男女七歳にして。

 最近、両親のアルバムから自分の子どもの頃の写真を見つけてちょっとびっくりしたこと。
 
 自分が小学生だったころの集合写真を見ると、男子と女子が分かれて並んでいるのです。
 
 入学式に始まり、各学年の遠足、修学旅行など、全部。
「向かって右側が女子、左側が男子」とか、「前列で座ってるのが女子、後列で立ってるのが男子」とか。
 
 今、「遠足 集合写真」とかでググると、集合写真を載せてるサイトがたくさん出てきますが(それはそれで心配なんだけど)、そこまで男女をくっきり分けて整列させてるのはほとんどないように思えます。
 
 そういえば、今は名簿も男女混合だけど、当時は違った気がします。
 全然意識したことはなかったけど、時代は変わっていたんだな、と……。
 

ブルゾンちえみの「キャリアウーマン」が、フェミニズムの観点からどうなのか知りたい。

 今さら説明するまでもないと思いますが、「35億」で有名な、お笑いタレント、ブルゾンちえみ氏のコントの話。

 これを初めて見た時、
「これは……笑っていいのか? 政治的に正しいのか?」
 と脳がフリーズしてしまったのを覚えています。
 
 思いつく限り、主な論点は以下のようになるでしょうか。
 

差別にはあたらないと思われる根拠

 
・劇中の「キャリアウーマン」は、明らかに鼻持ちならない人物である。社会的弱者とも言えない。そういう「意識高い系の強者」の滑稽さを笑いものにするのは差別にはあたらない。
・このネタを考えたのは、ブルゾンちえみ氏自身で、氏は女性である。内容としても女性一般をネタにしたものではない。だから、女性差別とは言えない。
・劇中の「キャリアウーマン」は、一人の男性にこだわるべきでないと言っている。これは「女性は一人の男性に尽くすべき」という封建的、父権主義的な価値観に対抗する、女性に自由をもたらす主張である。
 

差別ではないかと思われる根拠

 
・本作は、「効率的な仕事ぶり、充実した生活」を送る女性……「キャリアウーマン」をカリカチュア化している。それは差別にあたるのではないか。
・あたかも、キャリアウーマンは意識高い系で「男はガムと同じ」と言い放つような人物だ……というかのような表現は、誤ったステロタイプではないか。
・仮に、本作の「キャリアウーマン」の恋愛観が、女性の望ましい姿であるとするなら、それをネタとして笑うことはやはり差別的ではないか。
・本作は、多数の男性を含む審査員・視聴者受けを狙って制作されたものである。だから、作者であるブルゾンちえみ氏が女性であることは、内容が差別的でないことの根拠にならない。
 
 個人的には「差別なのでは」に傾いているのですが、好意的な意見もあるのですよね。

キャリアウーマンになれば、交際相手に記号的価値や経済的な利用価値を男性に求めなくて済む。そうなれば、恋愛における自由度が増す。
(略)
ブルゾンちえみ演じるようなキャリアウーマンが増えれば、経済的に不安のある若年男性にとって、女性からの「男性の経済的能力を値踏みする視線」から解放されることになる。

「ブルゾンちえみ」が気になる理由をまじめに考えてみた | GLOBIS 知見録

 つまり、ブルゾンちえみ氏の演じるような女性像は、男女双方にとって理想的なものであり、それゆえに受けたのだ、と。
 
 ううむ。
 
 思うに、女性が、一部の「意識高い系キャリアウーマン」を指して
「ああいう女ヤだよねえ」
 って笑ってる分には、差別にあたらないと思うのですよ。
 
 一方、男性が
「そうそう、キャリアウーマンってこういうおかしな連中ばっかりだよな」
 って笑ったら、それは差別になってしまう。
 
 では本作は、誰が誰をネタにしているのか?
 女性が一部のおかしな女性を笑う構図なのか?
 男性が働く女性一般を笑っている構図なのか?
 フェミニストの人たちはどう考えているのか?
 
