歴史の必然。

権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する。
J・E・アクトン(歴史学者

法則化、正式には「教育技術の法則化運動」は、向山洋一氏によって創始された教育運動です。
 
その基本的な理念は、「技術の共有」にありました。
 
教員養成大学では、教育関連法規や児童心理学等々を教えてくれます。
しかし、それは(必要ではありますが)教育の現場で直接役立つものではありません。
 
道路交通法の知識だけ教わっても、自動車を運転できないのと同じです。
 
そして、現場で必要とされる、
「どうやれば跳び箱を跳ばせられるか?」
「どうやれば音読を上達させられるか?」
「どうやれば静かに整列させられるか?」
「どうやれば適切にケンカを仲裁できるか?」
といった細かく多様な技術・知識は、教員が各自に研究し、会得するしかないのです。
 
この結果、同じような技術が、何度も何度も違う教員によって再発見され続けていることになります。
 
料理にたとえるなら、
「米はといでから炊いた方がおいしい」
「肉に火を通しすぎると固くなってしまう」
といった基本的な知識が共有されておらず、料理する一人一人が試行錯誤の末にいちいち発見しているようなものです。
 
大変な無駄です。
 
こういった「片々の技術」を全国の教員から集め、共有できれば、膨大な時間と知的エネルギーを節約できます。
そうなれば、その余ったエネルギーを既存の技術の向上に振り向けることができるわけです。
 
そして、知識の共有と、相互の交流による絶え間ない進歩によって、やがては教育界全体の水準を大きく向上させることができるのではないか?
 
これが、法則化の理念でした。
 
でした。
 
この時点では、「法則化運動」というのは、「知識の共有を進めるべきだ」という一つの見解であり、そのための枠組みに過ぎません。
言うなれば、「情報公開推進委員会」とか「アカウンタビリティ向上運動」とか、そういったものと同様です。
 
その中で、「何を共有するか」という中身自体は、当然、その時々に変化するわけです。
 
したがって、「法則化の教育理論」というものは存在しない、というのがおわかりだと思います。
 
さて、法則化の主張に従えば、法則化の活動に賛同することは、しないことよりも優れています。
なぜなら、先人が築いた業績を活用することができるからです。
 
先人の業績を無視してわざわざ自分で基礎的な技術を再発見しようとするのは間違っています。
 
これを、法則化では「我流」と呼んで批判しました。
 
向山氏は、よく、「守・破・離」という、稽古事の三段階を引き合いに出します。
 
「守」とは、師匠の教えを忠実に守り、それを身に付けるべき段階。
「破」とは、師匠の教えを身に付け、今度はそれを積極的に越えていこうとする段階。
「離」とは、自分なりのやり方を確立し、師匠の教えとも、それとの対立も越えた段階。
 
このうち、基礎である「守」がなっていないのに、自分独自のやり方を押し通そうとしても上達は望めない、というのです。
 
まあ、もっともではあります。
 
しかし、法則化運動とは、多数の教員が、知識・技術を共有するための運動です。
 
そこには、「師匠」にあたる人も、「師匠の教え」というべき統一された理論もないはずです。
 
ないはずです。
 
「教室ツーウェイ」という、法則化運動の雑誌があります。
「ツーウェイ」という誌名は、上意下達・中央集権型の一方通行の教育文化ではなく、
「すぐれた教育技術の共有財産化をめざす、誌面を現場教師に開放した新しいシステムの雑誌」
であることを意味しているのだそうです。
 
まあ、それはいいんですが。
 
実際にそれを開いてみると。
 
連載記事に、
「初めての向山型授業」
 
ってのがあります。
 
向山型授業、というのは、主に
 
向山型国語
向山型算数
向山・小森型理科

 
あたりのことを指します。
(あと多分、「向山式跳び箱指導」とかも)
 
言うまでもないことですが、法則化運動の創始者向山洋一氏が開発し、提唱した授業の方法論です。
 
「ツーウェイ」をぱらぱらとめくると、同誌は確かに全国の教師からの投稿記事が主です。
しかし、その中に「向山」の名前が出てくるものが過半数
 
そのいずれも、「向山型授業」のすばらしさを賞賛し、「法則化の教育理論」の有益性を説明するものばかりです。
 
つまり、いつの間にやら、法則化運動は、知識の共有を目指す運動から、「向山型授業普及運動」に変質してしまったのです。
 
向山洋一氏こそ、法則化運動における「師匠」であり、その教えこそ、「守・破・離」の三段階において、まず全国の教師が「守」るべきものなのです。
 
念のために付け加えると、「法則化の理論」とされるものには、
 
根本式体育
酒井式描画指導法
佐藤式工作
TOSS道徳
TOSS型英会話

 
などがあり、「ツーウェイ」も、どれもこれも「向山型」ではないのですが。 
ただ、「向山批判」みたいなものは影も形も見えないのだけは間違いありません。
 
なんという中央集権。
 
私自身は、向山氏は優れた授業実践家だと思いますし、向山式授業も確かに有効な方法論の一つではあると思います。
「学級崩壊で苦しんでいましたが、法則化がクラスを崩壊状態から救ってくれました」
みたいな記事も、それ自体は真実なんでしょう。
 
