見れども見えず。

先日、子どもたちがグランドでじゃれあっていました。
 
それをわたしがぼんやり眺めていると、隣にいたH教諭が一言。
 
「レベルが低いなあ……」
「は?」
「遊びのレベルが低いよね」
「……というと?」
 
H教諭、すべり台で遊んでいる子どもたちを指さし、
「あっちの子たちはまだいいんだ」
 
そこでは、スロープを下からよじ登ろうとする子たちと、上にいてそれを邪魔しようとする子たちがいて、きゃあきゃあいいながら遊んでいます。
 
「あの子たちの中では、漠然とではあるけれど、遊びのルールがみんなの中で共有されている。つまり、みんながある一つのゲームを遊んでいるわけだ」
 
そして、グランドでじゃれあっている子たちを指さします。
 
「あの子たちはそうじゃない。
どの子もぶらぶらしたり、とりあえず近くの子にのしかかってみたり、つかまえてみたり、つきとばしてみたり、要するにお互いちょっかいを出し合っているだけだ。
つまり、『どうやって遊んだらいいかわからない』子たちなんだな」
「な……なるほど」
「で、その結果起きてくるのが、ちょっかいの出し合いがエスカレートして取っ組み合いになるとか、弱い一人の子にみんなでのしかかってみるとか、だれか一人の帽子を取り上げて、取り返そうとするのをみんなで邪魔していじめるとか、そういう非社会的な状況なんだな」
 
その通りの状況が目の前で展開されます。
 
「……で、そこでああして仲裁に入る子は、まだしもマシなんだけどな」
 
全然そういう視点で見ていなかった私。
 
「もう高学年なんだから、もっとレベルの高いことをやって欲しいんだけどな……」
「どうしたらいいんでしょうか? 集団遊びのやり方、みたいなものを教えていく必要があるんでしょうか」
「そうだねえ……。
昔は、地域にガキ大将がいて、年齢の幅の広い遊び集団があって、低学年の子もその中で集団のルールを身に付けることができた。
しかし、現代ではそもそも子どもが少なくなっているし、テレビゲームの普及や防犯上の配慮から、屋外での遊びの機会も減ってきている。
一方で、集団生活のルール、というのは、放っておいて身につくものではないから、やはり、教師が一緒に遊んで、ガキ大将の代わりを務めることが必要になっているのかも知れない」
 
私、集団遊びに教師が参加するのって、ケンカを仲裁するとか、友人関係をつなぐ手助けをするとか、そういう程度にしか考えていませんでしたけど……。
 
ともあれ、プロの教師の視点、というのは、私とは全然違うレベルまでものを見られるんだ、と、再認識した次第です。