 そのあたりを考えてずっと困惑しているのです。
 
 まあ、なにぶんフェミニズムにも様々な立場があるそうなので、これときまった答えはないのだと思いますが。
 それでも、フェミニストの立場からはあれはどのように解釈されるのかな、と、気になっています。
 
 ……余談ながら、このコントの存在を私に教えてくれたのは、自らも働く女性であるところの最愛の妻でですね。
「これ面白くない?」
 とスマホを見せてくれたものの、画面を凝視して硬直してしまった私を見てこれまた困惑、という。
 

魅力的であることと性的であること。

 なんか、キズナアイ周辺が一部で炎上してるようですけど……。
 
 キズナアイのデザインがどうか、といったら、そりゃまあ、あんなヘソの見える服でそこらをうろうろしないだろうな、とは思います。女の先生があの服で授業したら保護者大顰蹙でしょう。
 でも、「女性が時にはああいったファッションを選ぶ自由があっても良いのでは」という女性の意見があるのもわかる。
 そこへ「そういう服を着ているのは男を誘っているのと同じだ」とか言うべきではない。
 アイドルの衣装、と考えれば、ああいう服でテレビに出る人だっているし、それを魅力的だと考える人は女性にもいるでしょう。
 
 さて、そこへ、判断基準として「魅力的に見えるのは良いが性的に見えるデザインはNGなのだ」……と言うのは簡単です。
 でも、それって実際どこまで切り分けられるものなんでしょう、というのがこの記事の趣旨です。
 
 例えば人間は、(男女問わず)より左右対称に近い顔を「美形だ」と感じますが、一説にはそれは、体が左右対称に近いのは遺伝的な異常がないことを示すからだとか。
 言い換えると、「この人の顔はきれいだなあ」と思った時点で、潜在的には、相手を子孫を残すための相手として評価していることになる。
 きれいな顔、というのはもうそれだけで性的なのです。ある意味では。
 
 より直接的には、「男性は排卵期の女性をより魅力的だと感じる傾向にある」という研究もあります。(https://shigotonadeshiko.jp/157170
 その時期の女性は、瞳孔が広がり、肌のつやが良くなるんだとか。(同時に、その時期の女性は「美形」に……遺伝的な異常の少なそうな相手に引きつけられやすくなるのだとか)
 
 言い換えれば、綺麗な肌は「自分は元気な子どもを生めますよ」というサインを体が発しているとも言える。
 その肌を持ってる本人には全くその意図はないとしても。
 
 人間の美意識は、文化的な影響も大きいとはいえ、進化の過程で獲得してしまった本能も多分に含まれています。
 私たちの文明にとってはまったく不合理な話ですが、他人を美しいと思うこと、自分を美しく見せることを、性的な含意と切り離すことはおそらく不可能だと思うのです。
 
 そう感じるのがダメだ、左右対称の顔を、つやのある肌を美しいと感じるのは性的なまなざしであり差別だ……と言っても、それは人間には難しいことだと思います。
 逆に、「女性が肌の手入れをするのは男性に性的なアピールをするためだ」などと評するのも理不尽な話でしょう。
 そういう批判は、事実上、相手が人間という生き物であることを批判しているも同然になってしまう。
 
 キズナアイに話を戻すと、なるほどキズナアイは「魅力的」にデザインされているかも知れない。
 ヘソも腋も太ももも見えています。
 おまけに前髪以外は完全に左右対称の顔をしているし(ポリゴンモデルだから)、瞳孔は大きいし肌はシミひとつない(テクスチャだから)。
 つまり潜在的に「性的な」含意がある。
 
 しかしそれが許されない、と言い出してしまうと、究極的には、男も女も、二次元でも三次元でも、みんなブルカをかぶるべき、という話になるのではないでしょうか。
 あれなら無意識に性的なアピールをする怖れはほとんどなくなるから安全。
 
