学校・地域・家庭

真面目に考えてみた。
 
中学校の先生はよく、
「入学してきた子どもたちを見ると、九九も満足に言えないのがザラにいる。小学校の教員は一体何をやっているのか」
……と憤ります。
 
確かに、小学校教員は、(入試の重圧がないだけに)学力よりも、「友だちに対する思いやりがある」とかを重視しがちです。
……まあ、それも大事ですよ。ね?
 
しかし、しばしば小学校では
「入学してきた子どもたちを見ると、椅子に座って話を聞くことも満足にできないのがザラにいる。幼稚園の保育士は一体何をやっているのか」
「入学してきた子どもたちを見ると、『ブランコの順番を待つ』みたいなちょっとした我慢もできないのがザラにいる。保護者は一体何をやっているのか」
……と。
 
まあ、責任転嫁ではあります。
 
さて。
ブログのトラックバックを辿っていくうちに、インタビュー記事「家庭のしつけは衰えている」は本当か?(東京大学大学院教授 広田照幸 さん)
に行き着きました。
 
一部引用。

問:近年、凶悪事件が起きるたびに原因を家庭に求め、教育力の欠如を指摘する傾向があります。そもそも昔から「教育する家族」は存在していたのでしょうか。
 
答:家族が小さな独立した単位になってきたのは17世紀くらいで、それまではお金持ちの家に作男のように住み込んで一生を過ごす人がたくさんいました。(略)商いの取引や訪問客が頻繁な豪農や豪商を除くと、普通の人は「自然に放っておけば一人前になる」という考えが当たり前でした。
 変化が起きたのはサラリーマンの原型が出てきた明治の終わりくらいです。幼い頃からいろんなことを覚え、学校教育で成功することで「よりよい仕事に就き、よりよい人生を送るチャンスを得られる」というライフコースができた。

まあ、これは導入で、この後が本題なんですけど。
 
ふむ。
 
ここで説明されている歴史的事実は、それ自体は全く正当なものだと思います。
 
ただ、やっぱりこの部分の主張は詭弁のように感じます。
 
例を挙げましょう。

Q:近年、日本では所得の格差が広がっていると言われていますが。
 
A:17世紀ごろには、都市部では絢爛豪華な文化が栄える一方、地方の農村では餓死する農民がたくさんいました。現在のように、国民のほとんどが健康で文化的な生活を送れるようになったのは昭和に入ってからです。

Q:近年、日本の子どもたちの理科離れが進み、科学的思考力が低下していると言われていますが。
 
A:日本の歴史のほとんどを通じて、庶民の間には迷信が蔓延していました。変化が起きたのは明治の終わりくらいです。現在のように、国民のほとんどが理科教育を受け、一定の科学知識を身に付けることが求められるようになったのはごく最近のことです。

Q:バブル以降、日本は空前の不景気にあったと言われていますが。
 
A:17世紀以降、江戸時代全体を通じて、日本の経済はほぼゼロ成長でした。変化が起きたのは明治の終わりくらいです。

 
日本の近現代(明治以降とか、高度経済成長が始まってからとか)は、様々な問題もあったにせよ、多くの面において、日本にとっては空前の幸福な時代でした。
 
それゆえ、
「最近の風潮が特殊なのであって、それを基準に物事を語るのはおかしい」
という説明は、実はほとんどの物事についてあてはめることができます。
 
しかし、それは、あてはめることが適切である、ということを意味しません。
 
世紀単位で見れば、現在、家庭の教育力はかつてない高水準にあります。
同時に、公教育の教育力も、かつてない高水準にあります。
そしてもちろん、子どもの学力も、かつてない高水準にあるのです。
 
……で、だから安心していいのでしょうか。
 
答えは否でしょう。
 
子どもの学力(何をもって「学力」とするかはともかく)を維持し、より高めたい、というのは社会共通の願いであるはずで、それを「19世紀に比べたら高い」とか言われて納得できる人はいないからです。
 
そこで、「家庭の教育力が低下している。もっと高めるべきだ」……という、主張が出てくるわけですが。
 
学校関係者の間では、近年(ここでは、核家族化が進行し始めた80年代あたりから)、家庭の教育力が低下している、というのは通説です。
 
責任転嫁?
 
かつては、三世代・四世代同居が当然で、育児については上の世代の意見を聞き、協力を求めることができました。
また、専業主婦家庭がほとんどで、母親が育児に専念する環境があったのです。
 
しかし、現在、核家族の共働き夫婦が増え、保護者が子どもにかけられる時間は減少しています。
 
同時に、少子化や都市化の進行に伴い、地域のコミュニティも失われ、年長の「ガキ大将」を中心に子どもたちがグループ遊びをすることもなくなりました。
結果、「ブランコの順番を待」った経験のない子どもが続々と小学校に入学するようになり、人間関係を築き、維持する能力に欠けた子どもたちで学級があふれるようになったのです。
 
フリーター・ニートなどの問題が言われるようになったのは、この時期の子どもたちが成人して社会に出る(もしくは「社会に出るのに失敗する」)時期にちょうど重なります。
 
……耳が痛い。
 
ちなみに、百ます計算陰山英男なんかは、
「子どもの学力が伸び悩んでいることから、学校の教育力が落ち込んでいると言われる。
だが、地域や家庭の教育力がこれだけ落ち込んでいる中で、学力が現状を維持しているということは、学校の教育力がかつてないほど高まっているということなのだ」
……とか言ってるみたいです。
 
……責任転嫁?
 