ただ、
「法則化の実践を始めてはみたものの一向に状態は改善せず、苦しんでいましたが、法則化を信じて勉強し続けた結果、やっと授業がうまくいくようになりました。
 今にして思えば、あのときはただ『理解したつもり』で、本当に法則化の理論を分かってはいなかったんだと思います」

みたいなのって、典型的なカルトの論理だと思います。
 
「〜〜宗が私を救ってくれました」
「〜〜宗に入信したものの一向に状態は改善せず、苦しんでいましたが、〜〜宗を信じて修行し続けた結果、やっと物事がうまくいくようになりました。
 今にして思えば、あのときはただ『理解したつもり』で、本当に〜〜宗の教えを分かってはいなかったんだと思います」

みたいな。
 
つまり、「やってみたけどうまくいかない」という批判を封じ込めるものなわけですね。
 
現状、法則化のポータルサイトである「TOSSインターネットランド」には、推薦を受けたサイトしか登録することができません。*1
そして、その中身がこれまた「向山式」の嵐。
 
「自由な知識の持ち寄り」であれば、様々な方向性の授業があって然るべきでしょうが、実態はさにあらず。
 
例えば、法則化のエネルギー教育では、
二酸化炭素排出削減のため、原子力発電の推進が必要」
というのが、圧倒的な多数意見です。
 
だって、向山氏がそう言っているから。
 
いや、私も、「原子力=悪」みたいなことが言いたいわけじゃありませんが、原発推進派の主張しか採り上げられないというのはいかがなものか。
 
言論の自由はどこへ行った。
 
いや、
「最初は、新エネルギー発電で問題を解決できると思っていたけれど、向山先生のお話を聞いて間違いに気付きました」
……みたいな話はありますよ?
 
ゲーム脳の恐怖
とか
「きれいな言葉をかけると水の結晶がきれいになり、悪い言葉をかけると水の結晶が汚くなる(『水からの伝言』。波動がどうこういう本)
とか
「精白糖で子どもがキレやすくなる」
とかいう疑似科学が法則化の中で猖獗を極めているのも、根本的には向山氏がそれを認めたからです。
 
向山氏の意向=法則化の意向になってしまった結果、法則化運動内部では、まともな自浄作用が働かなくなってしまったわけです。
 
100マス計算に批判的なのも、向山氏がそれに批判的だから。
 
というか、法則化以外の教育運動に対しては、法則化はほぼ常に敵対的です。
他の教育運動にも所属していたために、TOSSの地域支部から追い出されるなんて話も当たり前にありますし。
 
本来なら、
「じゃあ、君が勉強した知識を、TOSSを通じてみんなに公開してね」
ってことになるはずだったのに……。
 
「知識の共有」を謳う団体が、かくも排他的とは。
 
繰り返しになりますが、向山氏が愚かだとか邪悪だとか言うわけではなく。
むしろ、優れた教師だった(定年退職している)し、教育に対する熱意も人一倍だと思います。
 
しかし、「ピーターの法則」というものがあります。*2
 
向山氏は教室ではきわめて有能な実践家だったのでしょうし、職員室で各種の校務分掌をとりしきる中でもそうだったのでしょう。
しかし、世の中、「独裁者」というポストの仕事を充分果たしうる人間などほとんど存在しないのだと思います。
 
それなのに、「法則化運動」が、向山氏に疑念を抱くことを許さない世界になってしまった、というのが、法則化の悲劇であり、教育界の悲劇であり、向山氏の悲劇ではなかろうかと思います。
明治図書(「ツーウェイ」の会社)から、
「教え方のプロ・向山洋一全集」だの、
「向山実践の原理原則を究める」だのが出版され、
TOSS事務局で「TOSS授業技量検定」*3だの「向山一門」だのが制度化されるという状況では、法則化が本来目指していた「知識の共有」という理念は完全に崩壊したと言えるでしょう。
 
少なくとも、現状は「向山氏が死んだら法則化はどうなるのか」って心配になるような状況なので。
本来なら、一人や二人参加者が死んだところでどうにかなるような運動ではなかったはずなんですが、法則化。
 