 でも、それが幸福な社会なのか、と言うと……どうなんでしょうね。
 
 繰り返しになりますが、「性的なものに魅力を感じるのは本能だから良いのだ!」などというつもりは全くありません(むしろ我々の本能はしょっちゅう我々に迷惑をかけていると思う)。
 しかしとにかく「人間はそういう不合理なものを抱えている」という事実を認めて、その不合理さにどう対処していくか、どう折り合いをつけるかを考えるべきなのであって、「不合理であること」自体を批判しても解決は不可能なのではないかな、と思います。
 
(余談)
 私は常々、「人間がミミズやカタツムリみたいに(あるいはナメック星人みたいに)雌雄同体の生き物だったら、どんなに話は簡単だったろう」と思ってきたんですけど。
 でも、ナメック星人社会であっても、「魅力的であることと性的な含意をどう切り離すか」という問題は残るのかも知れないですね……。

汎用人工知能と、特化型天然知能。

 最近読んだ本から、人工知能について知ったり考えたりした話。
 
働きたくないイタチと言葉がわかるロボット  人工知能から考える「人と言葉」
働きたくないイタチと言葉がわかるロボット 人工知能から考える「人と言葉」
 
 人工知能に言語を学ばせるとはどういうことかについて、音声認識の技術から、言葉の「意味」の理解に関する技術までを概観した本。
 
「自分たちの代わりに働いてくれるロボットが欲しい」
 と考えたイタチ村のイタチたちが、開発の過程で様々な困難に直面し、トラブルを引き起こしていく……というストーリーと、ちょっと詳しいコラムが交互に出てくる、一般向けのやさしい本です。
 
 筆者も断っていますが、筆者の専門である言語理解の話が中心なので、それ以外の部分(ロボット工学的な問題とか)はざっくりしています。
 
 単語の意味をベクトルで表現する手法、なんて話はこの本で初めて知りました。
 
 この本を読んで「そうか、なるほど……」と思ったのは、
「複数の言語を教えると誤認識が増える」
 という話。
 
 古い笑い話があります。
 
 外国人観光客が、日本の農村を訪れて、畑の脇に積んである、収穫したばかりの里芋を検分していると、離れたところで作業していた農家の人が大声でこう言います。
「What time is it now !?」
 それで観光客は今何時か教えるのですが、どうも話がかみ合わない。
 
 というのも、本当は農家の人は「掘った芋いじったな!?」と言っていた……という。
 
 こういう誤認識は、もちろん音声言語だけの話ではありません。
 
 例えば、郵便番号を認識する機械なら、0〜9までの数字だけ知ってれば事足ります。
 汚い字で書かれた番号に、「これは2だろうか3だろうか?」と判断に悩むことはあるでしょうが、まあそれくらいのものでしょう。
 
 しかし、もし、この機械に、平仮名やアルファベットを教えてしまうと、
「これは0なのか? oなのか?」
「3なのか? ろなのか?」
 とか、無意味に迷うことが増えてしまいます。
 
 つまり、機械に教える言語を増やせば増やすほど、認識精度は下がっていく。
 そうしないためには、最初から「日本語しか知らない機械」「英語しか知らない機械」というように、特化させる必要がある……というのです。
 
 だから現状では、例えば
「英語でも中国語でもスワヒリ語でも聞き取って、日本語に翻訳してくれる機械」
 というのは現実的でない、と。
 
 ……で、ここからは完全に本の内容とは離れた想像になってしまうのですが、こういう問題は言語に限らないのであろうなあ、と。
 
 IBMのワトソンを各社の業務に利用するにあたっては、それぞれの業務に適合するよう特化させる必要があるのだそうです。
 医療関係なら医療だけ、金融関係なら金融だけ、というように。
 
 以前は、
「なんでそんな面倒なことをするんだろう? 色々な分野を一つの『ワトソン』に覚えさせて、医療にも金融にも法律にも天文学にも、あらゆる分野に詳しいAIを作ったらいいのに……」
 と思っていたのです。
 
