僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より。
前回はこちら。
第1回:http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060312
第2回:http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060322
第2.5回:http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060405
「公共心」は道徳の基盤であり、それは、究極的には人々のために自分を(ある程度)犠牲にすることです。
公共心は人類にとって不可欠なものなので、学校教育の場でもそれを涵養する必要があります。
しかしながら、私は、長いこと、それに落ち着かない思いを覚えていました。
(問1)以下の主張の誤りを指摘しなさい。
- 人間は、時には、大勢の人のために自分を犠牲にしなければならないこともある。(前回の「おかし」のように)
- それゆえ、学校教育の中でもそのような心情を培う必要がある。
- 皆を守るために己を犠牲にする潔さ、といえば、我が国には、教材となり得る優れた先人たちがいる。
- 言うまでもなく、特攻隊員こそ自己犠牲精神の究極的発露であり、我が国体の精華なのであります!
もう少し穏当な言葉で書くと、
- 公共心とは、とどのつまり「みんなのために自分が犠牲になる」ということで、これは人類社会にとって必要不可欠なものである。
- そして、公共心はなかなか自然に身につくものではないので、学校でも教える必要がある。
- だが、公教育で「みんなのために自分を犠牲にせよ」と教えることは、我が国の全体主義化につながるのではないか。
1と2については、どうしてもそれが誤りだとは思えず。
しかし、3の懸念も捨てきれず。
このため、「公共心」について教室でどう取り扱ったらいいのか、自分なりの考えを持てずにいたのです。
しかし、今回、あれこれ考えてみて、一応の結論を得たように思います。
つまるところ、これまで私は、
「みんなのために犠牲になることは尊い」→「それゆえ、国のために犠牲になることは尊い」
……という主張には論理的飛躍が含まれている、ということに気付いていなかったのです。
この主張は、「みんな」=「国(もしくは自国民)」である、ということを前提にしています。
しかし、「みんな」というのが具体的に何であるか(何であることが望ましいか)は、考え方によって様々でしょう。
ある人は、人間が守るべき「みんな」とは、「国」よりも狭い範囲だと考えるかも知れません。
「家族・友人の幸せや、地域社会の発展のために尽くすのが、人のあるべき姿だ」
と。
また別の人は、それよりも広い範囲、人類全体こそ「みんな」だと考えるかも知れません。
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」
ですが、例えば「国防上の必要性」の前には、温かな地域社会も美しい郷土も犠牲にされることがある、ということは、歴史上の事例が証明しています。
ナポレオン遠征下におけるロシアしかり、第二次大戦末期のドイツしかり、同じく太平洋戦争末期の沖縄しかり。
そしてまた、「国防」とは、しばしば、自国を守るために他国民を犠牲にすることではないでしょうか。
「みんな」が何であるかが様々なのに、「国を守ること」すなわち「みんなを守ること」である、というのはおかしな話です。
教師は、
「みんなのために犠牲になることも、時には必要であり、それは尊いことだ」
と、子どもの前で語ることは許されると思います。
しかし、その「みんな」が、すなわち国家である、と限定するかどうかは、子どもたち一人一人がこれから考えるべきことであって、教師が教え込むことではないと思います。
続いて第二問。
もうちょっと範囲の狭い話になりますが、「愛他精神の涵養における系統的な学習内容の編成」について。
(問2)以下の主張の誤りを指摘しなさい。
社会科は、最終的には、世界全体の地理・歴史・経済等について扱う。
しかし、小学校低学年から直ちに世界全体について学習するのは困難である。
このため、学習内容は、
学校周辺→自分たちの市町村→自分たちの県→自分たちの国(日本)→世界
……というように、身近な地域から徐々に扱う範囲を広げていくことになる。(学習の系統性)
同様に、公教育における「他者を愛する心」は、最終的には、人類全体の幸福を願う気持ちを身に付けるのを目標とする。
しかし、小学校低学年から直ちに人類全体を愛する気持ちを身に付けるのは困難である。
このため、学習内容は、
家族愛・友情→愛校心→郷土愛→愛国心→人類愛
