学校の社会的ミッションがちっとも完了してない件について。

 しかし……なんですね。

「いじめがなくても学校からもう逃げ出した方がいい(http://d.hatena.ne.jp/essa/20120819/p1)」と、そのブコメ群を見て思ったんですけど。
 
「日本の学校の主なミッションは、集団生活を送る中で、
“一時間同じ所で黙ってじっとしている”
“12:00に昼食を食べて午後の開始時刻までに食べ終える”
 などの訓練をすることにあるんだよ!

 その目的は、工場労働者やオフィスワーカーを育成することなんだよ!

 それが日本の学校の主なミッションだったんだよ!(主なので2度言いました)」

 
 ……なんて意見を聞かされて納得する人がそんなにいっぱいいるんですかはてなには。
 
 ということは、一人の教師が大勢の子どもを教える形式……一斉授業って、高度経済成長時代あたりに、経団連とかの圧力で導入された形式なんですかね?
 でも、江戸時代の寺子屋も基本は一斉授業だったと思うんですけど、あれも大江戸経団連かなんかの陰謀なんですかね。
 ていうか、一斉授業以外の形式で国民一般への教育を行ってる国があるとは聞いたことがないんですが、それも海外進出を見据えた経団連の(略)
 
 実際には、学校が一斉授業なのは、単に歴史的な経緯……というか、ぶっちゃけた話、それ以外の方式が不可能だからです。
 
「学校」……とりわけ、公立の小中学校という制度が成立する以前は、教育というのは、親が家庭教師を雇って自分の子どもに受けさせるものでした。
 当然、それが可能なのは裕福な家庭だけですから、一般庶民は無学文盲のままに放置されたわけです。
 
 で、まああれこれあった末に、一般人にも教育の機会を、ということになったわけですが、それが一斉授業になったのは、コスト対効果……というか他に方法がなかったからです。
 だって、一国の全児童生徒に個別指導で対応しようとしたら、国家の労働人口の何割を家庭教師に就職させりゃいいんだ、って話ですから。
 日本の場合、明治の学制発布の前に、寺子屋というある種の私立学校が広まっていましたが、まあ事情は大体同じです。
 
 いつか、科学がもっと進歩して、CAI(コンピュータ支援教育)の技術が著しく発達すれば、コンピュータが子どもたち一人一人に適切な教え方を工夫してくれるようになって、一斉授業は廃れるかも知れません。
 でもまあ、それは残念ながらまだまだ先の話です。
 
 ともあれ、一斉授業というのは学校にとっては手段……というかある意味、やむを得ずやってること、必要悪とも言えます。
(異質な子どもたちが集団で学びあうことの利点というのももちろんあります、と急いで付け加えておきますけど)
 
 ですから、
「リーダの指示や決め事に従って集団で一つのことをする」
 等々は、学校にとってちっともミッションではありませんし、ミッションだったことは一度もありません。
 産業界にとってはその形式で教育を受けてることは都合が良かったのかも知れませんしそうじゃないのかも知れません(尋ねたことがないので)が、とにかくそんなの教育界としては知ったことじゃないのです。
 
*2012.8/24追記
 
id:ROYGB 別の場所でも学校と工場の関連について読んだことあるので、そういう意見はあるみたい。ブコメ引用)
 
 私も「学校生活は工場制手工業が云々」という説はどこかで聞いたことはあります。
「学校生活は軍事教練が云々」という説の方がいっぱい聞いたことがありますけど。
 
 まあ、産業界も軍も圧力団体ではありましたから、政治や教育行政に何らかの影響は与えていたかも知れません。
 ただ、そういう場合は、まず教育内容に影響を与えている、と考えるのが普通でしょうけれど……。
(実際、軍は学校教育の内容にものすごい影響を与えていましたし。
 産業界については……富国強兵のため、国家として産業に適した人間を育てる、という明治の国策の話としてはあったかも知れませんが、それが高度経済成長が起源というのはどうかなあ……)
 
 ただ、そういう「工場労働の訓練としての学校生活」自体が学校の主な(というか事実上全ての)ミッションで、その意義がなくなるとともに学校そのものが無意味化した、などと言う人は初めて見ました。
 
*追記ここまで。
 
 むしろ、教師を増員せよ、学級当たりの児童生徒数を減らせ、個別指導のための人員を、と、パーキンソンの法則的なことを騒ぎ続けてるのは教育関係者ですし。
(昔は、一クラスの平均児童数が60人。学校によっては100人クラスとかいうこともあったそうです。なんて恐ろしい……)
 
 じゃあ、学校の本当の目的は何か……なんて、今更言う必要もない……はずなんですが、必要なんですかね。
 
「工場労働者として(略)」を信じてるような方は、保護者の方に聞いてみたらいいんじゃないでしょうか。
(自分が保護者じゃないとすればですが。でも大体そうなんじゃないかという気もする)
「学校に何を望んで、お子さんを学校に行かせているんですか?」
 って。
(まあ、小中は原則的には義務なんですけど)
 
 おそらく、
「きちんと勉強を……」つまり基礎学力とか。
 あるいは、
「お友達と仲良くできるような」……社会性を培うこととか。
 
 そのあたりが上位にくるはずです。
 
 少なくとも、
「長い時間黙って座ってられるように」
「時間内に飯が食えるように」
 なんてことを期待している人はいませんよ。
 たとえ、子どもの将来が平凡なサラリーマンであるよう願ってる人であっても。
 
 教育界にだってそんなことを言う人は一人もいません。
 産業界にだってたぶんいません。たぶん。それほどたくさんは。
 
 ……ところで「12:00に昼食を食べ」る学校って私は見たことないんですけど(むしろ食べ始めるのは13:00に近い)、世間では一般的なんでしょうか。
 なんか、架空世界の学校の話をされてる気がしてならないんですが……。
 