 しかし、なるほど、複数分野を一つのワトソンに学習させると、精度が落ちてしまうのだろうな、と理解しました。
(まあ、学習に使った顧客の情報を外部に漏らさないため、ということもあるのかも知れませんが)
 
 自分としては、様々な学術分野に精通し、それらを組み合わせて新しい知見を生み出すことのできる超AI……というようなものに憧れるのですが、それはまだ先の話なのかも知れません。
 おそらく、いずれ人工知能が政策立案とかに携わるようになっても、
 
建設監督AI「産業政策AIからの通達で、今期のCNT割り当ては削減するって」
宇宙開発AI「はあ!? ただでさえ工期遅れてるのに!?」
建設「その代わり来期は割り当て増やすし、今期もSSTOは優先使用していいそうだ」
宇宙「あンの政治BOTども……! 宇宙開発ってのはタイミングが重要なんですよ! 適切な時期を逃したら、後からどんなに資材増やしても巻き返しがきかないんです! 医療用こそ後回しにしたらいいのに……!」
(この間0.02秒)
 
 とかなんとか、専門分野が違う「特化AI」同士が互いに相手の無理解を嘆くような状況が続くのかも知れない、などと妄想しました。
 
 ……それにしても。
「AIがブームだけれど、それは特化型の人工知能に過ぎず、真のAI……汎用人工知能にはほど遠い」
 なんてよく言われますが、ではそもそも人工「でない」知能、我々自身の知能はどの程度「汎用」なんでしょう。
 
 私たちの中には、日本語を解する人も、英語や中国語、スワヒリ語、フランス語、ブルンゲ語、タイ語、その他もろもろの言語を話す人がおり、中には2つ、3つ、あるいはもっと多くの言語を解する人もいます。
 しかし、それら「全て」を理解している人はおそらくいません。
 
 私たちが日常生活で安定して会話できるのは、要するに、私たちが乏しい数の言語しか知らないからです。
 2つの言語が混在する状況では
「掘った芋いじったな!?」
 が誤って認識されかねないように、もし人々が全ての言語を理解してしまったら、おそらく人類はバベルの塔以来の大変な混乱に陥るのではないでしょうか。
 幸か不幸か、それを実験することは不可能ですが。
 
 同様に、私たち個々人は、それぞれ乏しい分野の知識しか持っていません。
 群盲象を評すの喩えがあるように、人類の知識全体という「象」に対して、私たち一人一人は汎用でもなんでもない、全くの「特化型知能」のように思えます。
 
 まあ、だからと言って、ワトソンが人間と同等の汎用性を持っているか、と言えば全然そうじゃないわけですけれども。
 とはいえ、
「今のAIは汎用知能じゃないから人類は安泰!」
 などと威張っていていいのかな、と思います。
 
 ただ単に人類に優越するだけなら、AIにとって汎用性なんてそれほど必要ないのかも知れません。
 

大阪市の教育統計と全国学力テストの話。

 なんか、大阪市が、全国学力・学習状況調査の結果を、校長・教員の給与に反映させるって言ってるらしいんですけど……。
 
 どう考えてもそれは不正の温床になると思うんですよ……。
 
 もちろん、あのテストは全国一斉に行われるものですから、問題などが外部に漏れないよう、学校に送られてきた用紙は厳重に梱包されています。
 
 しかし、実施するのは普通の教室で、試験監督は教員です。
 つまり、「教師は子どもに答えを教えたりしないだろう」という性善説的な前提の上に立って調査が行われているわけです。
 
 なんで過去10年ほどそれでやってこられたかというと、「成績を水増ししても教師の得にならない」からですね。
 いやまあ、自分が担当するクラスの成績が悪ければ、もちろん担任としてはプライドは傷つくのですが、成績を水増しすると、子どもたちの学力……というか、どんな分野が弱いのか、といった状況を正しく把握することができなくなり、指導に活かせなくなる、ということがあります。
 あのテスト、やるの一日がかりですし、実施学年以外も「テスト中だから授業も静かに。休み時間も騒がないように」とか、学校全体としてそれなりに負担です。
 不正をすれば、テスト結果が資料として無価値になり、その苦労が完全な徒労になってしまう、ということから、まあ公正にやっているわけです。
 
