愛国心と教育について(2)

そんなわけで、愛国心教育関係の続きです。
 
前回はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060312
 
国民が愛国心を抱くことのメリットとはなんでしょうか。
 
愛国心教育」について書こうと思ったきっかけは、しばらく前、以下の記事を読んだからです。
 
はあちゅう主義。:小娘が何か言ってます。
 
まあ、この記事に対して言いたいことは山ほどあるわけですが、ここで主張されている「愛国心」のメリットは、
 
愛国心を持った国民が増える→愛国者達は社会の発展に尽くす→国力が増大する
……ということです。
 
あと、それに加えて、
愛国心がないと、国力は上がらないから、資源のない日本は簡単に植民地化されちゃうであろう。」
という、国防上の危機感も孕んでいるわけですが。*1
 
これに限らず、愛国心の必要性を主張する人たちの意見をざっと見ると、その結論は、とどのつまり「愛国心は公共心の基盤である」といったところに落ち着くと思います。
 
「公共心」の定義は様々あるでしょうが、私としては、
「みんなのために、自分の持つ何かを犠牲にしようという心」
だと理解しています。
 
「何か」は、時間であったり、労力であったり、財産であったり、精神的快楽であったり、身の安全であったり、時には生命であったりします。
 
「ごみはポイ捨てするのではなく、ゴミ箱に捨てよう。そして、きちんと分別しよう」……というのは、ささやかな労力の犠牲。
高額納税者になっても、*2税金はきちんと払おう」……というのは、財産の犠牲。
「幼い子どもに救命ボートの席を譲ろう」……というのは、生命の犠牲。
 
人間が社会的動物であり、これまで繁栄を保ってこられたのはその社会性の故です。
それを思えば、公共心は人類社会にとって必要不可欠な感情であり、それを涵養することは全ての教育者の義務であること、言うを待ちません。
 
公共心は道徳の基礎なのです。
 
それゆえに、公共心の基盤となる愛国心を学校で教えることもまた、必要不可欠……というのは、論理的飛躍です。
そう思ってない人も多いみたいですが。
 
愛国心が公共心の「唯一無二の」基盤である、とは限りません。
 
愛国心→公共心」とよく似た図式が、「宗教→道徳心」の間にもあります。
 
欧米のキリスト教文化圏では、道徳の根源は神であると見なされています。
全能にして善良な神が、常に我々の行いを見守っており、そして我々は皆、死後に生前の行いの裁きを受けるのだ、という感覚が、人間に善行を行わせるのだ、というわけです。*3
 
もちろん、ほとんどの国では信仰の自由が憲法で認められていますが、それは「異教」を容認する、ということであって、宗教を持たない人間は道徳規範を持たないものと理解されます。
 
道徳心は人間にとって不可欠なものです。
宗教が、道徳心の基盤なのも事実です。
 
しかし、地獄の業火の恐怖に脅かされなくとも、人間は道徳規範を持ちうる、ということを、我々日本人はよく知っています。
信仰心薄い日本が、ほとんどどのキリスト教文化圏よりも低い犯罪発生率を誇っていることが、その証明でしょう。
 
なるほど宗教は道徳心の基盤ですが、唯一無二の基盤ではないからです。
 
道徳心を涵養するには、もっと他の方策もあり得るし、日本人はそうしてきました。
 
「日本では、宗教教育はどのように行っているのですか?」
「ええ? いえ、日本の学校では宗教は教えませんよ」
「教えない? では、道徳教育はどうしているのです」
 
……という問答が、新渡戸稲造に「武士道」を書かしめたように。
 
もちろん、「宗教」「武士道」どちらも、特有のメリットとデメリットがあります。
もっとデメリットの少ない方法はないのか、工夫することも必要でしょう。
 
だから、「愛国心は道徳の基盤だ」という主張に対しては、「他に方法はないのか?」という疑問が当然起こります。
そしておそらく、他の方法はあるし、もっとデメリットの少ない方法を工夫する余地もあるはずだ、と思うのです。
 
続く。
http://d.hatena.ne.jp/filinion/20060405
 
*それはそうと、神社本庁をはじめ、宗教関係諸団体は、今回の教育基本法改正案に反対だそうです。
というのも、現行の、公立学校における宗教教育の禁止、という規定に彼らは反対しているにも関わらず、今回の改正案ではそれが残されているから、だそうです。
……心強い?

*1:……これって、現代人と言うより、列強(帝政ロシアとか)の影に怯えつつ、夜を日に継いで殖産興業・富国強兵に励んでいた時代の感覚のような気がするんですが。
はあちゅうさんって、ひょっとして明治の人なのか。

*2:つまり、税金を払った分だけの公共サービスが受けられないのが自明でも、ということ。

*3:いや、私自身はキリスト教文化圏に住んだことはおろか出かけたこともないんですが。
まあ、そう解説する人は多いし、翻訳小説を読んでいても時折そう感じます。