 ともあれ、学校の本当の「ミッション」というのは、もちろん、子どもたちが大人になった時に必要な基本的な教養なり社会性なりを培うことにあります。
 その内容がなんであるかは、時代によって変わってきましたが。
 
 なんですか、「ツマミを回す」だけでないなんとかかんとかな能力が必要なんですか。
 
 それは、
「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」
 とかいうやつじゃないんですか。
 
 これは、文科省が言う「生きる力」……世間からはゆとりだとかなんとか言われて叩かれた教育方針なんですけど。
 
 そういう変遷が学校にある、ということを無視しちゃいませんか。

 私たちは、歴史についての知識は大なり小なりあって、昔の人が自分たちとは随分違う生き方や考え方をしていたことを知っていますが、それは宇宙についての知識と同じように、自分の生活とはかけ離れた抽象的なこととしてとらえています。それとは関係なく自分の生きている社会には変化が無いと思いこんでいるのです。

 ……id:essaさん自身が、今の学校が昔の学校と「変化が無いと思いこんでいる」んじゃないんですかね……?
 
 なるほど、明治の学校も今の学校も、使ってるのは主に黒板とチョークです。
 だからって「変化が無い」というのは、椅子とテーブルで会議をしてるからって、明治の御前会議も現代の企業のミーティングも同じだ、って言うようなものだと思うんですけど。
(……御前会議と変わらないミーティングもある? そうかも知らんね)
 
 ともあれ、子どもたちを「椅子に座ら」せた上で、そこから時間をかけて身につけさせるべき教育内容が学校にはあるのに、
「黙って椅子に座らせる訓練が学校の主なミッションだよ! その価値はもうないよ! 学校の社会的役割はもう終わったよ! だからいじめがなくても逃げるがいいよ!」
 というのは単に無責任だし、結局は後々困る子どもを増やす気がします。
(「大人になってから苦労するぞ!」というのはあまりにも陳腐な脅し文句ですけどね)
 
 椅子なんか私もどうでもいいと思いますけど(「総合的な学習の時間」とか、椅子に座ってないことも多いですしね!)、それで学校から逃げた後、必要な教育は誰が行うんでしょうか。
id:essa氏は、学校の教育内容そのものには全く価値を認めていないから、時間割通りの登校だとか飯の時間だとかの外形的なことだけに価値がある/あったかのようにおっしゃるんでしょうけど)
 
id:neogratche 教えますよ。ホームスクーリングと言いましてねブコメ引用)
 
 し、知っとったわホームスクーリングくらい!
 
 ……いや、ホームスクーリングが駄目だとか言うつもりはないですよ。
 
 やむを得ない事情(いじめとか!)によって、学校教育からホームスクーリングなりフリースクールなりに避難せざるを得ない子どももいるでしょう。
 むしろそういう場合には、行政的な支援(金銭的に、あるいは教育内容的に)が必要かも、とさえ思います。
 しかし、それをもって、
「学校教育の社会的役割は終わった! ホームスクーリングで代替可能だ! むしろその上位互換だ!」
 とか言えるものではないと思います。
(neogratche氏はそこまで言う気はないのかも知れませんけど、しかし「学校の社会的役割は終わったよ」→「じゃあ誰が子どもを教育するんだよ」→「ホームスクーリングと言いましてね」という文脈だとそのように読むしか)
 
 家庭の責任で子どもを教育する、って、形式としては、学校教育というものが始まる以前の教育じゃないですか。
 
 いったいどれだけの家庭が、それを実行できるのかと。
 むしろ、その負担に耐えられない、貧しい(というか普通の)家庭の子にも教育の機会を、という、ある種のセーフティネット、貧困対策として、学校という制度が始まったのではなかったですか。
 
「ホームスクーリングがあるから学校教育から逃げても大丈夫!」
 というのは、
「パンがなければブリオッシュがあるじゃない」
 的なものを感じてなりません。
 
 結局、学校外での教育は、受け皿として必要であっても、学校という制度自体は当分必要なんじゃないでしょうか?
 少なくとも、各家庭に安価なロボ先生が配備できるようになるまでは
(あるいは脳に直接知識や経験をインストールするとか……早くできるようにならないかなー。自分は失職するけど)
 
 ……正直、こんなの当たり前のように思うんですけど、下手をすると
「一斉授業を行う学校の役割は終わった!
 財政再建のために教育予算を大幅削減しよう!
 非凡な子どものための学校だけあればいいよね!
 あとは家庭が対応すべき問題だよ!」

 とか言い出す政治家が現れかねないような気もする今日この頃。
 
 なにか得体の知れぬ憤りに任せてつらつらと書いてみました。
 

いじめの話でしたっけ。

 
 いじめというのは、大人社会の差別と同様、人間の本能の暗い側面に根ざした、解決の難しい問題です。

 いじめ問題が騒がれていますが、いじめを解決できないのは、いじめ解決がどれくらい重要で、他のどの役割よりそれを優先すべきか、誰にも確たることが言えないからです。

 裏を返せば、最優先に取り組めばいじめなんか解決するはずだ、と?
 そういうことを言う人は、ほら吹きか人間について無知かどっちかだと思いますよ……。
 
“この「いじめ対策」はすごい!”なる記事が何度かホッテントリに上がってきます。(http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20090520
 あれがベストな解決とは思われない……というのはブコメでもさんざん言われてますが、とにかくあれをスムーズに実行できるくらいのマンパワーが学校に欲しいですね!
 教師を増員せよ! 学級当たりの児童生徒数を減らせ! 個別指導のための人員を!(パーキンソンの法則