 しかし。
 テスト結果が校長や担任の給与に直結する、となると、事情はだいぶ変わってしまいます。
 なにしろ問題は事前に学校に届いてるわけですし。
 試験監督はだいたい担任ですし。
 
 大阪市の子どもたちをみんな別な会場に集めて、学校職員以外の誰かに試験監督をやらせれば、試験中の不正は防げるかも知れませんけど……。
 でも、この記事「大阪市長「学力テスト発言」が危険である根拠東洋経済オンライン)」で懸念されてるような、
「音楽や体育をつぶして、国語や算数の授業を増やす」
「過去問を宿題にする」
 といったことまでは防げないわけで……。
 
 というか、大阪市の教育が、民間人校長の登用などでかなりおかしなことになっている、というのはもうかなり前からですが。
 統計を見るだけでもすでにかなり不安なところがあって。
(以降の記事は「政府統計ポータルサイト」による)
 
 文科省による調査を見ると、大阪府では校内暴力の発生件数が1000人あたり8.2件。
 全国平均が4.4件ですから、ほぼ2倍です。
 
 一方で、いじめの認知件数は、全国平均では1000人あたり23.9件であるところ、大阪では19.0件と、2割くらい少ない。
 
 つまり、
「大阪の子どもは、暴力は振るうけどいじめ事件は起こさない(少なくとも認知はされない)」
 という現象が起きている。
平成25年には、大阪のいじめは全国平均の1/5くらいだったんですけど、今ではそれほど露骨ではなくなったようです)
 
 まあ……そういう子どもの特性なのかなー、と考えることもできますけど。
 
 また、長期欠席の統計を見てみましょう。
 全国平均では、長期欠席の児童は全体の2.07%です。
 一方大阪では、これが2.75%。
 
 つまり、大阪では、小中学生が長期欠席になる率が高い。
 
 ところが、大阪ではそのうち「不登校」とされているのは全体の56%弱で、全国平均の64%より低いのです。
 
 じゃあ何が多いのかというと「病欠」。
 全国では「病欠による長期欠席」は20.6%ですが、大阪ではこれが28.4%と高い。
 
 まとめると、
「大阪の子どもは、他所の子どもよりも長期欠席する率が高い。ただし不登校は全国平均より少なく、病気がやたら多い」
 ということになります。
 
 ……いや……これはさあ……。
 なんか現場に圧力かかってるんじゃないの? と思うんですけど。
 
 すでにこういうことが起きている……疑いがあるわけです。
 
 現場に不用意な圧力をかけると統計が改竄されて適切な政策決定ができなくなる、というのは、かつてソ連が歩み、あるいは日本が「働き方改革」で歩みつつある道なわけですが、大阪の教育もそれに追随しようというのかなあ、と感じます。
 
 ……ていうか、そもそも全国学力・学習状況調査って、時の文科省中山成彬氏が
「日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったのでそれを証明しようと思った」
 と言ってて、調査の結果全然関係ないことがわかったわけなので、無駄金使うのはとっととやめたらいいんじゃないかと思うんですけどね……。 
 

