自称と尊称。

そもそも威厳というものに縁がない私。
まあ、忘れ物が多い上に、授業で腹話術人形を持ち出したり鼻眼鏡を掛けて教室に入ったりすればそんな感じになります。
 
「オホン。私の名前はカンジー博士」
「K村先生に声がそっくりだよー!」
「よくそう言われます」
「服もいっしょだよー!」
「たまたまです」
 
さすがに2年生でもだまされませんでした。
 
それはともかく。
 
畏れられていない先生にありがちなことに、どこに行ってもあだ名で呼ばれます。
 
「Kティー」「K担」「Kちゃん」「Kち」その他。
(「K」には、苗字の最初二文字が入ると思われたく)
 
A児「Kちゃーん」
K村「……担任をちゃん付けで呼ぶ人がありますか」
A児「だって、お母さんがそう呼んでるんだよ」
 
…………。
 
保護者会とかの時は「K村先生」って呼んでるのにな。
 
……面と向かって「Kティー」とか呼ぶ人もいるけど。
 
K村「校長先生だって、他の先生を呼ぶ時は『〜〜先生』と呼ぶんだよ。だから、ちゃんと『先生』と呼ぶようにね」
 
実は嘘。
前任校の校長は「Kちゃん」とか呼んでました。
(たまにだけど)
 
うーん。
 
私、自分のことを「先生」とは呼ばない派なんです。
 
自分に対して敬語を使うように、という指導って、精神的に大変やりづらく。
敬語は敬意の表れで、敬意は要求するものではない、と思うからなんですが。
 
尊敬されるほどの力量もないのを自覚しているだけに、なんとも。
 
ただ、それはそれとして、目上の人への正しい言葉遣いができるようにする、というトレーニングもやっぱり必要なわけで。
 
それができていないと、普段はわいわいがやがややっているのに、社会科見学とかで知らない年上の人に出会うと「礼儀正しい振る舞い」というのがどんなものかわからず、他クラスの子どもたちが活発かつ礼儀正しく質問するのを横目にただただ黙りこくってしまう、という事態になるわけです。(苦い経験)
 
この辺り、自分の心の中で決着を付けないとならない問題の一つだな、と思っています。
 
ちょっと話が変わります。
私は、個人的には、自分が保護者から面と向かってあだ名で呼ばれるのは仕方ないと思いますし、特に不愉快にも思いません(保護者より年下ですし)。
 
でも、子どもの前であだ名で呼ばれるのはちょっと困ります。
 
「教師は子どもを指導する立場にある人だ」というのは常に事実です。
ところが、「教師は子どもを指導する力量がある人だ」というのは、常に事実とは限りません。
 
ていうか自分のことだ。
 
しかし、子どもが担任の言うことを聞かないと学級が成り立ちません。
それがどれほど力量の足りていない教師でも、ひとまず子どもには担任の指示に従ってもらわないと、学級は崩壊し、学習指導とか生活指導とかいう以前に、そもそも学校に来る意味がない状況に陥ります。
 
無政府状態よりは失政の方がマシ、というレベルですが。
 
黙っていても子どもが付いてくるだけの力量が教師にあればいいのですが、そうではない場合は、「先生は偉いので、先生の言うことは聞いた方がいい」という、幻想に頼るしかないわけです。悲しいことですが。
この幻想は師範学校時代までに築かれたもので、戦後は薄れ行く一方ですが。
 
だから、保護者の方に願うこととしては、たとえ心の中で「あの先生は仕方ないなあ」と思っていても、子どもには「先生の言うことは良く聞きなさい」……と言って欲しいわけです。
学校の不満を口にするな、とは全然言わないんですが、どうせ言うならぜひ直接ぶつけて欲しいです。
まあ、保護者にとっては子どもの方が身近だし、子どもの担任に不満を言いづらいのもわからないではないですが、私個人に限って言えば、自分の至らない点に自分で気付いていないケースが多いので、ぜひはっきり言って欲しいです。
へこむけど。
 
「そのような幻想に頼るのは間違っている。子どもの尊敬を勝ち得るだけの力量を身に付けるのが先決だ」
……というのは全くの正論で、自分で書いてて耳が痛いんですが、それだけの力量を身に付けるには、一定の人生経験が必要だと思いますし、その一方で、人間誰しも最初はぺいぺいの新人からスタートするわけですから。
そう考えると、力量がないのに教壇に立つ人間がいなくなることはない、というのが現実なんじゃないでしょうか。
 
だから、最初のうちは、「とりあえず先生は偉い」幻想にすがって指導する、というのはやむを得ないことなんじゃないか、と思います。
そして、子どものその幻想を打ち壊すのは、もっと子どもが大きくなってからでいいのではないかと。
 
結論:
とりあえず、鼻眼鏡をしたら偉そうには見えない。

 
……腹話術人形は、明日学校に持って行くんですが。