もちろん、TOSSの本を買ったり会員になったりしている人が、みんな向山信者なわけではありません。
かくいう私も、「ツーウェイ」を定期購読していた時期があったわけですから。
 
ただ単に、向山氏を批判する記事は「ツーウェイ」に決して載らないだけです。
 
「守」はあるけど、「破」と「離」はどこへ行ったのか。
 
ネットには、向山氏の運動方針に疑念を示す記事もあります。
 
TOSSの弱さ
http://deztec.jp/design/06/07/02_toss.html
 
例として挙げられているのが「鏡の法則」だ、というあたりがもはやどうにもならない世界なんですが……。

向山型算数をはじめとする各種指導法などを、TOSS と縁もゆかりもない人が書籍や雑誌で勝手に紹介することに目くじら立てるべきではなかった。

というあたりには、もはや知識の共有もへったくれもなくなっている、という現在の法則化の排他主義が見て取れようかと思います。
 
「知識の共有」という本来の目的に対して、インターネットは極めて強力な武器になり得たはずで。
TOSSインターネットランドの運営開始は、最大の(そしてたぶん最後の)好機だったはずなんですが……。
 
実態としては、むしろ閉鎖性を高め、「水からの伝言」みたいなトンデモ実践が、批判を受けずに増えやすくなる土壌を作っただけかも知れません。
 
ともあれ、法則化運動は、当初の理念通りに活動を続ければ、もっともっと大きな成果を挙げ得たのではないか、と思います。
 
知識が共有されておらず、毎年毎年膨大な知的労力が無駄遣いされている、という教育界の抱える問題は、依然として解決されていません。
 
知的遺産の次の世代への継承を使命とする教育界において、まさにそれがなされていないのです。
 
そして、それの解決を掲げ、活動を開始した団体が、かつて存在したというのに……。
 
ああ、悲しいかな。
 
悲しいかな。

レーニンの死後、スターリンはソヴィエトに独裁体制を敷いた。
 
そして、スターリンは、自らの死の直前、フルシチョフを呼び、二つの封筒を渡してこう言った。
 
「お前は、私が死んだ後、ソヴィエトの指導者となるだろう。 そこでこれをお前に託す。もし、政治的な危機に直面したら、この封筒を一つずつ開けるのだ」
 
そして死んだ。
 
スターリンの死後、ソヴィエトの最高権力者となったフルシチョフだが、やがて政治的な求心力を失い、危機に立たされた。
 
そこでフルシチョフは「第一の封筒」を開けた。
 
中の紙には、
「私を批判せよ」
とあった。
 
そこでフルシチョフは、スターリンの独裁体制と、その下での大粛正を(自分も関与していたことは伏せて)批判し、レーニン廟にレーニンとともに保存されていたスターリンの死体も焼いてしまった。
これがいわゆるスターリン批判で、世界を驚かせ、西側との雪解けをもたらした。
 
しかし、食糧政策の失敗などから、やがてフルシチョフは再び政治的危機に直面した。
 
そこでフルシチョフは「第二の封筒」を開けた。
 
中の紙には、
「君の後継者に二つの封筒を渡せ」
とあった。

 
……そういや、向山氏の法則化運動運営って、学生運動の指導者だった時の経験がかなり生きてるんだよな……。
 

*1:ちなみに向山氏は、「法則化運動は21世紀になったら解散する」と常々宣言していました。
どんな運動であれ、時代とともに陳腐化するのが当然だからです。
 
で、西暦2000年、法則化は解散して、「TOSS(Teacher's Organization of Skill Sharing)」として「発展解消」したわけです。
 
現在では、ポータルサイト「TOSSインターネットランド」の運営により、より多くの教師が法則化の理論に触れられるように……
 
法則化運動は解散したはずですが、「法則化」って言葉は、「ツーウェイ」の記事を含め、TOSSの人の間でもいまだに普通に使われているので、やっぱり法則化と言っても間違いではないと思います。

*2:私なりに説明すると、
「人間は、現在のポストの仕事を充分こなせる場合、もっと上のポストに就けられる。
 就いたポストの仕事を充分こなせなる段階(無能レベル)に達した時、出世が終わる。
 従って、組織はやがて“無能レベル”に達した人間で埋め尽くされる」
 というもの。
 南カリフォルニア大学の教育学者、ローレンス・J・ピーターの提唱による。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

*3:A表審査の審査官は、五段以上の3名、もしくは向山氏。
A〜C表のライセンス検定(セミナー)の開催が可能なのは、向山氏がいる場合、もしくは認めた場合。
……向山氏が死んだらどうなるんだ、ほんとに。