星の王子さまとファシズム。

星の王子さま」に登場するバオバブが、ファシズムの比喩である、という解釈があるのを最近知りました。

ネット上では多くの「星の王子さま」読者が指摘しているように、第二次世界大戦中に発表された同作中でバオバブは「星を壊す」ファシズムの象徴として描かれています。
 
「自称プラントハンターによる「星の王子さま バオバブの苗木」、大炎上により販売中止に」より

https://buzzap.jp/news/20180811-le-petit-prince-baobab2/

 でも、私はファシズム説には懐疑的です。
 
 まず、「バオバブファシズムである説」の根拠を挙げてみましょう。
 
・作者、サン・テグジュペリは、第二次大戦で自由フランス軍の一員として戦った、反ファシズムの闘士である。
・この物語は、「子どもの頃のレオン・ヴェルト」に捧げられている。レオン・ヴェルトは作者の友人で、ユダヤ人であるために当時フランスで身を潜めていた人物である。
・作中、抜くのを怠ったバオバブに占領されてしまった星、で描かれる「3本のバオバブ」は、日独伊の枢軸3ヶ国を表している。

 
 ……つまり作者が言う
「早いうちに芽を摘まないと惑星全体にはびこり、星を破裂させてしまう」
「子どもたちに声を大にして危険を伝えたい」
 バオバブとは、すなわちファシズムのことである……という解釈です。
 
 なるほど魅力的な解釈だとは思うんですけどね……。
 
 でも、私は違う気がします。
 
 理由を幾つか挙げます。
 
1・ファシズムにしては扱いが軽すぎる。
 
 読めばわかりますが、バオバブの話って、「星の王子さま」の最初の方でちょっと登場するだけのエピソードなんですよ。
 
 王子さまは毎朝自分の星を見回るのが日課で、それはおそろしいバオバブの芽が出ていないかを確かめるためでした。
 で、ある時、見慣れない植物が芽を出しているのを見つけました。
 新種のバオバブかもしれない、と思って注意深く見守っていた王子さまは、そこからすばらしく美しい花が咲くのを目の当たりにしたのです……というような話。
 このバラの花こそ、王子さまにとって唯一無二の、愛する相手になるんですけど。
 
 つまり、バオバブは、バラと出会った理由づけに過ぎないのです。
 
 作者は、フランスがナチと講和した後、なおアメリカに亡命してナチと戦った(そして命を落とした)人物です。
 なるほど、反ファシズムの闘士なのは確かでしょう。
 
 だから逆に言って、もし作者が本当にファシズムを意識して書いたなら、バオバブはもっと重要な役割を果たしてなきゃおかしいと思います。
 何しろ、本作のメインテーマは「愛とは何か」であり、バオバブはほとんど物語に出てこないわけですから。
 
2・ファシズムを扱いたいなら他に出すところがある。
 
 第10章からの、王子さまが色々な星を巡り、色々な「大人たち」に出会うところ。
 もし本当に作者があの作品でファシズムを扱いたかったなら、あそこにファシストが……「指導者」とか「将軍」とか「主席」とか「統領」とか「総統」とかそういう名前で……登場してしかるべきだと思います。
 あるいは、ファシストに盲従する大衆が。
 
 しかし実際には、あの一連の話にファシストの「大人」は登場しません。
 「王様」は登場しますが、彼はファシズム的な人物ではありません。
 なにしろ地の文で「とても善良な人」と明記されてるくらいです。
 王子さまから見るとおかしな人ではありますが、他人に無理な命令は出さないのがモットーなわけですから。
 
 実のところ、あの作品でもっともファシズムに近いのは、点灯夫だと思います。
 自転周期が変わって自分の休息時間がなくなったにもかかわらず、「毎日一回ガス灯を点灯・消灯せよ」という指示にひたすら従い続けているわけですから。
 でも彼は、作中で最も好意的に描かれている大人ですからね……。
 
3・バオバブは我々にとって危険な木ではない。
 
 言うまでもなく、バオバブはアフリカには自生していて、特に危険なものではありません。
 作者は、それをアフリカで見たことがあるわけです。
 
 作者は「子どもたち、バオバブに気をつけろ!」と書いていますが、それはあくまで「将来子どもたちが旅に出て、小惑星に迷い込んだら危険だから」と書いています。
 地球ではバオバブは危険ではないのです。
 
 それがファシズムの象徴である、とするのはおかしいでしょう。
 もし本当にファシズムの象徴として何かを描くなら、まだ地球には普遍的でない何か……未知の病原体だかトリフィドだか、そんなようなものとして描いたのではないかと思います。

