歴史と伝統。

「丼ぶり」のことを先日書いたわけですが。
今年度の本校の運動会のプログラムを見ていて、「組み体操」という種目を発見。
くみみ体操。
なんかかわいい。
 
さて。
小学校第二学年の国語で、主語と述語について扱います。
 
日本語では、「は」「が」といった格助詞が存在し、これが体言(名詞・代名詞)に下接して主語を作ることになっています。
 
「僕は太郎だ」
「花が咲いた」
のように。
 
で、以前とある教育書を読んだら、これをわかりやすく教えるために、「いろはにこんぺいとう」(「さよなら三角」とも)を使う、というアイデアが示されていました。
 
この言葉遊び、いろんなバージョンがあるようですが、大抵は最後が
「光るは親父のはげ頭」
になることになっています。
 
この言葉遊びを授業に取り入れることで、子どもたちは興味を持って主語と述語の関係について学ぶことができるでしょう。
 
いやちょっと待て。
 
じゃあ、
「光るは親父のはげ頭」
の主語は「光る」なのか。
 
そもそも「光る」は体言じゃないぞ。*1
 
実のところ、「は」や「が」がつけば主語、というのははなはだうさんくさいのです。
この辺、「春はあけぼの」「東京は神田の生まれだ」「ぼくはうなぎだ」などいろんな例があるのですが、うっかり変なことを書いて国文法に詳しい人に突っ込まれると嫌なのでこの辺で。
 
というか、「そもそも日本語には主語はない」というのが、国語学研究の世界ではむしろ主流の考え方のようです。
 
国文法論の世界には、山田文法、松下文法、橋本文法、時枝文法という、いわゆる「四大文法」の学派があります。
その他にも、構造主義言語学とか生成文法とか。
 
で、学校で習う、
「日本語には主語があるが、自明である場合には省略される場合がある」
とか
「『彼は健康だ』の『健康だ』は形容動詞(一語)だが、『彼は健康体だ』の『健康体だ』は、『健康体(名詞)』+『だ(助動詞)』(二語)である」
とかいうのは、橋本文法の見解です。
 
ちなみに「健康は大切だ」という時の「健康」は名詞(主語)なので、「健康」と「健康な」は、見た目はよく似ている別の語扱い。
 
橋本文法は、橋本進吉博士が昭和初期に打ち立てた文法理論を基礎にしています。
 
明治以後、日本には欧米の様々な学問が一挙に流入してきました。
その中には、英語文法論もありました。
 
これに、明治の知識人は衝撃を受けました。
 
それまでにも、本居宣長の「古事記伝」みたいなものはありましたが、それは乱暴に言えば「“親子丼ぶり”という表記はおかしい。なぜなら……」みたいな「日本語誤用辞典」の巨大なものに過ぎませんでした。
ラテン語を初め他言語との史的関連を念頭に、系統的に組み上げられた英語学研究には、比肩すべくもない物だったのです。
 
言語は文化の基盤です。
「和魂洋才」とはいいつつ、その「和魂」についての理解が十分でないことに気付いた明治人たちは、日本語研究に乗り出すことになります。
 
そうして、先行するいくつかの文法論を踏まえつつ、日本語の形式的側面に特に注意を払った国文法論である、橋本理論が発表されたのです。
 
しかし、当時の文法論は、当然の事ながら英文法の多大な影響を受けていました。
「主語」「述語」「名詞」「動詞」といった概念自体、英文法から移入されたものです。
 
一方で、日本語は英語ではありません。
日本語の文法を、「英文法の特殊なもの」と見なせば、色々無理が出ます。
橋本文法にも、すでに挙げたような不自然なところがいくつも指摘されています。
 
しかし、ここで橋本博士を批判しても仕方ありません。
氏は、その当時としては十分以上の成果をあげたのであって、その業績は間違いなく偉大なものなのです。
 
……おかしいのは、それが戦後六十年経っても教科書に載り続けていることであって。
 
それも、
「今さら変えるわけにはいかない」
みたいな理由で。
 
で、実のところ、話はここで終わりではないのです。
 
私が教員採用試験を受けている時、幸運にも、隣の家に住んでいるのは定年退職した小学校教員の夫婦でした。
 
で、奥さんは元音楽の先生で、家にピアノが。
それで、試験のためにピアノを教えてもらっていたのです。
 
それで、その時、学校の音楽の教科書のコピーを持って行って練習していたんですが。
「さくらさくら」かなんかの楽譜を見ながら説明している時、その先生、ちょっと眉をひそめました。
 
陰旋法と陽旋法とか、和楽のことがちょっと解説されている一文を見て。
 
「あー……。この教科書は、こういう説明になっているわけね」
「は?」
「いえね、ここに書いてある和楽の理論は、明治時代に洋楽の影響を受けてできたもので……」
 
なんか、どっかで聞いたような説明なのです。
 
どうやら、大昔の理論がそのまま訂正されずに載り続けているのは、国語だけではなく、音楽の教科書もそうであるらしく。
 
この時以来思うのですが、実のところ、教科書に書いてある事って、それぞれの分野の専門家から見ると、かなりの部分がすでに時代遅れなんじゃないでしょうか。
それも十年二十年どころか、半世紀以上。
 
明治人が見たら泣くんじゃなかろうか。

*1:「光るもの」が省略された形だ、とか言う人がいるとややこしいので言わないように。