……というように、身近な人々から徐々に扱う範囲を広げていくことになる。(学習の系統性)
社会科では、学習の過程で、自分たちの県についてはそれを単独で扱うが、他県については個別に学習する機会がない。
このため、自分たちの県について、他県よりも深く学習することになるが、これはやむを得ない。
というより、身近な地域についてより深く学習するのはむしろ当然であり、学習者にとっても有益である。
同様に、「他者を愛する心」を身に付ける過程で、自分たちの国を愛する気持ちについてはそれを単独で扱うが、他国を愛する気持ちについては個別に学習する機会がない。
このため、自分たちの国への愛について、他国への愛よりも深く学習することになるが、これはやむを得ない。
というより、身近な地域・人々をより深く愛するのはむしろ当然であり、学習者にとっても有益である。
「家族愛」が、個人のつながりの深さを通じて、いわば同心円的に拡大されたものが「郷土愛」だとします。
このとき、同様に「郷土愛」を同心円的に拡大したものが「愛国心」なのでしょうか。
私は違うと思います。
「国」とは、「市町村」と同様、一つの行政区分です。
愛情は、必ずしもそこで区切られるとは限りません。
例えば、ある人物が、A町とB町の境界線の近くに住んでいるとします。
彼の家は、立地としてはA町にありますが、職場はB町にあります。
また、(そちらのほうが商店街が近いなどの理由で)生活圏もB町を中心にしています。
近所づきあいは(境界線上なので)A・B両町の住人としていますが、職場や生活圏の関係で、友人や同僚の多くはB町の住民です。
このため、たまに友人や同僚の家に遊びに行ったり、行政が主催するイベントに参加するような場合、B町に出かけることが多くなります。(選挙だけは別ですが)
このような場合に、
「その人物はA町の住民なのだから、A町に郷土愛を抱くべきだ」
……ということになるでしょうか。
おそらく、その人物が「郷土愛」というものを抱くとしたら、それはB町に向けられるか、もしくは、A町とB町の境界線付近のある地域に向けられるのではないでしょうか。
「町」というのは、単に行政上の区分であって、郷土愛はその区分に拘束されるものではないのです。*1
(拘束されるとしたら、それはむしろ「郷土愛」というより「愛町心」と呼ぶべきもののような気がします)
人間の「郷土愛」が向けられる範囲がどれだけであるかは、その人によって異なるでしょうが、それを拡大していった結果が「愛国心」である、というのは間違っています。
「拡大された郷土愛」の対象は、「日本」という国境に拘束されないはずだからです。
「日本人なら日本に愛国心を抱くべきだ」というのは、「A町の住民であればA町に郷土愛を抱くべきだ」と言うのと同様の論理に依っています。
それは、何か人工的なものを含んでいるのです。
家族愛とか郷土愛というのは、自分で顔見知りである、「身近な」人々、言い換えれば「一次集団」への愛です。(「郷土」が一次集団かどうかはちょっと怪しいけど)
これに対して、愛国心とか「愛町心」というのは、顔の見えない、身近ではない人々、つまり「二次集団」への愛です。
言い換えれば、具体的な相手への愛と、抽象的な組織への愛。
両者の間には大きな溝があるのです。
これは、「愛国心」というと、桜とか富士山とか日の丸とか、シンボリックなものが持ち出されがちなことからも明らかです。(「郷土愛」で町章が持ち出される比重より大きいですよね?)
こう書くと、「人類愛」なんて、二次集団への愛の最たるものじゃないか、という意見もあると思います。
ですが、個人的なつながりを元にした「郷土愛」を、つながりの深さを元に、同心円的に広く広く拡大していけば、最後に「人類愛」に到達するのはたぶん確かです。
でも、その途中で「愛国心」を通るとは限りません。
むしろ、「人類愛」にあえて国境という区分けをしたものが「愛国心」なんじゃないでしょうか。
教える側からすると、「郷土愛」から、もっと広い範囲への愛情を考える時、「人類愛」への過程として、
「地元の果物が出荷されていく国内外の地域への好奇心」
とか、
「自分たち同様、米を育てている地域への親近感」
とかいったものがあり得るはずで。
それを、途中で「愛国心」というステップを踏まなきゃならない、というのは、必ずしも系統的な学習ではないと思います。
そんなわけで、「愛国心」教育は、最終的には広く人類全体の福祉を考える人間を育てよう、という目的の下に教育を行うならば、むしろ邪魔なものだ、というのが、私の考えです。
愛国心については、
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060429
に続きました。
*1:社会科は、その特性上、行政区分に従って学習するのが合理的。