「Giant Kudzuがいったんはびこってしまったら、それを根絶するのは難しいんだ。
 奴らは逆に、自分たちを邪魔するものをみんな絞め殺し、追い出してしまう」
「子どもたち、Giant Kudzuに気をつけるんだ!」
 ……こういう話ならまあ「ファシズムの象徴」と言っても差し支えないと思うんですけどね。(イルミナティカードが予言だとか陰謀だとかいう妄説に与するわけではありません。念のため)
 
 ブコメ引用。
自称プラントハンターによる「星の王子さま バオバブの苗木」、大炎上により販売中止に | BUZZAP!(バザップ!)

ところで自分がバオバブに親しんだアフリカ人だったら星の王子さま読んで怒る自信がある。

2018/08/12 10:20
 もし本当に「バオバブファシズム」という意図だったら、それはある種のバオバブ差別ですわな……。
 

とはいえ。

 もちろん、バオバブファシズムの隠喩でないとしても、ああいうバオバブの売り方が望ましいとは思いません。
 
 そもそもバオバブって(ネットで調べた限りでは)夏場は日当たりの良い外に出してやらねばならない一方、冬は気温が5度以下になると枯れてしまうという、観葉植物として気軽に育てるにはちょっとハードルの高い植物だと思います。
 ガーデニングだか盆栽だかの経験がある人が買うならともかく、経験のない人に気軽にバンバン売るのは、「ファインディング・ニモ」需要で売れたカクレクマノミとか、「ハリー・ポッター」で売れたフクロウの仔みたいに、かわいそうな末路を辿ることになると思います。
 
 ……でも、あの「プラントハンター」の人って、「世界一のクリスマスツリー」の時には、富山の山中に生えていた樹齢150年のあすなろの木をはるばる神戸まで植え替えたあげく、イベント終了後はバラしてバングルとして売りさばいたわけですからね……。
 キャッチコピーは「輝け、いのちの樹」。
 NHKスペシャルに出てた時は、「植物の生態を把握して、最適な環境で育てるよう配慮するプロ」みたいな扱いだったけど、実のところ植物を延命することにはあんまり興味がないのかも知れない。
 
 あとさあ、あの「小さなバオバブは旅に出た」で始まる中学生のポエムみたいな文章、あれまさか「星の王子さま」をイメージしてるわけじゃないですよね?
 どう考えても文体が別物なんですけど。
 

ところで。個人的な感想文。

 私、「星の王子さま」が児童文学だとはあんまり思えないんですよね……。
 
 私自身は小学生の時に初めて本作を読んだんですが、正直言ってよく意味がわからなかった。
 
 言葉の意味が難しいとかではなくて、
「なんでこんなに子どもを持ち上げるんだろう? そして大人を悪く言うんだろう?」
 というのが理解できなかったのです。
 
 あの「大蛇のスケッチ」、小学生の私だって「あー、これは帽子にしか見えないね」と思いましたもの。

 作者もその辺は巧妙で、
「大人たちに見せても、みんな『それは帽子だ』と言う」
 ……とは書いていますが、
「子どもに見せると『大蛇だ!』と言う」
 とは書いてないんですよね。
 
 だから、あれを一目見て「大蛇だ」と見抜いた唯一の人である王子さまは、感性が子どもなのではなくて、何か特殊能力を持った人なのだろう、としか思えませんでした。
 絵に描いた箱の中にヤギが見えることも含めて。
 
 そして、王子さまは、「王様」やら「のんべえ」やらに出会うたび、「大人っておかしいなあ」と言うわけですが、なにしろサンプルが偏っている。
 少数のサンプルで大人全体について語るのは差別であり政治的に正しくないと思います。
 
