手が真っ黒です。

自宅で版画を刷ったのです。
 
この時期、児童美術作品コンクールがあり、その出品準備に各担任は追われます。
 
本当は版画なんて学校で刷れば良いんですが、あいにく、学校外で行われる会議にでなきゃならないとか予定がありまして、やむなく道具を持ち帰って自宅で印刷。
 
それも、自分のクラスの紙版画だけでなく、図工を担当しているよそのクラスの木版画も。
 
……と言っても、両方合わせても、大規模校の一クラスに満たない人数ですけど。
 
かつて、大規模校で産休代替として働いた時、35人分の木版画を印刷しているうちに深夜になってしまい、誰もいない校舎の中で泣きたくなったことがあります。
「ベテラン教員ってすごいなあ」と、初めて実感したのがその時だった気がします。
 
だって、他の先生達は、自分よりもっとずっとたくさん仕事を抱えていて、それでいてすでに版画の印刷も終えて帰っているわけですから。
魔法ですか。
 
今なおその状況が変わっていないわけですけど。
 
しかもその時、刷り上がった作品について、「刷り方がよくない」とか言われてがっくりきた覚えが。
版画の刷り方なんて、大学の教職課程で教わらないですよ。*1
 
今年初めて知ったのは、木版画(高学年)より紙版画(低学年)の方が、刷るのが難しい、ということ。
ローラーでインクを付けた時、のり付けが中途半端な部品がローラーにくっついてはがれてくるし。
そもそも「黒くなる」はずの面が平らでないので、ただローラーを転がしただけでは思うようにインクが付かないし。
基本的に何度も刷れる木版画*2と違って、何度も刷っていると模様の紙(凹凸がある)が平らになってくるので、わりと一発勝負だし。
 
勉強することはいっぱいあるなあ、と思いつつ、深夜に単純作業をやっていると、いろんな考えが浮かんできます。
恨みがましいこととか。
 
……インクの臭いを吸いすぎたせいか?
 
で、今回書こうと思ったのは、こういう作品展には功罪ある、ということ。
 
「功」の面としては、とにかくもらう賞状の数が増えると言うことで。
なんにしても、表彰される機会が増えるということは子どもたちの意欲を高めるのに良いわけで。
もし、こういったコンクールが全然無かったら、図工が得意な子どもが活躍するチャンスが減ってしまうでしょう。
 
「罪」についてですが、こういうコンクールへの出品が、学校の図工科教育のカリキュラムを圧迫している、ということで。
どうしても、コンクールの前の図工の授業は、それに出品するための作品制作、という活動になってしまい。
そもそも図工の授業時間は少ないですから、かなり長い期間、コンクールのための活動をやることになります。
版画なんて、そもそも教科書には載っていないことさえあるんですが、「コンクールに出すから」という理由で取り組むことになります。
 
プロであれば、コンクールに向けて制作、ということもあるのかも知れませんが、学校教育活動はそういうものなのかどうか。
(この辺、「野球部は大会に勝つために練習するのか」という話に近いですね)
 
特に、低学年の場合、素材や道具、画材に親しむ、というのが、本来の活動で。
そうすると、結果としてできるのはなんだかぐちゃぐちゃごちゃごちゃした、有り体に言ってゴミとガラクタの中間点に位置するような作品なんですが。
でも、そうやって、工作用紙、画用紙、折り紙の違いや、様々な道具の扱い方、絵の具を混色した時の性質などを学ぶのが、後々大切になってくるのです。たぶん。
 
……みたいな感じで、「作品展批判」をやろうと思ったんですけど。
 
でも、考えてみれば、コンクールを実施する団体に、「版画部門をやめろ」とは言えないわけで。
 
誰かが、
「我々の手で、児童金属彫刻コンクールを開こう!」
とか思い立った時、それを
「教科書に載ってないからやめろ」
と言ってやめさせようとするのは、むしろめちゃくちゃ頭の硬い人ですから。
 
そうなると、問題はむしろ、参加しなくてもいいコンクールに、「例年参加しているから」みたいな理由で、学校ぐるみで参加を決定してしまう学校側にあるんでしょうか。
 
ううん。
「無理して出さなくてもいいのにねえ」……って言っている人はいっぱいいるんだけどなあ……。
 

*1:表面の木屑は確実に払っておく。
インクは中央から付ける。
ばれんは、中央から、円を描くようにして、三回こする。
次に、半分だけ紙をめくって、インクが薄いところにインクを付け直す。
紙を戻し、反対側をめくり、同じようにする。
もう一度ばれんでこする。

*2:と言っても、何度も刷っていると細い線なんかはインクでつぶれてくる。