幼児期の「個性尊重」こそが子どもを押しつぶす。

なんでこんなに気になるのか自分でもよくわからんのですが。
「個性は本当に獲得するものなのか?」(ハックルベリーに会いに行く)
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080705/1215257884
 
その記事自体、
「そもそも君らに個性などない」(地下生活者の手遊び)
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20080702/1214984474
に対するものなわけですが。
 
件の記事を読んで強く感じたのは、
「子どもの才能を発掘しよう」
とかいうのは、むしろ子どもにとって危険だ、ということでした。
 

N君の絵は個性じゃないし、級友の絵も個性を損なわれてなどいない。

 
ブックマークのコメントにも書いたんですが、まず、例として挙げられている「N君」の事例、解釈が間違っています。
 
事例の詳しい内容は元記事を読んで頂くとして、エピソードを簡単にまとめると、
 
幼稚園時代、風景を見て絵を描くよう指示されたN君、空を青く塗ろうとして、塗り終わる前に時間が来てしまいます。
で、
「描き終わった他の子はどうやって描いたの?」
と思って見たら、
「空は上辺に細いラインとして描かれ、残りの画面のほとんどは白い空白が覆っていた」
という。
 
N君が描こうとした絵:http://f.hatena.ne.jp/aureliano/20080705202901
級友が描いた絵:http://f.hatena.ne.jp/aureliano/20080705202902
 
で、件の記事は、
「Nくんはその後、描くことへのそうした執着が周囲に認められ、結局絵の道へ進むことになる」
「級友たちのその『子供の写生メソッド』に則った描き方の方が、きっと誰かに教わった描き方だったのだろう」
とか、要するに、
 
「他の子の絵は、『お絵かき』はこういう風にするんだ」
と教わったもので、本来の「子どもらしさ」≒「個性」に反したものだ。

個性を圧殺されることなく絵の道に進めたN君は幸運だった。
 
……という結論に続くわけです。
 
いや、違いますよそれ。
 
地面の線(基底線)を引いて、その上に人間や物を並べて書くのは、5歳前後の幼児の絵としては普通のものです。
それ以前の幼児は、例えば人間だけを描く、好きなものを位置関係を無視してばらばらに描く、といった絵を書いています。
(もっと前は殴り書き)
 
↓「級友の絵」、たぶん実際はこんな感じだったでしょう。
http://blog.ishonan.com/sukusuku?d=20071115&month=200711
 
↓こっちの方がわかりやすいかな?(中央あたり)
http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index33/index.html
 
基底線の出現は、その子に「空間」の認識ができたことを表しています。
 
いままで、目に入る物を個別にとらえて、それだけを紙に描くことしかできなかった幼児が、
「地面があって、その上にいろんなものがあって、もっと上には空がある。
そして、青い空と地面の間には、“何もない空間”が広がっている……*1
という関係に気付き、それを絵として表現したのが「級友の絵」です。
 
一方、N君の絵は、たぶん「積み上げ式遠近法」という段階に達していたのだと思います(模式図ではよくわからないので推測ですが)。
 
これは、基底線が複数になって、
「画面の上にあるものほど遠くにある」
という表現です。
 
「遠くのものほど、視野の中で上の方に見える」
という事実を発見しないと描けませんし、「上」=「遠く」≠「上方」という約束事が入ってくるので、一つ高度な段階になります。
 
ちょっと適当な例が見つからなかったのですが……
 
↓これの一番上の絵とか。
http://www.shin-ken.or.jp/news/2007/200711.html
 
↓これの「低学年の部」(特に「朝日新聞賞」の絵)とかが近いんじゃないかと。
http://www.hanafes.jp/hanafes/c-2007e.htm
 
注意して欲しいのは、これらはいずれも
「誰かに教えられたメソッド」でも「個性≒子どもらしさ」でもなく、成長の過程で(ほとんど)誰もが通る道だ、ということです。
 
幼児が立ち上がる前に、(ほとんど)誰にでも、まずハイハイをして、つかまり立ちの時期があるのと同じです。
 
N君は、他の子よりちょっと先を行っていたに過ぎません。
 
N君が他の子より何ヶ月か早熟だった、というのは、無意味とは言えませんが、そこに「キャズム」とか「個性」とかを持ち出すのは間違っています。
それがキャズムなら、子どもの成長はキャズムを立て続けに飛び越えていくようなものです。
 

才能を伸ばそうとされた子どもの悲劇。

 
「でも、ある分野で他の子よりも発達が早い、ってことは、才能があるってことじゃないの?」
という意見もあるかも知れません。
 
実際、N君は絵の道に進んだわけですし。
 
しかし、現実には、幼児期に「神童」と騒がれたけれど、大人になったらその才能を失った、というような例はいくらもあります。
 
別に、画一的な学校教育で個性をおしつぶされた、とかではなく、すごい数学の才能を表してみんなから騒がれて、さんざんちやほやされたけど、徐々にその能力が衰える、とかいう例です。
 