ともかく、今こそ地域と家庭の教育力の再興が必要なのですよ!
 
……でもねえ。
 
どうすりゃあいいんですかね。
 
たとえ少子化はなんとかできたにしても、女性の社会進出自体は間違ったことだとは思えないわけで。
「女性は家で育児に専念すべきだ!」
というのは、時代錯誤もいいところでしょうからね。
 
それなら、
「両親のどちらかは家で育児に専念すべきだ!」
というのはどうか。
 
……難しいかなあ。
 
思うに、人間には一日24時間しか時間はありません。
それに加え、人口が有限である以上、人間、夫婦、そして日本全体のマンパワーは限られています。
 
それを、何にどう配分するのか。
 
「教育は未来への投資」と、よく言われます。
 
ですが、「投資」というのは将来回収すること前提です。
 
でも、教育は、成果が出るのが10年20年先の話ですから。
次の世代が豊かになったからって、自分がその恩恵を受けるとは限らず。
 
実際には、「教育は次の世代への寄付」に近い。
 
だから、「そんなものにマンパワーをかけるより、今、自分たちが豊かで幸福な生活を送ることに専念したい」……と考える人もいると思うのです。
「仕事が忙しくて子どもの面倒を見られない」……って、ある種そういうことかな、と。
 
いや、「それだけ朝から晩まで働かないと、そもそも生きていけない」……って家も少なからずあるんですけどね。
私のクラスにもいますし。
 
ただまあ、当座の経済発展のために教育が犠牲にされる、という図式は確かにあるんじゃないでしょうか。
 
「朝ご飯はちゃんと食べさせて下さい」
……とお願いしても、親も仕事が朝早く、ままならない家があります。
 
朝ご飯を食べないと、脳が目覚めるのが遅く、体全体のバランスが崩れ、成長期の子どもには問題が多いのですが。
 
かといって、共働きをやめろ、とは言えない。
 
「朝食を子どもに食べさせるのは保護者の当然の義務」……という時代は終わったのです。
 
となれば、給食制度を拡充し、希望者には朝食も学校で食べられるようにするなどの施策があり得るかも知れません。
(あるいは、学校に売店を作るとか。コンビニ弁当より安価に、バランス良い食事を)
 
「夜遅くまでテレビやゲームをして起きているのを何とかして下さい」
……とお願いしても、親も仕事が夜遅く、ままならない家があります。
 
夜寝るのが遅いと、脳がそもそも目覚めず、体全体のバランスが崩れ、成長期の子どもには問題が多いのですが。
 
かといって、共働きをやめろ、とは言えない。
 
「子どもを夜寝かしつけるのは保護者の当然の義務」……という時代は終わったのです。
 
となれば……
 
……どうすりゃあいいんでしょうね……。
 
公設の寮で生活させるとか?
 
「そこまで学校がやらなきゃならないのか」
……って、ものすごくよく聞く台詞なんですよね。学校では。
 
社会全体のマンパワーには限度があります。
 
しかし、子どもをまともに育てたいなら、相応のマンパワーを投入する必要があります。
 
親が忙しくて手が回らない、というなら、そこで減った分のマンパワーを誰かが補填するしかありません。
 
誰が?
まず考えられるのは行政でしょう。
 
「小さな政府」という発想には逆行しますが、公教育制度を、しつけや幼児保育、基本的な身の回りの世話といった範囲まで大幅に拡大し、親が共働きだろうがネグレクトだろうが万全の育児ができる態勢を整えるのです。
 
万全。
 
……でも、政府(あるいは、自治体の委託を受けた民間企業とか)の職員が授乳から何からやったとして、本当に「万全」なんでしょうか……。
私はまだ子どもがいませんけど、「親しか与えられないもの」って、何かあるんじゃないかな、と……。
 
あるいは。
 
労働基準法などを大幅に改正し、一人当たりの労働時間を短縮して、親が子どもと接する時間を強制的に作るとか。
それで一体何が犠牲になるのかよくわかりませんが。
 
一人当たりの総労働時間の減少>企業の生産力の低下>日本の国際競争力の低下>不況
 
……なんでしょうかね。
 
一人当たりの総労働時間の減少>労働者需要の増大>失業率の低下
 
……と、つながってくれればいいんだけど。
 
うーん。
 
やっぱりまとまりませんが。
 
ただ、とにかくなんとかしなきゃならないけれど、時代を逆転させることもできない、というのは当たり前の結論として。
 
ともかく、
「子どもは誰かが育てなきゃならないし、親に今まで通りやってくれと言っても無理だし、学校にこれまで以上にやってくれと言っても無理」
……ということ。
 
やっぱり、制度的に限界なんでしょうか……?