愛国心教育について(2.5)付記。

民主主義は、最悪の社会制度である。
 
……ただし、これまで人類が試したそれ以外の制度を除けば。
 
ウィンストン・チャーチル(元イギリス首相)〜

前回はこちら。
第1回:http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060312
第2回:http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060322

前回の流れからすると、
 
愛国心教育のデメリット
愛国心に依らずして公共心を育む方策
 
を書かねばなりません。
 
個人的には自明のことのような気もするんですが。
 
愛国心」とは、
「自国を愛する気持ち」
です。
 
逆に考えると、これは
「他国を自国よりも愛さない気持ち」
です。
 
「私は我が子を愛しているが、他の子も同じくらい愛している」
なんて人はいないと思います。
 
いやまあ、保護者の方には子どもを愛してもらわないと困るのですが。
 
ただ、愛が昂じて、我が子の欠点が見えない保護者の方が時々いて、学校では対応に困ります。
あと、我が子かわいさのあまり、他の子のことを顧みない人とか。
 
学校はあなたの子どもだけのためにあるんじゃありません。
 
「なんでうちの子が主役になれないんですか!」
とか、
「うちの子はやってないと言っているからやっていません!」
とか。*1
 
そういうタイプの愛を国に対して抱くと、やっぱりまずいと思うのです。
 
しかし、なんでだかよくわからないのですが、日本における「愛国心」というのは、おおむね「日本は素晴らしい国だ」という見解とセットになっています。
 
もちろん、良いところもたくさんあるのは事実ですが、悪いところもたくさんあります。
それらを総合的に見て素晴らしいかどうかは個人が判断することであって、そういう結論を他人が押しつけるのは間違っています。
 
特に、学校で子どもたちに教え込むのは。
 
教員は、子どもに対して愛情を持つべきだと教育されます。
しかしそれは「教育的愛情」であって、子どもの長所を認めつつ、短所もきちんと把握し、それによって、子どもが自分の良い点を伸ばし、足りない点を克服していけるよう支援しようという気持ちのことです。
 
ところが、我が国の良いところを認めつつ、悪い点もきちんと把握し云々、という主張が「愛国的」だと見なされることはあんまりありません。
とりわけ、「過去の過ちを率直に反省し」みたいな言いぐさは、非愛国的言動と見なされるのが昨今の風潮であるらしく。
 
しかし、「うちの子は悪くありません的愛国心」が国内を席捲してしまったら、社会制度をよりよいものにしようとかいった運動がどこから生まれてくるのかと思います。
 
アメリカの一大汚職事件、ティーポットドーム事件で、すでに死亡していたハーディング大統領に疑惑が持ち上がった時、国民の多くは故ハーディングに好意的で、それどころか、不正をやたらに暴くことは、政府の信用を失墜させる、非愛国的な行為だ、という意見さえありました。
 
そんな愛国心はいらん。
 
それに、やっぱり、「他国をより愛さない」というのが昂じて、他国を軽んじる自称「愛国者」が多いのも困りものです。
 
ていうか、いわゆる愛国的な人で、他国をちゃんと尊重する人にあまり心当たりがないんですが。
 
他国民が自国を誹謗し、彼らの利益のためにこちらの利益を侵害するようなことをすれば腹が立つのですから、こちらが逆のこともするのもやっぱりまずいわけでしょう。
国民が協力して、国を愛し、国のために働くのが有益であるとすれば、全人類が協力して、全人類を愛し、全人類のために働くのはもっと有益なはずじゃないでしょうか。
 
それゆえ、私としては、愛国心、国家の利益を公共心の基礎として教育を行うより、人類愛、人類全体の利益をそれに代えた方が有益だと思っています。
陳腐な結論で申し訳ない。
 
「人類愛」とか「地球市民」とか言葉にやたら軽蔑の目を向ける愛国的な人がいて、どうにも理解に苦しみます。
陳腐だから軽蔑されるんでしょうか。
 
「個人が愛することができるのは国が限界で、全人類では広すぎる」
という意見もあります。
 
確かに、「人類」というのは大変広い対象です。
 
世界の総人口は日本の総人口の約50倍です。
 
ですが、だからって人類を愛するのが国を愛することの約50倍困難なわけではありません。
 
でなければ、人口の多い地域で郷土愛を抱くのは、過疎地より難しいことになりますが、そんなことはないはずです。
 
そもそも、前回触れた「人命尊重」というのは、「全人類の人命の尊重」ということであって、人類全体を尊重しよう、というところに当然つながるものだと思います。
 
そんなわけで、人類愛教育の推進を!
教育基本法に、人類愛の明記を!
 
……っていうか、もう前文に(ちょっとだけど)書いてあるから、改正しなくていいです。
 
続きもあるんですが、内容が「公共心を教える教育課程について考える」なので、教育の系統性とか細かいことに興味がない人はつまらないと思います。
(ここまでの文章が面白いかどうかはさておき)
 
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060406
 
(以下わりと余談)
 
上のごとく書きましたが、人類愛が困難なのは、確かに事実だと思います。
 
ですが、それは、「人類全体」が広すぎるから、というより、おそらく、「他者」が存在しないからではないかな、と思います。
 
郷土愛においては、お国自慢をすることができます。
愛国心では、(前述の通り)自国は他国より優れている、と自慢することができます。
 
しかし、人類愛においては、それがありません。
 
「我が郷土は文化的だ(それ故に、自分も文化的だ)」
「日本人は優れている(それ故に、自分も優れている)」
 
みたいに、その人のアイデンティティ、自尊心を支えてくれる力が弱いのだと思います。
 
それが、「人類愛教育」のデメリットかも知れません。
 
しかし思うに、たとえ日本が素晴らしい国であるとしても、ある特定の日本人が必ず優れているとは限りません。
 
もちろん、人は、自分の生まれ育った文化的背景と深くつながっていますが、その人が優れているということは、その文化が優れているかどうかとは無関係で、その人自身が証明しなければならないことです。
 
仮に、人類愛を培うことが、愛国心より困難であるとしても、それだけのメリットがある、と私は思います。

*1:じゃあ、そう言う自分が子どもの時は、悪いことをした時なんでも親に話す正直な子どもだったんですか。