痛い字。

filinion2007-09-30

変化しない言語は死んだ言語である。
金田一秀穂国語学者

H先生から、
「なんでしんにょうには2つ点があるのと1つ点のがあるの?」
と聞かれたのですが、答えられずにGoogle検索。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E9%83%A8#.E4.B8.80.E7.82.B9.E4.B9.8B.E7.B9.9E
http://hp.vector.co.jp/authors/VA001681/studies/shin_nyo.html
 
諸説あるようですが、要するに
 
・違いはない
 
ということのようです。
 
しんにょう(之繞)の元になった字は、

です。
 
これの足が伸びて、にょうを作っていたのだそうです。
 
つまり、
「走」→「起」
「鬼」→「魅」
のように。
 
で、現在のしんにょうは、この「辵」の字が崩れてできたものなのだと。
 
だから、点を1つにするか2つにするかは、どの程度崩すか、という問題に過ぎず、点の数で違う字、違う部首になるわけではない、と。
「しめすへん(神)」と「ころもへん(被)」、「さんずい(池)」と「にすい(冷)」のようなのとは違うわけですね。
 
だから、「どっちでもいい」というのが正解。
司馬遼太郎」とかは固有名詞なので2点にしないとならないらしいんですが、ネットだと、同じ字を見ても環境によって違って見える気がしますね。
(ていうか、今、Wikipediaから「司馬遼太郎」をコピペしたら、点が一個消えたよ。どうすりゃいいんだ)
 
ともあれ、いわゆる異体字について意識を新たにしました。
朝日新聞の題字に使われている「朝」とか「新」が、現代の標準字体とは違っていること、しかし当時はそれで良かったこと、などは知っていましたが。
http://homepage3.nifty.com/gomma/asahinp.html(よく見ると、「聞」の「耳」も、書き順が違うような)
 
しかし、私が想像していたよりずっと、書き文字というのは緩やかなものだったのですね。
前掲のリンク先(http://hp.vector.co.jp/authors/VA001681/studies/shin_nyo.html)にあるわけですが、

昔ならば「し」を「」、「く」を「久」、「か」を「」と書くことは教養であった。「田」を「」と書いたり「喜」を「」と書いたり「世」を「世」と書くのはおしゃれであった。現代では、筆で書くことのみならず、書くことそのものの伝統を破壊しようとする漢字教育が(一部で)行なわれている。

「と」はでもでも良い
「ふ」はでもでも良い
「そ」はでもでも良い

あの「田」が許容される字なのか!
 
そ……そうか……。
  
話し言葉というのは、一人一人大きな違いがあります。
もちろん、「明らかな誤り」というのもありますが、「教養のある話し方」「気取った話し方」などその幅は広く、そして基本的には通じれば良いわけです。
そしてまた、時代と共に徐々に変化していくものでもあります。
 
で、本来、書き文字というのも、そういうものだったわけですね。
もちろん、「明らかな誤り」というのもありますが、「教養のある書き方」「気取った書き方」などその幅は広く、そして基本的には通じれば良かったわけです。
そしてまた、時代と共に徐々に変化していくものでもあったわけです。
 
しかし、「活字」というものを作成する時には、そのような多様性を持ち込むことは不可能でした。
なので、「これが標準的であろう」という字体を一つ決めて、(康煕字典という参考文献があったわけですが)それを活字として使うことにしたわけです。
 
だから、活字の文字は、多用な書き文字の可能性の中から一つを選び出したものに過ぎません。
それは「典型的な」ものではあっても、「規範的な」ものではなかったわけです。
 
ところが、活字の普及に伴って、活字の字体こそ正しい字体であるかのような意識が広まってしまいました。
人間の手書きの文字から活字が生まれたはずなのに、今度は人間が活字に合わせることを強いられるようになったのです。
そして、という字を「洒落てるなあ」と感じる感性、文化は失われ、「なんだ間違ってるじゃん」というレベルになってしまったわけです。
 
これは学校関係者にとって他人事ではなく。

これは学校での漢字教育にも問題があると考える。「木偏ははねないが手偏ははねる」といった些末な漢字教育が成されるため、活字を手本とし、活字のように書くことで、誤字の指摘を防ごうとするのであろう。

そうだよなあ。
「ここははねます」「はねません」「出ます」「出ません」なんて、事細かに指摘するもんなあ……。

何千年もの間、漢字圏では文字を筆で書き記してきた。楷書は紙に筆で書くことに最適化された文字である。縦画終端のハネは筆勢にも左右される事象であり、字の「正しさ」とは直接関係がない場合がある。

関係がある場合もあるわけですね……。
 
しかし、そう考えると、「女」っていう字の字体が変わる時(「ノ」の始筆が、「一」の上に出るかでないか)の大騒ぎなんて、全くのナンセンスだったんですね……。
 
考えてみれば、書道家の書については、字体が普通の字と違っても「へえー」ですまされるのに、普段使いの字はだめ、というのはおかしいわけで。
芸術としての書道と、日常の書き文字の間には、本来そんな断絶はなかったはずですから。
 
まあ、私は左利きだから書道とかは関係ないんですけど。
 
とはいえ、今さら「どっちでもいいんだよ」「田んぼの田の+は×でもいいんだ」と言うわけにもいかない(というか、一人でそれをやると、むしろ将来子どもの恨みを買いそう)ですが……。
 
国語審議会などで、そういう方針を打ち出していく必要もあるのかも知れません。*1
しかしながら、多様性があってなお、「誤った字」というのは当然存在したわけで、本来、「許される異体字(……という表現自体不適切なのかも)」と「誤字」を見分ける力を、教員が持っていなければならないのですね。
 
うはー。
それは大変すぎだ。
 
……してみると、私が良く
「K村先生、この字は間違ってます」
って指摘されてた字も、実は正しかった可能性が……。*2

*1:いや、方針だけでいいから。
「ここまでは許される」
とか、余計なこと言わなくていい。

*2:ねえよ。