお金も無い。
水はどこかと聞けば、四キロも先の川へ汲みに行くのだという。
 
生活は寸時も待たない。
子供たちは腹を空かしている。
 
女は炭俵を編む。
男は出仕事をする。
畑の開墾は月の明かりでやった。
 
編んだ炭俵は十五キロも遠く離れた所へ、早朝まだ夜の明けやらぬうちに、荷車に満載して売りに行く。
目的地へ着く頃東の空がしらしらと明けてくる。
炭俵を売って得たお金で帰りに米を買う。
これは今日皆で食べる米だ。

まあ、開拓者の苦労というのはもちろんあるのですが。
 
次の部分。

開墾社へは力役人夫の義務を勤めなければ、夢にまで見た土地が貰えない。
力役に出れば明日食べる米を買うことができない。
力役は土地を貰うかわりに開墾社へ収めるものであり、賃金は一銭も貰えないからである。

つまりあれです。
 
開墾社は、政府から借りた土地で貧乏人を働かせ、しかも賃金を払わなかったわけです。
払うどころか、「開墾社が所有する土地」をきっちり自分たちで囲い込んで、そこを耕すのは、広告に釣られてやってきた貧乏人にやらせていたのです。

一日を夢中で働きぐったりと萎えた五体を、掘立小屋の土間に敷いた藁の上へ倒れるように横たえるとき、「こんな所へ来るんじゃなかった」とはげしく後悔するのである。
故郷のことを思えば矢も楯もたまらず帰りたくなる、がしかしその旅費ももはや無く、いつかできるというあてさえもない。

もちろん、疎水建設には彼らも駆り出されたことは言うまでもありません。
 
当時、那須野が原開拓を行っていたのは、那須開墾社や共墾社、毛利農場、漸進社など、大小十以上の団体でした。
那須開墾社はその最大手であったに過ぎず、ライバルはたくさんいたのです。
 
そもそも、那須疎水自体、当初の計画では農業用水ではありませんでした。
 
測量を開始した時点では、それは運河計画だったのです。
 
那須地域と東京とを運河で結び、物流によって利潤を得る。
それが、矢板武と印南丈作の計画でした。
 
しかし、明治時代、文明開化が進むにつれ、運河が廃れ、物流の主力が鉄道に移っていくことは、事業的先見性に優れた二人には明らかでした。
 
そこで二人が考えたのが、農業用水としての那須疎水だったのです。
 
そして、政府の後援。
 
もちろん、資金援助もありました。
そして、人的支援も。
 
囚人労働です。
 
動員された囚人たちは、最も危険な箇所の工事(長い地下水路を作ったり、岩盤を堀抜いたり、涸れ川の下に水路を通したり)に投入され、少なからぬ数が落盤事故などで死んでいきました。
 
そういった、犠牲を厭わぬ突貫工事の結果、わずか3ヶ月で工事を成し遂げることができた(第一期工事)のです。
 
もっとも、一期工事の終了後も、取水権などを巡って争いがあったわけですが。
(上流の入植者が、農業だけでなく生活用水にも使ってしまうため、下流で水が無くなってしまうなど。……まあ、当然のような気もしますが)
 
……じまんできる先人を探すのは、実は大変なのです。
 
とりあえず教訓。
 
「新天地で希望をつかもう!」みたいなスローガンには絶対乗るな。
 
大抵、地獄のような目に遭うことになります。
 
那須野が原しかり北海道しかり満州しかりブラジルしかり北朝鮮しかり。
聞いて極楽見て地獄。
 
もし、「月面開拓移民」「火星で稼いで一旗揚げよう!」みたいなプロジェクトが持ち上がっても、絶対乗らないこと。
 
フロンティアスピリットなんかアメリカンな人々に任せて、我々は島国根性に徹するのですよ。