 ……というのは冗談にしても、何しろ子どものころの私が知っている「大人」と言えば、まず両親であり、それから先生です。
 
 どの人も王様ではないし、ビジネスマンでもないし(父は公務員なので)、地理学者でも点灯夫でもなく、ありがたいことにアル中でもなく、うぬぼれ屋でも(たぶん)なかったのです。
 だから王子さまが「大人って……」と言うたびに、「えー?」って感じでした。
 
 中学生になって再読して、ようやく作者の言わんとすることがわかったのですが、それによって
「ああ、自分はもう純粋な『子ども』ではなくなったんだなあ……」
 というささやかな悲しみを覚えました。
 
 あの本で書かれている「子ども」というのは実際の子どもではなく、大人が懐かしむ、センチメンタリズムとしての「子ども」なんですよね。
 そこに共感できる人間はもう子どもではない。
 
 だから私は、「人間はいつ大人になるのか」と問われたら、「『星の王子さま』が理解できるようになったら大人」と答えることにしています。
 

付近の住民は語る。

 犯罪が起き、その判決が下った時に、しばしば「被害者/遺族には納得できない思いが云々」って話があります。
 
 しかし私が常々思うのは、犯罪の量刑に被害者やその親族・遺族の心情を酌量すべきでない、ということです。
 だって客観的な意見ではないに決まってるわけですから。
 
 例えば、昔、私がバッグを置き引きされたとき(現金はほとんど入ってなかったけれど、個人的に大事なノートとかが入っていた)、犯人が交通事故か何かで死んで欲しいと思いましたし。
 奧さんが(まだ結婚する前だったけど)痴漢に遭った話を聞いたときには、そいつが目の前にいたらホームから突き落としてやりたいと心底思いました。
 
 ……でも、じゃあ、置き引きは死刑、痴漢も死刑、というのが量刑として妥当か、といえば、まあ明らかにそうではない。
 
 だから、被害者やその親族が厳罰を望むのは人間として当然だし、それを非難することはもちろんできないのだけれど、しかし社会の側がそれに巻き込まれてはならない、ということなのです。
 刑罰の目的は、復讐ではないのですから。
 
 つまり何が言いたいかというと、私は低能先生を憎んでいるのです。
 彼が生涯娑婆を歩くことがありませんように。
 
 ……客観的に見れば、
低能先生自閉症スペクトラム障碍の疑いがあるのではないか。彼を包摂できなかった社会の側にも問題がある」
 といった話になろうかと思います。*1
 
 しかしそんなの糞食らえなのです。
 
 私は、別に殺されたhagex氏と知り合いだったわけではありません。ブログの読者だったわけですらありません。
(ブログ記事を30件くらいブクマしていたけど、それはたまたま流れてきたのを読んだだけで)
 
 しかしそれでも、「はてな村の有名人」として知ってはいたし、共感するところもあったわけで。
(そしてまた、私自身、度々低能先生から罵倒のidコールを受け取っていたわけで……。個人的には、通報を受けてアカウントをBANしていたはてなの対応が間違っていたとは思えません)
 私や、あるいは名のある…そして私同様に名もないはてなの人々が、hagex氏の死を悼み、低能先生を憎むのは、あるいは客観的には……政治的には正しくないかも知れないですが、今は許されるのではないかと思います。
 
 いや、hagex氏と親しかったけれど、それでも低能先生に慈悲の目を向けるような聖人がいるなら、それはそれで尊いことだとは思いますが。
 ただ、私以上によく知らないのに「殺される方にも落ち度があったんだろう」とかいう意見には私的な憤りを覚えます。
 
 一はてな民として、心よりhagex氏の死を惜しみ、哀悼の意を表します。
 

*1:全くの余談ながら、レイシストネット右翼が社会生活に問題を抱えている、といった話を聞くと、「社会的包摂が必要」と私は思います。
 ネオナチの若者が福祉施設でのボランティアを経験して、高齢者に感謝されたり仲間と協力し合ったりしたら、ネオナチから足を洗った、などという話もあり。
 そういうのが理想だ、という思いはあります。客観的には。