トップを憎んで組織を憎まず!

 他所様の記事を読んでて、すげえくだらないことを考えた。
悪役には「ずれ」がある。主役には欠落がある(レジデント初期研修用資料ブログ様)
http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/archives/1278

主人公に立ちはだかる「悪の組織」を束ねるのは、理想の上司と形容されるような素晴らしい人物でないといけない。
 
ブラック企業」に代表されるような、部下をこき使う、魅力のかけらもないような人物を悪の黒幕として設定すると、主役の戦いに大義が生まれない。
 
ブラック企業の上司は、部下となった人たちから選択肢と睡眠時間を奪う。部下に対して、組織に賛同する意思を引き出すのではなく、「組織に賛同しない」という選択肢を奪おうとする。物語ではたいてい、主人公は悪の組織に何かを奪われた存在として描かれるけれど、「ブラック企業」的な組織の末端には、やはり大切な何かを奪われた人たちが主人公に立ちはだかることになる。
 
能力にまさる主人公が、等しく「奪われたもの」であるこうした人達を倒してしまったら、読者の共感は主人公から離れてしまう。
 
物語を背負う悪の組織は、社長から平社員に至るまで、だから自分の意志で組織の目的に賛同し、モチベーションの高い人達で構成される必要がある。
 
悪の黒幕は素晴らしい人物で、目的は遠く大きく、進捗管理に巧みで部下のモチベーションを引き出すのが上手で、自身には常に厳しく未来を見据える。強力な能力と動機を兼ね備えた人たちが素晴らしい上司のもとに結集して、目的に向かって一丸となって突き進む。主人公の戦いを通じて読者の共感を維持しようと思ったら、悪の組織は必然として、組織としてむしろ理想的なものにならないといけない。

 ……理屈としてはそうなんだけど、多くの「悪の組織」って、構成員は「素晴らしい指導者様」や「組織の崇高な理想」に心酔して馬車馬のように働いているけど、実際の労働環境は相当ブラックなことが多いんじゃないかなあ、という。
(まあ、そんなに創作に触れてるわけでないので勘違いかも知れませんが)
 
>等しく「奪われたもの」であるこうした人達を倒してしまったら、読者の共感は主人公から離れてしまう。
 
 ……というのは、つまり「主人公がブラック企業の労働者を倒す話じゃ、読者は共感できないよ」ということと理解しました。
 
 お互い辛い身の上ですからね。
 
 それを、
階級闘争に転化せよ! 下っ端同士手を組んで、リア充ブルジョアどもを打倒するのだ!」
 と叫んだのが、レーニン第一次大戦なわけですが。 
 
 敵の戦闘員と手を組んで敵の指導者を倒す正義の味方……という方向に行くと、ラノベというよりプロレタリア文学だという。
 
 それはさておき、実際には、悪の組織のために一生懸命がんばってきた部下が、ちょっとした失敗でトップに粛正されてしまったり、時間稼ぎのために捨て駒にされたり見殺しにされたりすることで、悪の組織のトップの冷酷さが浮き彫りになり、
「組織のために尽くしてきた社員を切り捨てるなんて、なんてひどいトップなんだ!」
 ……という読者の怒りを誘う、というパターンの方が多いんじゃないかなあ、などと。
 
 そのような場合、悪の組織との戦いとは、すなわちブラック経営者との戦いなのかなあ、と。
 
 ……しかし、そう考えると、主人公の側の労働環境はブラックであってはならず。
 
 福利厚生は完備、危険な任務は特別手当がつくし、戦闘中の負傷はきちんと労災に認定され、
「傷休じゃなくて有給で病院に行ってください」
 とか言われることもない。
 主人公達は定時までは全力でブラック企業と戦うものの、その後は帰ってもいいし残業してもいい。
 もちろん、有給休暇は原則的にいつでも取得できるので、戦隊ものだと全員揃わないことも……
 
 ……ああ、そういう場合でも人数が揃うように、1人2人多くメンバーを選出しておくのが司令の仕事なのか。
(まあ、戦闘を任務とする組織なのに、1人欠けたら組織として機能しないとかありえないわな……)
 
 ブラックな労働環境をこの世から撲滅するため、戦え! 労基署マン!
 
 ……でもこれって、読者は主人公に共感してくれるのかなあ……。
 公務員が労基法通りに働いてると叩かれる世の中だからなあ……。