「幼児期、他の子に先んじている」→「成人になれば一般人全てに先んじることができる」
……なんてことはない
のです。
 
子どもとは、人間とは、そんな単純なものではない。
 
じゃあどんなものなんだ、と言われると、ごめんなさいわかりませんとしか言えませんが。
 
たぶん、脳が成長していく過程で、たまたまちょっと変わったバランスで成長して、結果的にある能力が爆発的に高まる子がいるんじゃないでしょうか。(超憶測)
でも、さらに成長を続けるうちに、その分のリソースがもっと他の凡庸な(しかし普通に生きていくためには必要な)能力に割り当て直されてしまうので、結局凡人になってしまうんじゃないかと。
 
もちろん、そうならないで「天才」と呼ばれるようになる人も一定数いるんでしょうけど。
 
ただ、少なくとも、ちょっと絵がうまく描けるようになったとか、幼稚園で割り算ができたとかで、
「この子には才能がある!」
「この子の個性を伸ばしてやらなければ!」
とか周囲が言い出すのは危険
だと思います。
 
それは、その子に過度な期待を負わせることになりますし、その能力がだんだん薄れて、結局その子が画家や数学者にならなかったら、保護者は
「子どもの個性を伸ばしてやれなかった
という汚名を着せられることになります。
 
で、そういうことは普通に起きるわけです。誰のせいでもなく。
 
少し前、
「天才とのつきあいかたは難しい」(shi3zの日記)という記事がありましたけれど。
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20080508/1210268430
 
あれはまさに、幼くして天才扱いされ、
「その個性を伸ばそう」
と育てられた人の悲劇なわけで……。
 

「大人顔負けの子ども」は、個性・才能なのか。

 
N君の絵がなんで優れているように見えるかというと、「より発達している」=「大人の絵に近い」からです。
 
絵に限らず、「才能のある子ども」とか言う時、だいたいそれは「他の子より大人に近い能力を持っている」ということのように思えます。
 
……でも、それって、個性を尊重したものの見方でしょうか?
 
このような、「大人びた絵=優れた絵」という価値観が生んだのが、酒井式描画指導法なんじゃないかと思います。
 
↓酒井式の例
http://www3.i-kyushu.or.jp/~fukcircle/siteup/syabon/tama8.html
 
http://homepage2.nifty.com/TAKASI-YOSIDA/e-kousya.htm
 
http://www.ztv.ne.jp/yumi60/tenrankai.htm
 
いずれ劣らぬ、素晴らしい作品ばかりではありませんか?
まさに、大人顔負けの絵と言えるでしょう。
 
……ただ、これ、「全部同じ人が描きました」って言っても信じちゃいそうですよね?
 
クラス全員が、全く同じ題材、同じ構図、同じ手法で絵を描く……。
 
それが酒井式です。
 
詳しい指導の流れは各サイトに描いてありますけど、実態として、
「子どもが絵を描いている」
のではなく、
「教師が絵を子どもに下請けに出している」
のだと私は思っています。 
 
「物語の絵を描こう」なんて、本来、自分が好きな物語の、好きな場面を描くはずなのに、できあがった絵が全員同じとかありえねえ。
 
「大人びているから優れている」というのは、現実には個性尊重でもなんでもなくて、むしろ画一的な方向に子どもを仕向ける危険を孕んでいると思います。
 
酒井式が個性尊重じゃないのは誰の目にも明らかでしょうが、幼児期のN君の絵が彼の才能を表している、と主張するのも、たぶん方向性は同じなのです。
 
そして、
「この子を早く大人のようにしよう。やがては常人を追い抜かせよう」
という教育が、本当に優れた個性を伸ばすことになるか、というと、私には疑問です。
 

で、どうすりゃいいのか。

 
もちろん、個性というのはあります。
例えば、外交的な子どもはグループ学習なんかが向いているけれど、内向的な子どもはむしろビデオ教材とかを使った方が学習効果があがるとか、実験的にも確かめられています。*2
 
そういった、子ども一人一人の違いに合わせて対応することは必要でしょう。
 
しかし、芸術であれ学問であれスポーツであれ、優れた才能が子どもに秘められている、というのは誤りだ、と私は思います。
 
もちろん、一心不乱に数学を勉強しても決して高等数学を身に付けられない人がいるように、
「どの程度の効率で学べるか」
「どこまで到達できるか」
という能力的な差は、ある程度天与のものとしてあるかも知れません。
 
ただやはり、生まれつきの能力を活かすには、適切な学習と努力が必要なんだと思います。
 
教育の分野では、人間の能力は、生まれつきのもの(身長とか)、後天的に身につけるもの(言語とか)、双方が必要なもの(絶対音感とか)がある、というのはまあ常識なんですけども。
どの領域に何が入るか、というのが議論のあるところなんでしょうか。
 
いや、図工についてはかなり悩んでるんですけど。
 
ああ描けこう描け、と教え込んだらまずいと思うし。
かといって、好きなように描けー、というのでは、そもそも教育と呼べない気がするわけで……。
 
でも、子どもの作品を大人の基準で評価しようとする人には、子どもの才能とか個性とかを語る資格はない、のだと思います。
それが子どもの発達の上でどんな意味があるのか、どんな本人の思い・気づきが込められているのか……を読み取ろうとしなければ。(自戒)
 
大学時代に教官が言っていた限りでは、小学校中学年以降になると、他の子と自分の作品を比べて、自分のは下手だ、とか悩んだりするそうです。
 
その時に、それこそピカソなりなんなりの絵を見せて、表現には色々な可能性があるんだ、と知らせてやることが大切なんだと。
そして、いろいろな技術、表現方法を、自分で学ぼう、という意欲を起こさせること(絵を描くのは楽しい、と思えるようにすること)が、何よりも大切なのだと。
 
酒井式、一時は、各地の絵画コンクールを席巻して問題になったそうです。
今にして思えば、私が子どもの頃の図工の教科書も、酒井式の絵が多かったように思います。
 
今はそういう風潮は薄れてきて、逆に、私が教師になって図工の教科書を見た時、
「これのどこがうまい絵なんだ?」
と困惑したものです。
 
でも、「どこがうまいんだかわからない絵」の「良さ」を感じ取れるようにならなきゃならないんだろうな、と思っています。
 
それが、本当に「個性を大切にする」ということなんでしょうし、そういう体験こそが、やがては「万人が認める良さ」を生む能力につながっていくのだろう、と私は思います。
 

余談。自分の絵と「アウトサイダーアート」。

 
実を言うと、N君みたいな体験は私もしています。
 
幼稚園時代、花瓶に生けた花を囲んで、
「さあこれを描いてごらん」
 
花瓶、黒地に白い唐草模様でした。花がなんだったかは忘れました。
 
……幼かった私、花瓶の模様を描こうとしたんです。
それも、唐草模様を実物通り精密に模写しようと。
 
途中、先生が何度も
「ほかのみんなは、お花をかいているよ?」
と示唆してくれたんですが、平気で花瓶の模様を描き続けました。
 
いや、花瓶を描き終わったら花を描こうと思ってたんですけど。
 
当然、描き終わる前に時間切れ。
 
で、壁に張り出された他の子の絵をみて驚愕。
みんな、花瓶は真っ黒に塗りつぶしてあって、そもそも形すら、ただの四角だったりする子も。
 
先生たち、
「他の子はお花も描いてるよね?」
とかなおも言ったんですが、私は全然気にしませんでした。
 
少なくとも花瓶は、どの子よりも上手だと自負していたので。
 
……まあ、当時から空気を読まない奴でした。*3
 
ただ、この時、
「重要でない部分は単純化して描いても良い」
という事実を学んだ気がします。
 
これは、別に「メソッド」として教え込まれたわけじゃなくて、他の子の作品を見て発見したわけです。
 
「単純化」という概念に気付かなければ(そして絵を描く時間が十分にあれば)、私はかなりすごい生け花の絵を描いてたと思うんですが、だからと言って、略図を描くという「メソッド」を手に入れたことを後悔してもいません。
また、それを学んだことで、自分の「個性」とやらが失われたとも思いません。
 
もう一つ。
 
幼稚園時代、絵を描く時に悩んでいたのは、車のタイヤの描き方でした。
 
タイヤは、横から見ると円形、正面から見ると長方形に見えます。
 
で、車を斜めから見た絵を描く時どうしたらいいのか。
 
長いこと、隣接した円と長方形を描いていたんですが……。
 
だから、円筒形の描き方を発見した時はうれしかったです。
 
……ところで、ピカソの絵には、人間の顔を、横から見た状態と正面から見た状態を組み合わせて描く表現があります。
 
してみると、円筒形の表現を発見する前の私は、ピカソと同じ事をやっていたことになります。
 
じゃあ、円筒形の描き方に気付いたことで、私はピカソ並みの画家になる「個性」を失ったのか?
 
……そんなことはないと思うのです。
 
さらに話がずれるんですが、この間「アウトサイダーアート」のことをNHKラジオで話してる人がいまして。
それが、なんでも精神障害者の描いた絵がシャガールに似てるとかピカソに似てるとか……。
 
お前はナチスの文化大臣か。
 
「現代美術と精神病者の絵は似ている」って、どんな退廃芸術展ですか。
 
いや、アール・ブリュットであれアートセラピーであれ、悪く言う気はさらさらない(し、そのラジオの人の言ったことが、いわゆる「アウトサイダーアート」の本来の主張ではないことも知っている)んですが、
「大人のような絵」
であれ、
ピカソシャガールのような絵」
であれ、物事はそれ自身の良さ、それがどんな文脈で生まれたか、によって評価されるべきであり、
「見た目が何かに似ている」という観点で評価するのは間違っていると思うのです。

*1:どうでもいいことですが、幼稚園時代、私は、空は地球を包む青い球形のカーテンみたいなものだと思っていました。
テレビとかで見る黒い宇宙は、その外側にある……と。
だから、「空と地面の間」というのが確かにあったのです。

*2:でも記憶が曖昧。

*3:先生達、私がちょっと異常なんじゃないかと心配したろうな。